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泥だんごを小さい時にはよく作った。見立て遊びの中で食事になったり,武器になったり。その材料となる「さら粉」(砂場の中でも一番細かい砂)を篩ってつくったものだった。
最後に作ったのはいつだっただろうか。砂場卒業と同時にもう作らなくなったであろうか。そんなことを砂場を見ながら考えていると,「光る泥だんご」のことを思い出した。
中学時代頃に知っただろうか。単に土に水を入れて捏ねて丸めるだけではない。その捏ねて球体にし,そこに砂の種類を選んで重ねていき,脱水,研磨などの工程を経てつくられるものである。出来上がったものは非常につややかで,珠のようである。2時間から3時間かけて作られるそうだ。
グーグル検索をしてもかなりの数ヒットする。キットや,「泥だんごに適した砂」も売っている。そして日本泥だんご科学協会ANDSなるものも存在する。海外向けに数ヶ国語で書かれたサイトもあった。泥を捏ねて遊ぶ文化がどれだけあるか分からないが,大したものである。
愛好者,コレクター,超絶テクニック保持者,神童様々な人がこの業界にいるらしい。決して大人のマニアックな道楽ではなく,4歳の子どもでも出来ることである,とのことである。でも「それを使って遊ぼう」という発想になかなか出会わなかった。当然つくる手間が念を入れるポイントで,結果できるものがキラキラとしたきれいなものだし,それでいいのだろうが。ただ,そこにある何の変哲の無いものから,たこ焼きや砲弾が出来たあの楽しみというものは,やはりベタベタで泥の色をした,あの泥だんごにだけあったような気がする。
「泥だんご」というところに郷愁を感じることも人気,意外性も人気,それはよく分かる。ただ,一番郷愁の対象となるだろう「見立てる」こと,想像力というか,それはやっぱり小さい時にだけのものなのかな,と思った。
た行の音は、純粋なt音を持たない「ち」「つ」を除いて、おおむね文章の骨格を形作るのに貢献している。
「た」は過去の助動詞、断定の助動詞、或いは男子の名の末尾。「た」で終わる文章はたくさん大量に多量にあり、文章を終えて他者へ引き渡すのであった。
「ち」は「血」「痴」「恥」「稚」。ちょっとしたタブー、あまり見たくないもの、できれば話題に上るのを避けたいもの。であるにもかかわらず、「し」と同様に子音が変化しているために弁別性が強く、日本語の単語に多用される音声であるから、いくら恥ずかしくても発音せずにはいられない。伝えたいけど恥ずかしい、言葉の二面性を代表するかのような音。
(ちなみに、先週書くべきことだったが、日本語には「し」で始まる単語が一番多いようだ)
「つ」は詰まる音。つっかえる音。「つ」で変換される漢字は少なく、日本語で一番短い音かもしれない。音の長さがゼロの促音は小さい「っ」で表される。
「て」は「手」しか対応する漢字を持たず、それ以外はほぼ「てにをは」の「て」であり、文章をゆるやかに流してゆく。
「と」は接続や引用や並立の助詞で、「て」に比べると、一旦文章の流れを遮って展開させる働きをする。
細やかな表現というのは情景描写のみにとどまらず、微妙な気持ちの揺れにまで至っている。そういった作家さんの中でも特に私が心引かれるのは幸田文さんだ。私が評するなど大それたことだが、彼女の文章は日常で感じるふとしたこと、文字にして起こさなければきっと通り過ぎてしまうささやかな感情を丁寧に拾っている、そんな気がする。想像下手の私が「よっこいしょ」と頭を働かせずとも、情景が、人物の感情が、すっと私の中に流れ込んでくるのだ。
これは逆に文章を書く側の「よっこいしょ」のおかげだろう。書き手は自分の作品の雰囲気は分かっている。読み手の頭の中に自分の構想をそっくりそのまま再現させるためには、相当の情景やら何やらを文字に起こさないといけない。このためのひと手間が書き手の「よっこいしょ」なのである。息をのむような紅葉の世界や、秋のちょっぴりセンチメンタルな気分でさえ、文字を介してそっくりそのまま他の人に伝えることは難しい。地味で面倒な「よっこいしょ」無しにには書き手として何も始まらない。そう感じさせる彼女の文章だった。
本格的に寒くなってきた。身にしみる寒さをいかにして表現するか。文学的な一大問題であろう。
私の思う最高の答えは、高校時代に習った一首の短歌にある。
志賀の浦や 遠ざかりゆく波間よりこほりて出る有明の月
新古今和歌集の第639番目に収められた、藤原家隆の歌である。なんとも、よむたびにぞっとする、見事としか言いようがない。
高校の授業では、この歌を「本歌取り」の説明という文脈で習った。この歌は、後拾遺和歌集の第419番、快覚法師による
さ夜ふくるまヽに汀やこほるらん 遠ざかりゆく志賀の浦波
を念頭に置き、主題を借りて詠まれている、ということである。そうすることで一首の中に二首分の情報量と、それ以上の情感を込めることができる。要するに、使うとお得だけれど、使うのはなかなか難しい修辞技巧なのである。
