05 | 2025/06 | 07 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 |
8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 |
15 | 16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 |
22 | 23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
29 | 30 |
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
〈肆〉『孝太郎』の現状
2007年9月の第10号公開以降、『孝太郎』の本業である文芸誌の刊行は行われていない。かれこれ1年半近く、『孝太郎』は「デイリー孝太郎」の連載を生命線として活動を続けてきた。現状を分析するにあたっても、したがって、「デイリー」のあり方を議論することとなる。
ふつう、文章あるいは〈ことば〉というものは、“誰が誰に向かって何のために発するのか”ということが明らかなときはじめて意味をなす。背景のない〈ことば〉そのものが独立しうるのは、宗教の聖典でなければ超一流の文学の場合のみである。我々が日常的に扱う〈ことば〉には、必ず〈主体〉・〈対象〉・〈目的〉が付随する。
ところが「デイリー孝太郎」は、形式上、聖書の類に入ってしまっていたのである。「デイリー」の記事は匿名である。したがって誰が書いているのか読む者にはわからない。つまり〈主体〉があいまいなのである。文章を公表する場合、〈対象〉はもっとも不明確になりやすい要素である。「デイリー」の場合、一応『孝太郎』の読者ということになっていると思うが、それがどういう人々なのかは正確にはわからない。ほとんどが同級生であると想定されるが、ネット上で公開しているため、そうでない読者もいるかもしれない。そして〈目的〉がいちばんはっきりしない。「なぜこれを書いているのか?」私も「デイリー孝太郎」執筆者の一員として、たびたびこの疑問を抱いた。
こうして見ると、「デイリー孝太郎」は、性質的には「天声人語」に酷似している。筆者は匿名で、読者は不特定多数である。しかし、やはり〈目的〉の明確度をくらべれば、「デイリー」のほうが劣ってしまう。「天声人語」は朝日新聞の目標(おそらくニュースの伝達と世論の形成)を達成するための一翼を担っているはずである。筆者は朝日新聞の理念に則って(悪く言えば「縛られて」)あの261文字を埋めているに違いない。ところが「デイリー」にはそういった目標がまるでない。少なくともないように見える。その結果、今日に至るまで、それぞれの担当者の思惑が入り乱れた連載が、漫然と続くことになってしまったのである。
もちろん、企画を考案した編集長にはある程度のイメージなりプランなりがあったのだろう。しかし彼はそれを事細かに語ることをせず、私たちもそれをくみ取ることができなかったのだと思う。とても残念である。そこで、とりあえず私は、読者が誰であろうと、読んだ人がそれをきっかけに何かを考えてくれるようなもの、新しい視点を与える楽しいもの、というぐらいの目標を立てて記事を書いてきた。しかし、読んで楽しいものを書こうと思えば、まずは書く私が楽しんで書かなければならない。私の生活範囲はごく限られている。バスでの通学、大学での聴講・ゼミ、自宅での時間。おおよそその3つしか場面がない。読む本も堅苦しいものが多くなってきた。読んで楽しい話題を1週間に1度文章化するというのは、思いのほか至難の業なのである。ある程度の期間は楽しく書いていても、週に1度の連載が私の〈ノルマ〉〈義務〉であるような感じが、だんだんと増してくる。そうなると気分は重くなり、おのずと文章もぎごちなく稚拙なものになってしまうのである。
