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昔の女優さんのポスターなんかを見ると、その半分以上は何か違和感を覚えてしまいどうも気に入らないなと思ってしまう。そして、昔と今とでは美の基準がどうも結構ずれてるんだと感じる。よくある話、平安時代の絵巻物に登場する女性とて美人として描かれてはいるのだろうが、あれを現代において美しいとされる人と同じ土俵にあげることはできない。つくづく、時代によりて美は移ろうものだと思ってしまう。
しかしながら、昔のポスターや絵巻物などを安易に信じ込んでもいけない。我々が普段目にするそのような昔のもの、というのは結構選別されたものだからである。教科書やら図鑑やらに現れる昔のものは基本的に現代とは似つかぬものとして載せられている。現代と同じようなものを載せたところでそればかりでは面白くないし、それぞれの時代の特色を伝えるのには不向きであろう。そこに載せられているものは時代の常識というよりは、トレンドなのではなかろうか。
また載せられているものがトレンドにかなったものばかりであることは、その教科書なり図鑑なりがそれぞれの時代の大きな流行を伝えているに過ぎない、ということでもある。それゆえ、載せられている昔のポスターや絵巻物で昔の人々の感覚を直ちに判断するのは良くないのだろう。そもそも現代に流行となっているようなものでも自分の理解の到底及ばないものはたくさんある。渋谷系のニーチャンのポスターを見ても何一つしっくりこない。だがそれを好む人も大勢いるからこそ“渋谷系”という流行が確立しているわけで、結局自分が分からず屋なだけかよということになって、気が滅入る次第である。だがその一方でいつの時代も基本的な基準はあまり変わらないのかな、案外どの時代にいてもやっていけるものなのか、と妄想を膨らませたりもする。
今まさに執筆中のレポート…というと聞こえはいいですが,追い立てられて書いているところのレポートのテーマが「あなたにとって“場所”とは何か?」というものです。珍しい主観的レポートなのですが,思い入れのある“場所”を辿ることでその意味を自分のアイデンティティというか,そんな感じの何かにつなげることを目指しています。
すこし飛びますが,「地理」っていう単語はもはやケッペンさんのいる世界ばかりではなく,人間の経済行動や政治や文学にまで入り込むことが出来ます。例えば軽井沢。高級避暑地として語られることはいい加減少なくなってきたかと思いますが,ちょっと前まで,例えばドラえもんの骨川スネ夫が別荘を持ってる場所であるなど,文学,ドラマ,漫画まで高級避暑地として扱われていたわけです。軽井沢はもともと宿場町で,それが衰退したところに明治期後半,外国人が避暑しに来た,このことでイメージが作られたわけです。で,イメージが出来ると真似してみようとか思うのが人の性。それに憧れて富裕層が大正~昭和初期に別荘を作りました。そして,ヒルズが出来るとちょっと行ってみようとか思うのも人の性。軽井沢は「高級」のイメージの下,寧ろ大衆化,観光地化されてしまったわけです。それが戦後,ある程度復興した後の時代で,大衆化の現実がありながらイメージだけは今でも軽く残っているわけです。
と,言うわけで軽井沢の気候という自然要素の上にあらゆる人間の行動がおかれて,我々のイメージの中の「軽井沢」が出来ているわけです。
場所というのが単に自然の要素だけでなく,多くのイメージの上に立ち,そこにさらに人は思い入れを加えるわけです。あの商店街がシャッターの目立つ通りになってしまった。そういう時に単に「変わった」ことへの郷愁ばかりでなく,そのかつての姿に残る自分の失いたくない時間や思い出と言ったものが否定された,という気持ちも含まれることでしょう。また,そういった時に鄙びた街並みなどを見つけると「何か懐かしい気持ち」になるでしょう。消えた姿を,時空を超えて別の地点に“場所”として投影しているわけです。
地図を見ていても自分のいる環境が見えてくるわけではなさそうです。街を歩き,眼を向ける中で,“場所”が明確に意識できると思います。レポートが遅々として進まないのは単にサボってるからではなく,一つの思い入れに深く食い込まないといけないからだ,と自分に言い聞かせつつ,何だかんだで“場所”探しに夢中になっているのでした。
「わ」は、我々の「輪」そしてそれが国になって「和」。和気藹々とした理想的な状態を表しているようだが、二音節以上の単語になると「悪い」「別れる」「忘れる」などマイナスイメージのものが多い。
「ゐ」は現代では使われなくなった音。ゐの字形が「為」から来ていることでわかるように、「為」など特定の漢字には「うぃ」という発音が充てられていたし、和語にも「ゐ」を含む単語はたくさんあった。「参った参った」を「まうぃったまうぃった」などと発音すると奈良時代の気分。
