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なくしてからそのもの大切さに気づくとはよくいうが、有形のものが無に帰するというのはどんなことでもむなしいことだ。無常観もそうだし、文学の原動力にも、日常のメランコリックな気分にも、このむなしさはとうとうと流れている。
先日、生物についての話題の新書を読んだのだが、そこによるとどうやら人間を含め、生物の細胞を構成する原子というのは次々に新しい物に置き換わっているそうだ。皮膚のターンオーバーはよく聞く話だが、内臓や骨を構成する原子も次々に新たに取り入れたものに置き換わっている。著書の中に生命は原子の流れが部分的によどんで濃くなったところだ、といった記述があったのを覚えている。
なかなか信じがたい事実だが、そうなると人間という生命体は果たして有形のものなのだろうか?という疑問がわいてくる。目には見えない原子がなんとなく集まったところが私なら、私はもとから存在しないのではないか?今日の私と1年後の私はまったく異なった原子で構成されているのだから。
形あるものがなくなってしまうむなしさか、もともと存在しないものが(存在しているように見えていて)あるべき姿へと還元されていくことのむなしさか、どちらがつらいだろうか。私の場合は後者の方がなんだかとても安心できる。いや、安心というよりもむしろ幸運に近いものを感じる。意思のないタダのつぶつぶが偶然にもしかも正しく集まって、私を作っている。ここに存在することがラッキーなのだ。こう考えると、せっかくの神秘を自らの手で壊したいとは、とうてい思えなくなる。
まぁこれは主観の問題である。いずれにせよ、有なのか無なのかわからない私たちは実にあいまいな存在である。しかし、そのあいまいな中にただひとつ明確なことがある。目にも見えないし、どこにあるのかさえ分からないが、この体のなかに感情をひしと受け止めることができる。感情なんて錯覚かもしれなし脳みそのいたずらかもしれない。けれど、私を駆り立てるものはその感情以外にはありえないのだ。そして思うに、人間はこの「感情」を頼りに短くて長い歴史を歩んできたのだ。私たちは有るのか無いのかということを考えるのは楽しいが、その終わりの無い議論からちょっとはなれて休みをとる場所も必要なのだと思う。
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 日本人として生まれて日本語に囲まれて育ち、12歳から英語を習い始めておよそ6年間親しんで、前者はかなり自由に、後者は少しばかり操れるようになった。そこに今年からドイツ語が加わり、調子に乗ってラテン語にも首を突っ込んだ。
 語学の予習に追われる1年間で、無駄に時間を取られることもあったが、私はそれなりに得るところも大きかったのではないかと思っている。なによりも、文法の存在がいかにありがたいかということを、身をもって感じた。
 今年の4月までは、私はドイツ語についてもラテン語についても語学的知識は皆無であった。しかし先頃、両者とも文法の学習が一通り終了し、早くもまとまった文章を読む段階に突入したのだ。夏休みをはさんでいるから、実質約半年しか学習していないにもかかわらず、辞書さえあれば文章をそれなりに読めるようになってしまったのである。ドイツ語ではカフカの短編を、ラテン語ではオウィディウスとかウェルギリウスとかを読んでいる。
 こんなにも早く文章が読めるようになったのには、いくつか理由がある。ひとつには、英語という第一外国語の学習体験が、教訓として働いたということがあるだろう。しかもドイツ語もラテン語も結局は西欧語であるから、英語の感覚がおおむね通用する。その事実も重要である。
 しかし、やはり一番大きいのは、文法の力だと思う。とにかく文法さえわかっていれば、辞書が正しく引ける。そうなれば勢い、大概の文章がなんとなくでも理解できるようになる。例えば動詞がどのように活用するかということを実生活の経験から割り出そうと思えば、とてつもない時間がかかるが、その点、体系化された文法を学習することは非常に効率的なのである。
 ただしこの学習法は、会話などの生活に密着した部分には明らかに弱い。それが証拠に、私は全くと言っていいほどドイツ語会話、ラテン語会話ができない。もちろんラテン語についてはすでに死語であり、会話する必要はないのだけれど。「口をついて出る」ようになるには、現地での生活、その国の映画や歌との触れ合いなどが、また別に必要なのであろう。

池上彰氏の書いた「そうだったのか!現代史」のパート2を読んでいる。池上氏は「週刊子どもニュース」でお父さん役を務めていたジャーナリスト,と言えばお分かりの方は多いと思われる。

 