私が見るに、「デイリー孝太郎」の5~7人の担当者は、週に1度の執筆に関してそれぞれに苦悩を抱え、さまざまな方法で乗り切ろうとしてきた。だがそれらの作戦の多くは、言葉は悪いが苦し紛れであり、『孝太郎』の精神とはおそらく合致しないものである。以下ではその一部を分析しようと思う。すでに述べたように、問題は「デイリー」のシステム自体にあるのだから、執筆者個人を攻撃することは避けるべきだと私は考えている。したがって、私が書いた記事以外は、すべて一般論として批判することとする。実際のところ、たいがいの〈苦し紛れ〉は私自身が通った道でもあるので、批判というよりむしろ自省という方が当っているかもしれない。
まず、週に1度のペースが苦しくなってきた担当者は、〈シリーズもの〉で回避しようとする。これは、過去にさかのぼってみても現在の状況を見ても、一目瞭然の現象である。「デイリー孝太郎」では、記事の内容は全面的に担当者に任されている。各担当者は自分の曜日については完全に〈自由〉が与えられているのだ。しかし〈自由〉であることが悩みの種になるのは世の常で、悩んだ担当者は打開策としてシリーズを組み、執筆内容に制限を加えることで自由からの逃走を図るのである。
もちろんシリーズと名の付くものすべてが悪いわけではない。シリーズ化することで発想の幅を自ら進んで狭め、「書き易さ」を求めているとしたら、それは『孝太郎』の理念に反するのではないかと言いたいのである。この「『孝太郎』から遠く離れて」も確かにシリーズものではあるが、これはひとつのまとまった文章を6回に分けて掲載しているだけなので、私がいま問題にしているところの〈シリーズもの〉とは性質を異にしていると思う。
悪い〈シリーズもの〉の例としては、私がある時期に試みた「変奏曲」シリーズがまさに当てはまる。原稿締切日の毎週日曜日、私はまず、過去1週間分の「デイリー孝太郎」の記事を読む。もちろんすべて他人の作品である。その中で一番興味深いと感じたものをひとつ取り上げる。それが「○○」というタイトルの記事だったとすると、私のすることは、その文章の主題を別の角度でとらえたり私なりの解釈をつけたりして、“「○○」の主題による変奏曲”というタイトルで書きなおすことである。「○○」を参考にしていることは明言しているし、文体は完全に私の味付けになっているので、剽窃ではないのだが、どうしても手抜き感は否めない。一応それらしい言い訳はある。『孝太郎』の理念は、「双方向のことばの交流」である。したがって、「デイリー」の担当者同士が、互いの文章に影響を与えあうことも時には必要なのではないか、と。しかし、我が身を振り返ってみれば、そういう格好の良い信念よりも、「楽をしたい」という気持ちの方が強かった。調子に乗って数ヶ月このシリーズを続けたことで、『孝太郎』全体に漂う停滞感に拍車をかけてしまったような気がする。
もうひとつ、私を含め、多くの担当者が実行してきた〈苦し紛れ〉が〈知識を書く〉ことである。これも、その行為自体が悪いわけではないが、「デイリー孝太郎」の記事としては適切とは言えないのではないかと思う。〈知識〉は主に大学の講義で得られたものである。例えば、私は1回生の前・後期を通じてラテン語の講義を受けていたが、そこでは淡々とした文法の解説の合間に、ラテン語やラテン文化に関する様々な雑学的知識を聞くことができた。そういったものを私は何度か「デイリー」の題材として使ったことがある。確かにそれは〈面白い〉話ではある。しかしそれは、ひとつの閉じた〈知識〉でしかなく、そこから考えの発展や新しい発想が生まれる余地はない。読者はそれを受容する以外、何もできないのである。私も他の担当者も、おそらく〈つなぎ〉という気持ちでこうした記事を提出していた。私などは、話題の在庫が乏しくなってくると、たびたび知識をひけらかした。ブログのカレンダーをただ埋めているに等しいような記事もあり、編集長には申し訳なく思っている。