ワ行の「う」はア行の「う」と発音が同じということになっているが、本当だろうか。「植える」という動詞は古語ではワ行下二段活用であり、終止形は「植う」(2文字目はワ行の「う」)。これを発音するのに「うー」とは言わずに、「uwu」といった感じで二音節目に入る前に多少口をすぼめたのではないかと考えられる。よってワ行の「う」は固有の音としてやはり存在している。
「ゑ」も「ゐ」と同様。それにしても「るん♪」に見えてカワイイ。
「を」は現代ではひとつの単語にしか割り当てられないという面白い文字。文字という材料が限られている以上、ひとつの言語内ですべての文字の使用頻度は一定になるように調整されるのが常であるが、「を」はそこにあるだけで助詞だと分かりやすいので、変化から取り残されてしまった。
「ん」は、
といった感じで、五十音のそれぞれの音について、ときに感覚的に、ときに学術的に、ときにトンデモ学説的に思うところをひたすら書いていった。なので、言語学界では全く受け入れられないような説明・述語の使い方もまじっていたことをお断りしておく。
この作業は、恐らく読む者よりも、「この音について何を書こうか」と考えている私の方に多くの発見をもたらしてくれた。日本語で書かれた文章を適当に選んで、その中にお目当ての音を探しながら読んで、それがどういうときに使われどのような音感を文全体に与えるかという風に考えていくのは面白いので、是非一度やってみることをお薦めする。
情報リテラシーを語るときにスキャニングという言葉がよく使われる。たくさんの文章の中からキーワードのみを探しだし、自分の欲しい情報を効率良く手に入れるという読み方のことだ。私が今回おこなったのは音のスキャニングということになる。言葉は読み方によって無限の情報を我々に与えてくれる。音のスキャニングはその最もミニマルな方法ということになるだろう。
今回はロマン派(1)。
ショパンは「ピアノの詩人」と言われる。その作品のほとんどがピアノ独奏曲。それ以外はピアノ協奏曲や歌曲、チェロのためのソナタなどがある。
ショパンという名前は超有名であるし、「子犬のワルツ」や「革命」(2)、「幻想即興曲」「ノクターン」(3)、などはよく耳にする。
聞いていてわかるのは、古典派(ハイドンとかモーツァルトとか。ベートーベン…は微妙だけど一応古典か)の曲だと、メロディに普通の音階(4)がよく使われる(この言い方はあまり良くないけど)が、ロマン派だと半音階がメロディになってくる。
注(になってない気もするが)が長くなってしまったのでこれくらいにしておこう。ショパンは有名だし、特に書く気も起らないので。いや、しかし、「クラシックオタク」と自称する人も、ショパンはまるで聞かない、という人も結構いるようであるが。
(1)ロマン派とは何か、という問いは難しくて私には答えられない。とりあえず、ショパンとかリストとか、シューマンとかチャイコフスキーとかのことだと思っておこう。
(2)「練習曲」というジャンル(?)があって、それはピアノの演奏技術を高めるために、トレーニングのために書かれるもので、なのできいてもつまらないものである。野球をやるために筋トレをやるようなもの(?)で、実際野球をしてるのとは違うしつまらない。でも、やってるうちになぜか好きになってくることもある。で、ショパンは12曲からなる「練習曲集」を2つ作っているのだが、これはつまらないどころか、演奏会でもしばしば取り上げられる「芸術作品」になっている。有名な「革命」は曲集の12曲目。左手のトレーニングになる。(左手が難しい動きをする。しかし聴いた感じよりも簡単に弾ける)
(3)ノクターンの第2番はあるフィギィアスケートの選手がバック音楽(?)として使っていた。
(4)私が言いたいのは、たとえばモーツァルトの「フィガロの結婚」序曲とかベートーベンの「プロメテウスの創造物」序曲をきいてもらえばわかるかもしれない。「フィガロ」の有名なメロディはドレミで書くと、「レードーシラレドシラレドシラソファミレ」であるし、「プロメ」は「ドソラシドレミレドソラシドレミレドソラシドレミファソ…」である。(わかりづらい)
分からないのは他人の思うことだけではない。自分の思うことでもよく分からないことが度々ある。例えば自分が善行を行ったとしよう。しかし自分はそれが善行であると分かっており、行為そのものより人々の尊敬の眼差しを得られるであろうことを目的としている。善行を行っている最中、自分は満足感を抱いていた。自分はそれを、目的通り人々の眼を奪うことができたためだと考えるだろう。しかしそれは本当だろうか?そもそも善行を行おうとした自分は本当に最初からそんな打算を頭に浮かべていたのだろうか?