本は現代史,およそ戦後からイラク戦争にいたるまで,特にややこしい世界の政治的問題を分かりやすく解説するものである。例えば冷戦,核開発,イスラエルといったものからアウン=サン=スー=チー氏,文化大革命やポル・ポトまで,意外と文献や正確な情報の少ないもの,むしろ何を正確とするか掴みにくいものまで,ニュース記事を主として分析している。共感を誘う池上氏のコメントもあって,キナ臭いテーマまで読みやすくなっている。

 

ところで,このように現代史について読む,ないし書くことがあるたびに,「同時代」という言葉が頭に浮かぶ。生きている間,他人と同じ間の時代,ということであるが,生きていることはこれを意識するには余りに平凡である,とよく感じる。

 

例えば,学者なんぞはグローバリゼーションの功罪を論じ,この格段に進んだ形を我々の同時代人は体験するであろうに,今はなんともお気楽に多文化主義など言われる。金融危機は世界の構造の脆さを露呈しただろうに,その意義は差し置き雇用問題である。もっとも,これは余りに切実なだけに悪いことではないのだが。

 

教育においても然り,学級崩壊やいじめ,不登校が広くいわれるようになり,「ゆとり教育」の名の下で学力偏重への改善が行われたかと思いきや,さっそくバックラッシュを食らったのが,我々が小学校~大学生といったところの同時代である。

 

「江戸時代の人間は幕府が倒れるなど想像もしなかった」とはよくある指摘である。社会分析を聞いたり,歴史を読んだり教えたりすると,その度ごとにそれら解釈というものがいかに後からみると整然として行いうるかが伝わってくる。明日のニュースには,後世「大きな転換点」とでも言われるような事件が起こるかもしれない。今知識を持つ人々はは子どもの代にはもはや「時代の生き証人」扱いかもしれない。未来には可能性があると自分も考えるのだが,その一方でこのスリルというか,寒気と言うかが感じ取れるのである。

「や」は優しい音。癒す音。「あ」を包む半母音/y/のクッションは何事も受け入れる優しさ。イ段の全てについて拗音を形成するのも、そういった人当たりの良さから。

や行の「い」というのは、母音/i/の半母音化したものにまた/i/が付くのであるから、実質的にはあ行の「い」と区別が出来ない。しかも、ヤ行で活用する動詞は、古語では「老ゆ」などがあったが、現代語では絶滅してしまっている。五十音の中でも幻の音と呼べるだろう。

「ゆ」はゆらゆらと揺れ、歪んだ夢を見るような幻想的な音。ゆっくりと暖まりゆくお湯のじわじわ。/y/と/u/の微妙な口の変化がゆっくりと空気の流れを変える。

や行の「え」は上代には「いぇ」で、発音上区別があったと推測される。しかし、ワ行の「ゑ」と違い早くにあ行と同化したために、記号を与えられなかったかわいそうな音。

「よ」は寄りつく音。それは夜の闇のように。それは世の中の余計なよしなしごとのように。いつも我々を呼ぶ黄泉の声のように。

高校一年の冬、二年生から学ぶ理科の科目選択があった。私たちは一年時に全員化学を受講していたので、文科系生徒は生物と地学から、理科系生徒は物理と生物から、それぞれ選択しなければならなかった。それに先立って、物理と生物の担当教員から、それぞれの科目の魅力が語られた。地学の話は覚えていなくて申し訳ない。

物理の先生は、一本のペンを手に持ち、クルッと回して見せた。

「みなさんも回してみてください。なぜペンは回るのでしょうか。この単純な動きも、実は物理学的なさまざまな力が働いて起こることなのです。」

小道具を使った気味の良い演出に、特段何の準備もしていなかった生物の先生も対抗意識を燃やした。「これちょっと貸して。」と言って、物理の先生からペンを受け取り、彼がやったのと同じようにそれを手に持った。

「みなさん、このようにペンを持って下さい。回しませんよ。」

笑いが起こった。

「さて、みなさんに質問です。このペンは生きていますか。」

 私はこの問いに魅了された。無論ペンが生きていようはずはない。この問いには、「ペンが生きていないということをどうしてあなたは断言できるのか。」「“生きている”とはそもそもどういうことなのか。」という根源的な問題が内包されていたのである。

 私はすぐさま生物を選択することを決めた。生きているとはどういうことか、それを知りたかった。ところがその答えが授業の中で示されることはなかった。細胞のつくり、カエルの発生、遺伝の法則……。ひとつひとつは面白い内容だけれど、それらの細やかな事実の集積から何が言えるのかというと、結局何もないのであった。