「双方向のことばのやりとり」――これが『孝太郎』の精神であるとするならば、「デイリー孝太郎」はそれをほとんど実現できていない。それどころか、少し厳しい言い方になるが、〈ことば〉に対して失礼なことをしてきたのではないかとさえ私には思われる。
「ことばのキャッチボール」という言い回しがよく使われるが、我々はこの意味をもう一度よく考えてみければならない。ひとまず簡単には〈双方向〉ということである。〈ことば〉は、特別な場合を除いては、発信者と受領者がいなくては成立しない。そしてその二者の役割は、常に入れ替わっていなければならない。〈ことば〉を受け取った者が次の瞬間発信者になって初めて、〈ことば〉は生きてくる。
さらに我々は、〈キャッチボール〉の性質に考察を加える必要がある。第一にキャッチボールでは、使われるボールはひとつである。したがって、〈ことば〉を伝え合う構造の基本は、
A:こんにちは。
B:こんにちは。
というやりとりにあるのである。ここには、Aが発信し、Bが受領し、Bが発信する、という3段階のプロセスが認められる。そして発信され受領される〈テーマ〉(〈ことば〉ではない)は基本的にひとつである。これは単なるオウム返しではない。オウム返しの場合は、「Bの受領」の段階が飛んでいる。〈ことば〉が生き生きと伝わるには、受け手が送り手の〈ことば〉をよく噛み砕き、テーマを理解することが必要なのである。
第二に、キャッチボールでは、ボールを投げたら投げた人の手からはボールはなくなる。これはあまり言われていないことであるが、私は最近、〈ことば〉に関しても同じことが言えるのではないかと考えている。〈私〉がある〈ことば〉を発するとは、その〈ことば〉を〈私〉自身から抜き取って相手に投げることである。その瞬間、その〈ことば〉は〈私〉のものではなくなる。だが、相手がきちんとそれを受け取ってくれ、しかるべき応答をしてくれれば、すなわち投げ返してくれれば、〈私〉はその〈ことば〉を自分のものとしなおすことができる。ところが、相手がいないとき、相手が無視したときは、その〈ことば〉は遥か彼方へと飛んで行き、二度と〈私〉の手元へは帰ってこないのである。〈私〉はそこで、ひとつの〈ことば〉を喪失することになる。
極言すれば、「デイリー孝太郎」は〈ことば〉の喪失を促進していたのではないかと私には思われるのである。目的も見えず、投げかける相手もぼんやりとかすみ、応答もほとんど得られない。そんな中で毎週記事を書き続けるのはたいへん辛いものである。〈ことば〉はどんどん奪われてゆき、気力も失われてしまう。今思えばそれは当然の結果であった。「天声人語」も確かに似たようなコンディションの中で百余年続いてきた。しかし彼らはプロである。我々はプロではないのだから。
〈ことば〉がそれ自体で威力を発揮することはめったにない。なによりもそれを取り巻く環境、すなわち送り手と受け手と目的の存在が必須である。それらを欠いてしまった〈ことば〉の体系がどのような運命をたどるのか。「デイリー孝太郎」は、我々によき教訓を残してくれたのではないだろうか。
模様替えは自分から思い付いたのではない。そもそも私の部屋では収納スペースが少なく、畳んだ服が床にゴロゴロ並んでいる状況が続いていた。それを見かねたのであろう、母がタンスを他の部屋から持ってきて使ったらどうかと提案してきた。その時初めて、ついでだから模様替えもしてしまおうかと思い立ったのである。
この思い立ちには理由があった。実は私はそれまで寝るときや着替えるときくらいしか部屋を使わなかったのである。部屋に自分の所有物が並んではいるがそれらを使ったりすることもあまりない。また私とは関係のないものが入った大きな洋服タンスがあったりと、自分の部屋というよりは物置に近い感じであった。他の人の部屋と比べると、かなり生活感の乏しいものだったのである。