他者から見れば自分は善行をしただけであり、その果敢な行いを鼻にかけることもしなければ、彼には善なる心があるのだと悟るのみであろう。しかし自分は二つの心があって行動を起こしたことを知っており、一体どちらが本物なのだろう、と悩み続けるのである。
起こした行動に対する自分と他人の認識はなかなか一致しないため、しばしば厄介な問題を招く。特に自分の中でも整理のつかない行動を他人の認識によって決めつけられてしまうと、そうではないと思う気持ちと葛藤する羽目になる。それほど現実世界で行動は重たく、心は軽い。いっそ行動を起こすことで心を固めてしまうくらいの猛々しさがないと、とても満足にやっていけない。
「人の世に熱あれ 人間に光あれ」という水平社の設立宣言。小林少年が読み上げたその文章は,ほんとは人の世に熱あれ “じんかんに”光あれ,と読むのだと習ったのはいつだったでしょうか。
人間は人の間という文字を書いて,それを「にんげん」と読ませているんですよね。人の間=人。不思議な構造です。こういうのを挙げればきりがないですが。自ずから然り,と書いて自然(しぜん)。読み方を変えることで特有の意味を持たせているわけです。ところでこの文字通りの読みである人間(じんかん),この発想素敵だな,と新年ボケの頭で考えておりました。
「やさしさ」が人間必須の徳のように喧伝されて久しくなりますが,このやさしさと親切や気遣いとを一番分けるのがこの人間(じんかん)の自覚の有無ではないかと思うのです。直接的に相手にとって好意であること,利便であることをすることはそりゃあ親切で気を遣っているでしょうが,相手との間に何があるかを一気に飛び越してしまって省みないことが時にはある気がします。
例えば,「私は在日外国人なんだ」と友達がカミングアウトしてきた,という事態。相手を気遣って「それでも君は君だ,仲良くしような」と言うだろう方,そう少なくはないと思います。でも迂闊かもしれません。相手はもしかしたらこれまでとは違うスタンスで向き合うことを宣言したのかもしれません。これからどう接したらいいのか。これは難題です。
相手との間にある壁のようなものを強烈に突きつけているわけです。相手の言葉と自分の言葉が錯綜する,そしてお互いの状況を如実に示す場所が人間(じんかん)です。この人間(じんかん)がどういった様相をしていて,どのくらいの広さで,などを考えることこそやさしさなのかもしれません。見えるわけないじゃないか,勿論そうです。そこには大いに想像力と相手の言葉への熟考が求められるわけで,そう容易くはないと思います。
相手,相手たち,社会,そういったものとの距離と様相が分かれば,自然と自分の言葉も選ばれてきそうで,流石は水平社の宣言だなあと実感します。あ,この自然ってのは勿論「自ずから然り」ですよ。
ラ行は、英語でいうエルとアールをカバーしているだけあって、発音の可能範囲が他よりも広い。思いっきり巻き舌にしたっていいし、舌端を口蓋に付けなくったって実は「ら」に聞こえる。
「ら」はおそらく五十音の中でも最も派手な音のひとつ。ぎらぎらと笑う太陽の神の名はエジプトではラーというらしい。巻き舌にすると効果絶大。
「り」を発音するには口を「い」の形に持っていく必要があるが、「い」の口は下を反らせるのに少し不都合である。よって、「り」の発音は実は「di」に近づきがちである。「ぢ」の発音が「dzi」に逃げたのも或いは関係があるかも知れない。
「る」は動詞の活用語尾に欠かすことのできない音。文をあまねく満たしている大事な音。それだけに「る」の発音如何で発話自体のニュアンスを変えることができる。
「れ」も「る」と同様、動詞の活用語尾と助動詞ぐらいにしか現れない音。稀であり、レアなのである。
「ろ」は意外と名詞の語中語尾に使われていて使用範囲が広い。白色、黒色、そろそろその頃。