孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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日本人として生まれて日本語に囲まれて育ち、12歳から英語を習い始めておよそ6年間親しんで、前者はかなり自由に、後者は少しばかり操れるようになった。そこに今年からドイツ語が加わり、調子に乗ってラテン語にも首を突っ込んだ。
語学の予習に追われる1年間で、無駄に時間を取られることもあったが、私はそれなりに得るところも大きかったのではないかと思っている。なによりも、文法の存在がいかにありがたいかということを、身をもって感じた。
今年の4月までは、私はドイツ語についてもラテン語についても語学的知識は皆無であった。しかし先頃、両者とも文法の学習が一通り終了し、早くもまとまった文章を読む段階に突入したのだ。夏休みをはさんでいるから、実質約半年しか学習していないにもかかわらず、辞書さえあれば文章をそれなりに読めるようになってしまったのである。ドイツ語ではカフカの短編を、ラテン語ではオウィディウスとかウェルギリウスとかを読んでいる。
こんなにも早く文章が読めるようになったのには、いくつか理由がある。ひとつには、英語という第一外国語の学習体験が、教訓として働いたということがあるだろう。しかもドイツ語もラテン語も結局は西欧語であるから、英語の感覚がおおむね通用する。その事実も重要である。
しかし、やはり一番大きいのは、文法の力だと思う。とにかく文法さえわかっていれば、辞書が正しく引ける。そうなれば勢い、大概の文章がなんとなくでも理解できるようになる。例えば動詞がどのように活用するかということを実生活の経験から割り出そうと思えば、とてつもない時間がかかるが、その点、体系化された文法を学習することは非常に効率的なのである。
ただしこの学習法は、会話などの生活に密着した部分には明らかに弱い。それが証拠に、私は全くと言っていいほどドイツ語会話、ラテン語会話ができない。もちろんラテン語についてはすでに死語であり、会話する必要はないのだけれど。「口をついて出る」ようになるには、現地での生活、その国の映画や歌との触れ合いなどが、また別に必要なのであろう。PR
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