そんなわけで私は自分の部屋を持つという感覚が少々稀薄すぎると思っていた。そこで一度模様替えをして、少しは居たくなる部屋、自分の思う姿を反映させた部屋を作り、自分の部屋にいるとはどんな感覚なのであろうかということを実感しようという試みに出た。
またもう一つの理由に、まともな部屋というのが、まともな人間でいようとする意識を維持するのに役立つかもしれない、という期待を持ったためである。あるモノの存在が人の意識を変えることはよくある。モノに対する依存度が強ければ強いほど意識への影響も大きいので、今は自分の部屋はさほど私に影響を及ぼさないのかもしれないが。
以上のような思いで模様替えをした。やはり最初は違和感を覚える部屋である。とにかく部屋に慣れ親しむのがこの春休みの目標の一つになりそうだ。
先日傘が教室に置き忘れてあって,調べてみたら骨が折れていました。大学生ともなれば傘には名前を書かない。しかも壊れ物。そういうわけで届けるのも機が引け,それでいて駆け出しの吝嗇家を名乗る身としては放って置けず,持って帰りました。置き去りにしたら迷惑だしね。まあ,これも拾得物横領ですけど。
それで帰って調べると,骨が一部外れていることが分かりました。釘のようなものが外れていたわけです。そこで私はゼムクリップ,針金で出来てるあれです,あれを持ってきてのばして骨を止めました。思いつきでやってみたら,案外綺麗にがっちり留まって,新品…ではないですが,問題なく使える範囲にはなりました。今,これが普段の傘です。
最近,自分でノートを作ったりもしてます。普通の紙,A4なりB5なりの紙を束ねて,ステープラーで留めて,背をつける。それだけ。
貧乏性,と一言食らうかもしれませんね。でも金の話だけでなく,自分で作ったり修理したり出来るならば,いい話ではないですか。晩ごはんのおかずを考えると,手作りだと何か嬉しくなる人が多いですし,全部出来合い,っていうと一般にはマイナスイメージです。何故料理だけなのかなと思うわけです。
既製品社会,とでも言うでしょうか。商品社会にはまだハンドメイドが普通に見られてもおかしくないのですが,今は手作りが価値になっている,それは手作りが売られる価値になったことを指すわけです。手作りって商品を「企業が製造して」売るあたりまさにそうです。コンビニのおにぎりとかですね。
あと,既製品ばかりだと完全でないと嫌と思い易い気がします。早く捨てて新しいの買え,ってやつです。修理品はかっこ悪い。自分で作ったなんてよくやるよ。そういう声が広まり,そして雑巾ですら,真っ白で縫いつけたのが包装されて売ってある社会です。
エコだからリユースしろ,とかの論議以前に,物を大切に,とかの観念論の前に,既製品に慣れてしまっていることを自覚したらどうなのかな?と思います。しょーもない商品で溢れる世間を嘆くなら,自分で出来ることを自分ですれば,そういうものは駆逐されて既製品のほうも安閑とは出来なくなるわけです。修理とか自作とかの技術つけるには,とりあえずこちらの側が安閑と出来ない,という問題は,まあ,ありますが。
ベートーヴェン、ショパン、ラフマニノフ、と「ベタ」な人が3人続いたので、ここらで一人の日本人の作曲家を紹介しておこう。
それは、音楽の教科書に載っていた八橋検校…ではない。「花の街」の團伊玖磨でもないし、「ゆうがたクインテット」(1)の宮川彬でもない。芥川龍之介の三男、芥川也寸志である。
彼は1925年生まれ、そして今年で也寸志没後20年になる。
彼はクラシック作品だけでなく、多くの映画音楽をのこしている(2)。彼の作品はしばしば、ショスタコーヴィチやプロコフィエフといったロシアの作曲家(3)の作品と似ていると言われる。確かに、似ているというか、これはマネしたんじゃないか、という曲もある。これは芥川自身も、自身の交響曲第1番に関して、ショスタコやプロコ(4)のような音がする、と認めている。
今年は、没後20年、ということで、廃盤(?)になっていたCDが再発売されるようである。それには芥川の有名曲がだいたい入っていて、楽しい。すべてとても親しみやすい曲であるので、一度きいてみてほしい。
