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お店の店員は、お客さんの探し物がすぐ見つけることができるように、店に何があり、それが何処にあるのか大体分かってないといけない。しかし目まぐるしく入れ換わる店の品の全てを把握するのは大変なことだ。ちゃんと等しく覚えたくとも、自分の気になるものは覚え、どうでもいいものはすぐ忘れる。
ある時40代くらいのおっちゃんに漬物の場所を聞かれた。漬物なんて以前は店になかったし見覚えもなかったが、私は大好きなキュウリの醤油漬け、すなわちキュウリのQちゃんが店に入り嬉しく思っていたことを思い出し、それによって無事漬物のある場所に案内できた。
食欲は、私の仕事に対する真面目さの何倍にもなる力を持っている。どんなものであれ欲はやはりすごい力なんだなと思った。そして、自分はこれを使いこなせてないなとも感じた。振り回されているわけでもないけれど。何かやりたいと思うなら、欲を目的とうまく重ねるのが手っ取り早いのだろう。
悟りを開くため?「欲を捨てよ」とかいうことを聞くが、欲を捨てたら人間は死んでしまうんじゃなかろうかと思う。悟りを開いたらどんな気分なのかなと思うが、欲がxy座標上の原点からありとあらゆる方向に長短様々に進んでいるベクトルとすれば、悟りは原点からxy平面に垂直にパーンと突きぬけた直線のようなイメージがある。+∞の頂に這い上がれば、-∞のド底辺にも突っ走る。しかし知らん顔というか。そんなのにはあまりなりたくないと思う。
自分が思わず欲をむき出しにする時がごくたまにあるけれど、それは後から思い出すと何だか笑える。しかし知らん顔していた自分は思い出してもちっとも面白くない。欲が引き出すずぶとい力が、滑稽で、しかし想像以上に逞しいからなのだと思う。
朝ちょっと遅れて教室に到着すると,先に来ていた友人たちが「お疲れ~」とねぎらってくれました。眠い眼をこすって授業を受け,終わると別の授業に行く友達は「お疲れ」と残して去っていきました。
昼食時にたまたま別の友達に会いました。これから3,4限が待っていると言うと「おおっ!お疲れ!」と言ってくれました。4限が終わり,これからは部活に行くだけだ,となるとそれまでずっと授業が一緒だった友達は「お疲れ~また明日」と帰っていきました。
部活をこなすと全体の挨拶で「お疲れさまでした」で〆が入りました。その後同級生とミーティング。面白くも無い話でみんなは「は~疲れた」と言っていました。その後荷物をまとめて帰る際,一回生たちが「お疲れさまです」と声をかけてくれました。三回生以上は「お疲れー。」と言ってました。
大学に入ってから「お疲れさまでした」とよく言い,よく言われるようになりました。授業にお疲れ,部活にお疲れ,キャンパス移動にお疲れ,昨日のオールにお疲れ,来週控える試験にお疲れ,寝過ごして急いで来た時もお疲れ。非常によく疲れているものです。これはとことんねぎらっているわけです。疲れに対しての共感です。おはようの代わりにお疲れ。ありがとうの代わりにお疲れ。さよならの代わりにお疲れ。大変やな!の代わりにお疲れ。とにかくねぎらいます。周囲は疲労困憊の様子といえるでしょう。いや,言われてる私もか。
和語において、母音音節(あいうえお)は基本的に語頭にのみ現れる。
母音は最も自然に音声化できる音であり、自然界に常に溢れている。
人間は母音から始めて、世界を切り取ってゆくのだ。
「あ」は「彼」を表し、遠くの方へと言葉を届けるために、口を開き、最も明るく発音される。逆に定義すれば、「あ」の届く範囲が人間の世界として規定されるのである。
「い」はかつて全ての音の頭として威張っていたが、今では主に形容詞の語尾として、人間が外界から受けるあらゆる印象の余韻として響いている。無常観のシンボルである。
「う」は「有」であり、存在の根本的なありかたを表現する。口を狭めて発音するのは、気を凝縮して原書の存在の発生を摸しているのだ。
「え」は意外性の表現。他の母音に比べて発音が中途半端なため、ひねくれていて意外なところで急に顔を出す。母音の中でもはぐれた存在である。
「お」は「え」と同じく中途半端な母音でありながら、「え」と違い社交的である。名詞の前に付けば語調をやわらげるなど、人と人の間の、そして音と音の間の潤滑油のように働いてくれる。
痛みを訴えるお腹に冷たいものを流し込む気にもなれず、お昼ご飯にはお湯をいれて3分待つだけのレトルト食品と温かい烏龍茶を選んだ。冷えを緩和したくて、買った商品をただ抱えこんでいる風を装って、お腹の辺りにあてる。じんわりと染みる温かさに思わず息を吐いた。キャップを開けて烏龍茶を一口。自分の身体の中心辺りを温かいものが流れていくのがよくわかった。
移動のバスを待つ間にと、今度は自販機でホットレモンティーを買った。例のごとくお腹の辺りにあてる。一度収まったかに思えた倦怠感と痛みは朝よりも一段とひどくなったようだった。