技巧的なすばらしさはともかくとして、この凛とした清艶さはどうだろう。とても言葉による表現がなしうる業とは思えない。夜が更けて、水際から少しずつ凍ってゆく湖面。ピシピシ……という頭痛を誘うような音が聞こえてきそうだ。そしてそこから凍った月が登場する。注意してほしいのは、この月が「氷のような月」ではなく、「それじたい凍った月」であるという点である。水の氷点は零度だが、月の氷点はあきらかにそれよりも低い。さらにこの月は三日月を反転させたような細長い形であると推定され、硬くて鋭い刃物のような強烈な印象をよむ者に与える。
夜中帰りのバスに乗り込み席についてほっと一息つくと、何ともなしに外を眺めてしまう。暗くなっても減らない車たちの騒がしいライトや店の電飾がよく映えている。
ふと思いついて、眼鏡を外して裸眼でもう一度外を眺めてみる。すると、先ほどまで一つの点に見えていた光が八つの点に分かれて円状に並んでいる。乱視気味のせいなのかこんなことが起こってしまうのであるが、これが異様な光景なのである。目が悪いので車や店はほとんど見えない。ただ光だけがはっきり見える。しかし光もはっきり見えるといってもその存在がはっきりするだけで、光を発しているものの形はまるで見分けがつかない。眼前に広がるのは、円状に並ぶ色とりどりの小さな点々だけなのである。
その点々は微妙な規則性をもっていきなり消えてしまったり、ゆっくりと点いたりする。クリスマスのイルミネーションのようなうっとりするものではない、ということは強調しておく。むしろ、真っ暗な深海に潜んで光を発するヘンテコな生き物たちのようである。私も深海の住民となって漂いながら、他の生き物を眺めている。私はどんな光を出しているのだろうか。
最近買った電灯を点けて、正面からジッと見る。当然まぶしい。目に光の跡が焼きつく。ここで目を閉じてみると、真っ暗な中で青緑色の光の跡がぼんやり映っている。しかし妙に形が崩れていて、生物の教科書に出てくる微生物のように見える。しかもこいつは瞬きするた
びに移動するのである。目を開けていた一瞬の隙にあらぬ方向に飛んでいる。何とか正面に据えようと何度も瞬きするが、どんどん視界(盲界?)から外れていく。しかしいなくなってしまうわけでもなく、気づけば隅のほうにいる。これも元気なものだ。
目と光は多分普段はありのままの現実をしっかり私に伝えてくれている。しかしたまにはそれに飽きてしまって、ありもしない生き物を頭に映し出して私をびっくりさせるのである。
最近いろいろと読み齧っては散らかしている。一章だけ読んだり,「よりみちパン!セ」のような少ないが濃い部類を読んだり。何かしら集中力が尽きているのかもしれない。そんな今日は中野孝次氏の「清貧の思想」を手にとった。この春から下宿にずーっと置いていたものである。散らかしてないで蓄積を消費しろ,と自分には言い聞かせていたのだが。
そんなわけでまだ読み出したばかりである。よって評など出来ない。だがこの本の大体方向性は察してもらえるのではないだろうか。物欲の時代における日本古来からある「清貧」の考えの再発見,という感じで始まる。ここでちょっとした疑問を思いついた。
何故「清貧」は尊いのか?である。堀口大學氏の詩の一説「晴れた日は散歩をしよう 貧しくば心に富もう」を思い出した。現代でもずいぶんの人が共感なり教訓なりを受け取るのではと思うが,何故物欲に生きることは背徳となり,貧しくも高潔な人は評価されるか。
人間原始の状態を考えてみると,所有こそは力であり,富めることとは最大の徳であったはずである。余剰生産力を手にした瞬間に身分が生まれた,身分の根拠とは蓄積された富である。いや蓄積された富が身分を生んだ。所有したい,富裕になりたい,とは生活のモチベーションとして唯一無双のものであり続けてもおかしくないのではないか。
それにアンチテーゼが生まれた。中野孝次氏も先の本の中で指摘する通り,宗教,身近な例では仏教である。一切の無常,魂と業の関係など,所有即ち富の思想の全くの逆である。その思想が様々に影響を与えてこの日本の伝統とされているものの一部(武士道や処々の家訓…)となっているように感じる。
しかし,根本的にこの発想は今語られている限り「悟った」という発生方法以外のものが出てこない。王室に育ったガウタマ・シッダールタは何故こう悟ることが出来たのだ?単なる逆転の発想なのだろうか。逆転とは死に近い生き方をすることにつながる。信仰の力を過小評価しているわけではない。しかし分からない。「悟った」では解決できない価値観創造の瞬間は宇宙の始まりにも似ている。
サ行は摩擦音であり、息の漏れる音がする。
「し」のみ、摩擦させる位置が奥にずれるが、これは次のi音に移行しやすいためである。
「さ」はさりげない音。サッと早い、小さくて些細でささやかな音。
「し」は静かな音。人差し指を立てて口に当て、声帯を震わさずに出す「し」音は、ホワイトノイズに近く、マスキング効果により沈黙を促す。
「す」は精神を研ぎ澄ました呼吸。日本語の最も基本的な動詞「す」は何かに心を向けて事を為す、人間の行為の根本を表現している。
「せ」は醤油でいいんじゃないですか?
「そ」は「其れ」。最も中性的な代名詞。あらゆる名詞は「そ」で置き換えることが出来る。汎神論の神とは「そ」のようなものかも知れない。