(1) NHK教育で放送されている番組。退屈せずクラシックに親しめるので、大人にもおススメ。
(2) 「八甲田山」や「赤穂浪士」など、きいたことのあるものが多いだろう。犬が出てくる携帯電話のCM(少し前にやってた、山(ヒマラヤ?)に登るバージョン)にも使われていた。それから、「ことりはとってもうたがすき♪」ではじまる童謡「小鳥の歌」も芥川の曲。
(3) 2人とも20世紀の人である。プロコフィエフなどは前衛的で、…この二人についてはまたいつか取り上げよう。
(4) よくこういう略し方がされる。チャイコフスキーをチャイコと言ったり。略すと言えば、ラフマニノフの交響曲第2番は「ラフ2」、ベートーヴェンの交響曲第7番を「ベト7」と言ったりもする。個人的にはあまり好きではない。(だって、「ベト」って…とかなるじゃない。)
〈参〉『孝太郎』の半生
『孝太郎』の歩みは2005年11月11日の創刊に始まり、ちょうど1年間・計8回の雑誌刊行と、その後のオンライン上での活動という大枠で語ることができる。だが、もう少し細やかに振り返ってみると、『孝太郎』の3年余りの歴史は、さらに幾つかの時期に区切って考えることができると思う。
ここで私は、『孝太郎』の半生を、黎明期・発展期・爛熟期・転換期・安定期・停滞期・衰退期の7つの期間に分割する。そして、それぞれの期間にどのような動きや変化があったのかを思い出し、現在へとつながる流れを確認したいと思う。
〈黎明期〉は、創刊号と第2号が発刊された時期である。これら2つの号の編集は、実は私の手によって行われた。自宅にパソコンを持っていたので、編集長が編集作業を私に任せてくれたのである。
編集長から身近な友人にメールが配信され、『孝太郎』の存在が宣伝されるとともに、各種原稿の募集がなされた。幾人かが、この得体の知れない企画に心やさしくも応じてくれ、短歌が数首送られてきた。このおかげで、「孝太郎短歌賞」のコーナーは創刊号から存在することができたのである。
寄せられた原稿は、私のもとに集められ、私は人生初の「編集作業」を行うことになった。パソコン音痴の私であったが、ワードの段組み機能などを駆使しながら、夜が更けるまで画面と格闘した。編集とは、単に原稿を並べて済むものではない。字がつまりすぎているのも困る。逆に不自然な余白があっても困る。コーナーごとのレイアウトが見にくくても困る。編集作業にかかわる様々な困難を私は身をもって知ることになった。
紆余曲折を経て、私の手によってなんとか1号2号が世に出る運びとなったが、私はやはり器量不足であった。第3号からは、編集長が自ら編集作業を行うことになった。ここからが『孝太郎』の〈発展期〉である。タイトルの強調や段組みの操作など、編集長の編集センスは私のそれを遥かに凌駕し、以後『孝太郎』の誌面スタイルが変わることはなかった。第3号からは内容面でも充実し、本格的な文芸誌の様相を呈するようになった。「伴文庫」「意訳いい訳」など、編集長発案の多彩なコーナーが設けられ、反響を呼んだ。コーナーとは別に、小説や詩、評論等の投稿作品の数も増えた。その一方で、「孝太郎短歌賞」への投稿が減少し始め、今思えばそれは、〈終わりの始まり〉がそれとなく示唆されていた現象だったかもしれない。
〈発展期〉は2006年の前半とちょうど重なる。ある程度の浮き沈みはあったにせよ、この半年間で我々は『孝太郎』の〈市場〉とも呼ぶべきものを開拓することに成功した。「『孝太郎』の新しい号が出た」と言うと「読みたいからちょうだい」という反応が返ってくるようになったのである。これは我々にとって至上の喜びであった。我々によって、あるいは我々の仲間によって綴られた文章が我々によって編まれ、それが我々の仲間によって読まれている。そういうシステムを達成したことに、私は衝撃にも似た感動を覚えたし、編集長もまたそうであったろう。