ふと鞄の中を見ると、昼に買ったペットボトルの中に烏龍茶が少し残っていた。全部飲んだつもりだったのに…と、喉に流し込めば、予想外の冷たさに驚く羽目になった。温かいものが欲しくなって、今度はレモンティーに口をつけたが、少し冷めてしまったそれは妙に甘ったるくて、もう飲む気はしなかった。
よせてはかえす波のように、ひいてはぶりかえす痛みと倦怠感。自分の身体に面倒くささを感じながら、体調が悪いと、こうも集中が続かず、考えもまとまらないものかと思う。
こういう痛みと倦怠感を伴う日があるからこそ、何にもない日々を快適だと、幸せだと感じられるのだろう、と頭をプラスの方向に持っていきながら、明日にはこの痛みと倦怠感を身体が忘れていることを願って、私は家路についたのだった。
京都祇園。なんて素敵なお店なのだろう、そう思って勇気を振り絞って足を踏み入れる。しかし、あいにく予約でいっぱいだといった理由からやんわりと店側に言われてしまう。私個人は気軽に料亭やお茶屋さんに入れるようなご身分ではないが、こういった事例があるそうだ。
これがよく言う「一見さんおことわり」のルールだ。初めての来店の際には常連さんの紹介でないとお店にはいることは出来ない。客側からしれみれば、なんと意地悪(いけず)なんだ!と思ってしまいがちだが、「一見さんおことわり」には京都流のおもてなしの心に端を発している。
初めて来店する「一見さん」は店にとってみればまったくのstrangerだ。身分も好みも経済的地位も何もわからない「ただの人」なのである。相手のことを何一つ知らずして、こころゆくまでのサービスを提供できるだろうか。どんな話題だと場の雰囲気が最良のものとなるか、どれくらいのお値段でご用意したらいいのか・・・。そういった気配りが出来ず、結果ありきたりで没個性的な応対しかできずに、strangerも店の中に入れたのはいいものの最終的にはいやな思いをする。(その上、店の評判も下がる。)という論理に基づいた文化なのである。
午前8時ちょうど発のバスを待っていたら、道の反対側にゴミ収集車が止まった。粗大ゴミの回収に来たようだ。頑丈な体つきの若い清掃員が二人、助手席から飛び降りて車の背後に回る。走行中のエンジン音とは打って変わって、ゴミ処理装置の刃を回すモーターが高らかにうなり始めた。
清掃員に担ぎ出され、街路樹の陰から姿を見せたのは、本棚とソファーそれぞれ二つずつだった。多少古めかしい感じはしたが、使えないほどボロボロには見えない。引越か何かの際に邪魔になったから、廃棄されることになったのだろう。
手始めに清掃員が本棚の小さい方を持ち上げ、横向けにして処理装置に突っ込む。本棚は、激しく音を立てながら、瞬く間に回転刃によって喰い潰されていく。みるみるうちに本棚の形状を失い、木片の集積へと化した。大きいほうの本棚も二人がかりで抱えられ、刃と刃の間にタイミングよく押し込められて機械の餌食になった。
ソファーの最期はもっと残酷だった。機械の刃は、あのやわらかい綿の上から無理やりに噛みつき、木でできた内部の骨組みをバラバラにした。そしてその破片が、綿を引き裂き表面の布を破った。
本棚とは、本やその他の小物を置くための道具である。ソファーとは、快適に座るための道具である。彼らが本棚として、あるいはソファーとしての機能を持つのは、ひとえに彼らが本棚の形、ソファーの形をしているからである。道具というものはおよそ、その機能に見合った特有の形状を持っているのである。あの本棚は、処理装置に呑み込まれる直前までは、間違いなく本棚であった。そして彼の「本棚性」は一瞬で暴力的に消えた。
我々は日々モノを捨てるけれど、未だ形状を保ち、道具としての機能を果たしているのに捨ててしまうことが意外に多い。「壊すは易し、創るは難し」……多くは語らなかったけれど、今やあの清掃車の胃袋に収まった彼らから、そんな訴えを受けとった気がした。
同じように後ろを見るにしても、車から覗くのとは全然違う。車は室内そのものが狭く広く見通す余裕はない。しかし電車の運転席の窓は見通しの良い大きさであるから、かなりの広さの風景を見通すことができる。
そしてもう一点に、車は窮々と列を連ねることが多いが、電車は後ろに迫り来るものがまずない。そんな環境が、気持ちをゆったりとさせる。
電車は傍から見れば車以上の速さで進んでいるはずだが、後ろを眺めているとなぜかそんな速さを感じない。少しずつ見える風景が広がっていく一方で、最初に見た風景はだんだん遠のいていく。
ゆったりとした気持ちで広々と時間の経過に似た風景の移り変わりを眺めていると、ついいろんなことを思い出してしまう。そして時が流れていることを感じる。やがて電車が止まってしまうと、現実の時間に降り戻されるように、その感覚は消えてしまう。普段忙しい人ほど感覚の振れ幅は大きくなることだろう。
そういえば2時間ドラマのエンディングなんかには、同じ風景がよく用いられる。見ているうちに、ドラマの中の出来事をゆっくり思い返そうという気分にさせられる。なかなか選び抜かれた背景だったんだな、と思う。