 それで私は今もその答えを探し続けているのだ。生命科学の研究室に通い、「万霊の長」のさらに長たる人間たちと様々に交わり、来ては去りゆく季節に触れて自然の息遣いを感じながら、私は常に考えている。

 今日、「ちひさき鳥」がすべて飛びたった銀杏の木の骨格が、何と美しいのかと思った。その美しさは複雑さにある。複雑だからこそ、知りたくもある。

 感情にも形があるのではないかと思うことがある。人が怒ったり泣いたりすると、顔だけでなく心も普段の形を失い、奇妙に歪んだ姿を見せる。
 心には平静の状態がある。イメージ的には綺麗な球体のような形をしている。心は何事も起こらない日常においては平静の状態を保っており、それが最も自然な形である。よって心はどんな状況になろうと出来る限り平静な状態でいようとする。
 ところが心は思わぬ出来事(勿論それは各人の心で様々である)に出くわしショックを受けると、大きなストレスを抱える。このストレスは心に過剰な力を溜め込ませてしまう。この時心は大きく歪むのである。平静な状態の球体は内からある方向に片寄って力が加わり、普段と異なるいびつな姿に変わってしまう。過剰な力を何とか解消しない限り、心は平静な状態に戻ることができない。しかしながら心がその力を抑え込むのは相当に困難なことである。また器を持たない心そのものが直接外の世界、現実に力を発散させることもできない。
 ここで心と身体の密接なつながりが発揮される。心のストレスが発生すると同時にそれはすぐ身体に伝わり、身体がストレスに対応する反応を起こす。つまり内に秘められた力が外に解放されるのである。こうして心に発生した力はほとんど解放される。また身体は心の歪みを実に上手に表現し、他者への理解を促す。内なる心にとっての最大の至福の一つは外の世界が自分をよく分かってくれることである。それゆえこれもまた、心の平静を取り戻す大きな要素となる。
 この時心は、一部に異様に力が加わり張りつめた形から段々と角がとれて丸みを帯び、やがて元の球体へと戻る。おそらく心が平静な状態の形に戻るまでの過程は、身体が反応してから元に戻るまでの過程とほとんど時間を違わず対応しているのだろう。心の張りが身体中を貫き、突き動かす原動力となっているのである。そして身体の普段と異なる動きは心がどんな異状にあるのかを忠実に表しているのである…

ということを、ぶつかりそうになったバイクに乗っていたお爺さんの顔を見て思った。しかし例えば怒った時の心の張りつめた形は想像しやすいが、悲しい時心は一体どんな風に張りつめた形をしているのかなかなか想像がつかない。球体がどう歪んでいくのか、じっくり観てみたいものだと思ったのだった。

 この間ひょんなことから炭火を起こして芋を焼きました。薩摩芋は案外きれいに焼けるものです。ほくほく,しかし皮はちょっと焦げてしまい,でもかえってクリスピーでおいしい,そういう状態。別に気取ってかまどを使ったり,盛大に組み木をしたりとか,そういうことはありません。鉄板(拾った)の上に新聞と木炭を置いて,火をつけた,それだけです。後は芋を置いてほっといただけです。

 練習途中のイベントだっただけに,時間の余裕が無く,置き火になったところで芋のいくつかを放置して練習に移りました。練習後,既に3時間は経っていたのですが,出てきてみるとまだ火はついていました。芋はよくよく焼けていました。食べられないほどクリスピー。

 しかしよく持つものです。十二分に暖かいんです,3時間後の炭火は。もの凄く便利です。ほっといたのに暖かいんですから。我々もはや火鉢なんぞ使いません。炭火とは遠足の代名詞,林間学校の懐古でしかありません。しかし炭火は便利です。今すぐ炭火の実用化を。

 …と考えても,今の生活では炭火は使えません。練炭自殺はもはや茶飯事ともいえるんですから。今の生活とは「断熱」の世界でございます。外から入るものは拒み,内からでていくものも止めるんでございます。

 火鉢が使えた家というのはある意味隙間風が通るかでした。それは寒いんですが,火鉢を使う空気の余裕があったわけです。今は完全密閉断熱機構の家です。風一つ通しません。それはそれで暖かいものですが,火鉢は使えません。

 「現代は密室の中にある」というのは飛躍ですが,そういうイメージをいろいろ過ぎらせることができるような情景が,炭火の向こうに揺らめいて見えました。これだから現代人は息苦しい生活をしている,というようなこじ付けに走りはしません。しかし,「古き良き」とかを語る以前に,すっかりシステムが変わってしまったことを自覚することが必要だろうな,と思った次第です。

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