『孝太郎』第6号には、私の稚拙な小説「桶狭間」が掲載された。今読み返してみると恥ずかしいばかりであるが、当時はそれなりに好評であったと伝え聞く。『孝太郎』に載るものとしては少し長めの小説であったので、第6号の誌面の4分の3弱をこの「桶狭間」が占めることとなった。そして第6号には、外部からの投稿作品が一つも掲載されなかった。『孝太郎』は運命の狭間をさまよいだしたのである。
この消えかけた灯を復活させようと、「誌面文化祭」が計画され、実行に移された。この過程が〈爛熟期〉すなわち第7号および第8号である。この時期は「この話のつづきをつくってみよう!」と題された企画が『孝太郎』に活気を与えた。これまでの数々の企画同様に編集長の発案であり、〈お題〉である短い文章に続くようなストーリーを読者から募集する、というものであった。募集自体は第6号でかけられており、多数の投稿が得られたため、第7号はそれらの投稿作品と「孝太郎短歌賞」の拾遺編、および「誌面文化祭」の予告のみで構成された。
そして第8号。『孝太郎』史上最大の10ページからなる厚みのある冊子が世に出ることとなった。2006年11月11日――『孝太郎』の誕生からちょうど一年の記念すべき日であった。評論・小説・詩・短歌の他に、「この話のつづきをつくってみよう!」の企画に対して活発な反応があり、実に4ページ余りを同企画が占めていた。作品発表の場であると同時にことばによる交流の場でもありたい。そうした理念のもと、ときに活発にときに細々と続いてきた『孝太郎』の営みは、ここに集大成を見た。そして第8号は、ある一点がいつもと大きく違っていた。毎回裏表紙に掲載されていた短い言葉と、発行年月日等を記載した奥付がなかったのである。『孝太郎』の活動は、第8号をもって当分の間休止される。真っ白な裏表紙はそのことを密かに暗示していたのだ。
気がつけば秋も深まっていた。我々は受験生であった。我々はしばし、勉強漬けの世界へと身を移すこととなった。
3月。受験結果は悲喜こもごもであった。編集長は合格。私は不合格となり、一年間の浪人を決意した。大学という学府の一員となれた者となれなかった者。その間にはある意味では圧倒的な格差が生じた。しかしその格差は『孝太郎』復活計画に関しては、まったく障害とはならなかった。できるだけ早く『孝太郎』の活動を再開し、積極的に参加しよう。私は端からそう思っていた。
『孝太郎』の編集委員は、あるいは大学の新入生として、あるいは不機嫌な予備校生として、それぞれのスタートダッシュを切り、忙しい春を駆け抜けた。その間〈孝太郎〉は静かに待っていた。不安はあったに違いない。我々にも不安はあった。思い入れは強かったものの、それぞれの新生活があまりにもめまぐるしく、『孝太郎』の今後について話し合ったり、誌面を構成する原稿を執筆したりする時間がとれないのが実情であった。
しかし、春すぎて夏が来たとき、編集長は動いた。7月下旬、編集長自宅にて『孝太郎』の編集会議が開かれた。そして文芸誌『孝太郎』はここから〈転換期〉に入る。編集会議で決定されたことは、一言で言えば〈オンライン化計画〉である。ウェブ上に『孝太郎』のホームページを立ち上げ、第9号以降の誌面はそこで公開する。第8号までの紙面版『孝太郎』のファイルもダウンロード可能な状態に置き、新たに読者となった人にもこれまでの経緯がわかるようにする。さらに、だれでも作品が投稿できるよう、メールのフォームも用意し、幅広く作品を募る。そうした詳細が決められていった。
そして、最大の変革点がブログ「デイリー孝太郎」の創設であった。4人の編集委員に3人の仲間を加えた7人のメンバーが代わる代わる、日々の生活で考えたこと、感動したことなどを800字程度で書き綴ってゆく。ルールはただそれだけであった。「天声人語みたいになればいいね。」そういう声が誰からともなく出たが、具体的にどういったコンセプトなのか、誰から誰へ伝えることばなのか、そして何よりも何のためにそれを書くのか、そういったことは全く決まっていなかった。
2007年8月11日、オンライン版『孝太郎』が誕生した。ページ上には、「再開にあたって」と題された編集長の名の入った文章が第9号として掲載されるとともに、「デイリー孝太郎」にリンクが張られ、記事の連載が開始された。
9月には待望の第10号がウェブ上で公開された。それは『孝太郎』の完全復活を告げているように思われた。そしてそれと並行して「デイリー」の連載も順調に進んだ。私に関して言えば、インプットばかりが続く浪人生活の中で、「デイリー孝太郎」の記事を週に一回書くことは貴重なアウトプットの機会であった。淡白な生活にリズム感を生み出してくれる仕事であった。ただ一点、何を誰に伝えたいのかが自分でも全く分からなかった。私は、書いて、それで終わり、という営みを2ヶ月間繰り返した。最もありきたりな意味で、楽しかった。
7人のメンバーの中には、私を含めて浪人生が3人いた。年度が後期の半ばに差し掛かると、3人はそれぞれ、10月いっぱいで「デイリー」の執筆を休み、受験に備えることを決めた。編集長の人選により、離脱した3人の代わりに新しいメンバーが入り、「デイリー」の連載は滞りなく続いた。しかし雑誌本体の公開は第10号以来行われることがなく、『孝太郎』の主な活動は「デイリー」の連載へと絞られていった。下降線をたどりながらも我らが『孝太郎』は〈安定期〉を迎えた。
そして翌年、2008年4月。前年11月より離脱していた3人のメンバーは、無事大学合格を果たした。私もこれ以上ないというくらいうれしかった。好きなことを好きなだけ学べる場にようやく到達し、感慨無量だった。『孝太郎』にもたくさん作品を送れるし、「デイリー孝太郎」の連載も思い切りできる。入学当初は実際そういうつもりだった。
しかしなってみると大学生も相当忙しいもので、特に前期の慣れない間は語学の予習や各種レポートに追われ気味の生活となった。「デイリー」の執筆もなんとかこなしていたが、満足できる文章を載せたことは一度たりともなかった。他のメンバーにとっても、おそらく「デイリー」執筆は〈義務〉として重く感ぜられたことだろう。『孝太郎』の構成員が全員大学生になったものの、その勢いが盛り返されることはなく、〈停滞期〉と呼ぶにふさわしい空気が『孝太郎』全体を覆った。
そして、2008年10月以降、「デイリー孝太郎」の執筆メンバーが、一抜けた、二抜けたと次々に離脱していった。編集長が自らカバーするなど必死に連載継続が図られたが、ブログのカレンダーは徐々に穴だらけになっていった。今、『孝太郎』は〈衰退期〉にあると言わざるを得ない。
現状については次章に譲るが、私は離脱していったメンバーを責めるのは筋違いだと思っている。反省すべき点は、『孝太郎』を創り上げてきた我々と、つくり上げられてきた『孝太郎』という制度そのものの中にあるのではないだろうか。衰退を招いた原因を丁寧に考えることが、『孝太郎』真の復活の鍵を握ることになろう。
春休みになりました。夏休みに続いて驚くほど長い休みが再びやって来たのですが、無計画に過ごしてしまうと、無駄に長い休みが再びやって来ることとなってしまうので何かやることはないかと思案に暮れています。
そんな私に周りの人々はしきりに旅行に行け行けと勧めてくるのですが、自分で特に行きたいところがあるわけでもないのでそうした声には困惑しています。
確かに社会人ともなればなかなか旅行に行くことはできないし、行けたとしても色々余裕のないものになりそうだから、学生のうちに行っておけというのは理解できるのです。
しかし自分で行きたいとも思わないのに旅行しろと言われて行ったとしても、まず何処に行くか定まらず、そして何をするか定まらず、最後に何をして来たのか記憶も定まらず、結局時間とお金をボランティアするようなものとなってしまうだけです。旅行を充実させるならそれなりの下準備が必要で、準備にはそれなりのモチベーションが必要です。それがない人間には良い旅行はできません。したがって私はできないのです。
なぜ自分がモチベーションを持てないのだろうか。旅行に魅力を感じないのは何故なのか。
旅行の楽しみとは大きく分けて二つあると思います。それは観光と非日常です。観光は行く先々独特の物珍しいものなどを見てまわる楽しみ。非日常は普段の生活、人間関係から離れ、自分をじっくり見つめ直す楽しみ。という感じでしょうか。
まず観光ですが、今自分の求めているものと今一つ一致しないのでなし。そして非日常ですが、普段から一人の時間はわりと多くあれこれ考えてしまうものなのに、わざわざ遠くまで行っていつも通りに悩むのも気が進まない。
…と、旅行に惹き付けられるものがあまりない状況なのです。だからきっと春休みも籠りがちな休みとなるのでしょう。
最後に一つ。旅行には行きたくないというのはあくまで一人での場合です。二人ならば話は別です。三人ならばまた別です。四人ならば多分行きません。以上です。
斉藤美奈子氏の発言が結構前から好き,好きってのも変ですが,何かしらしっくりくるものが多いです。斉藤氏は朝日新聞の文芸時評を担当されていて,フェニミズムから多くの社会分析で発言を行っておられます。
その斉藤氏の示す「それってどうなの主義」というものがありまして,最近は筆者もかなり共鳴しております。主義者の連盟もあります。「それってどうなの主義者連盟」。略して「そ連」。いや,氏の命名ですよ。ほんとに。
「それってどうなの主義」とは何か。以下引用は白水社「それってどうなの主義」より。「何か変だなあと思ったときにとりあえず,『それってどうなの』とつぶやいてみる。ただそれだけの主義」だそうです。そしてそれらの意義は,以下引用。
一、「それってどうなの」は違和感の表明である。
世間に流通している常識、言葉、流行、情報、報道などに違和感を感じたときには「それってどうなの」と口に出して言ってみる。その違和感は、たとえ小さくても長く心に保存・蓄積され、世の中を冷静に見る癖をつけてくれるでしょう。
一、「それってどうなの」は頭を冷やす氷嚢である。
人生の中で重要な決定を下すとき、大きな波に呑まれそうになったときには「これってどうなの」と自問する。それは頭の熱を下げ、自分を取り戻す時間を与えてくれるでしょう。
一、「それってどうなの」は暴走を止めるブレーキである。
だれかが不当な扱いを受けていると感じたとき、周囲でよからぬことが進行していると感じたときには「それってどうなの」と水を差す。相手がふと立ち止まるキッカケになるかもしれません。
一、「それってどうなの」は引き返す勇気である。
会議の席で寄り合いの場で、あれよあれよと物事が決まっていくことに抵抗を感じたら、手をあげて「それってどうなんでしょうか」と発言する。意外な賛同者が現れ、流れが変わるかもしれません。
「それってどうなの主義」とはすなわち、違和感を違和感のまま呑み込まず、外に向かって内に向かって表明する主義。言い出しにくい雰囲気に風穴を開け、小さな変革を期待する主義のことなのです。「それってどうなの」に大声は似合いません。小さな声でぼそぼそと、が効果的。ではみなさん、小さな声で唱和してみましょう。それってどうなの?
引用終わり。
空気を読むことをまず求められるガラスの関係の場所ほど,この「それってどうなの主義」は効力を増すように感じます。小さな声で「王様は裸だ」と主張するわけです。面と向かって戦うばかりの体育会系批判だけでは相手も堂々と的を狙ってきますよね。ぼそっと言われた一言だと,相手はこちらを攻める前に一旦自分を省みないでいられないはずです。相手に知性と良心があれば,ですが。
で,いろいろ見て,社会問題だけでないことまでやってみると,案外言える言える。なかなか世の中裸身の王が多いものです。あくまで細々と,でも目線だけはしっかり持って,「それってどうなの」と言い続けたいと思うわけです。