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客観的であること。

あるいは「メタ認知」と言った方が良いかもしれない。

自分から抜け出して、世界を見る。

 

最近、それについてよく考えるようになった。思いついたのは多分、高校生に数学を教えていたときのことだ。

僕は数学を教えるとき、数学の内容自体の解説や、さまざまな解法について、いろいろ講義をするとともに、問題を解くときの自分の姿勢みたいなものについて少し話していた。

というのも、教えていたその子が、それなりに数学の内容を理解はしているようであるのに、なかなか問題を解いて得点をするということができていなかったからだ。

どんな話かというと、「問題をよく読んで分析する」「何を求められていて、何が与えられていて、それに関して自分は何を知っていて何がわからないのかを考える」「間違ったら原因を探す。そのとき、自分自身がつくった前提にも疑いを向ける」などなど、こうやって書くと当たり前のようで恥ずかしいが、案外できないものであるらしい。冷静に考えれば、高校の問題くらい、絶対解けるはずなのだと信じている。トレーニングと言うべき勉強や、決まったフォームを身につけるための時間は多く必要だろうが、ある程度の知識、方法を身に付けた者にとっては、そこから先は勉強というよりメンタルトレーニング、修行のようなものが必要になってくる気がするのだ。つまり問題を解けなかったり、自分のミスに気づけないのは、その問題をやっているときに「一歩引いたところに自分を置く」ことができないからではないかと思うのだ。(勿論それだけとは思っていない…念のため)

 そうすると、ああ、数学もこういう力を身につけるためにやらされてるんだな、と思うことができる。抽象的な考えをできるようにとか、他の何かの役に立つとか、そういうのもあるけど、もしかしたら「論理的思考」ってのはこういうやつのことを言ってたのかもしれない、とも思われる。

 

 いま私が言いたいのは自分自身で、自分自身をどうとらえるか、という問題についてだ。

 歴史の授業だって、高校生までは、「いま起こっていることを理解するために、それまでの歴史を知っていることが大事なのだ」といった意義の説明を信じていた。しかし最近は、自分なりの歴史を学ぶ理由を見つけた。過去から未来へと続く時間軸を感じ、その中の一点に今、自分がいるということ、「その線上の点としての自分」という見方をどうにかして実感するために、そして、得た知識とその感覚をもとに、よりよい未来をつくるために、歴史を学ぶのだ…と思う。

これも上で述べた数学の件と、言いたいことは同じだ。自分で自分を見るときの、身につけておくべき見方についてなのだ。「周りを見る」というのとは少し違う。見えているものが、自分自身のみか、自分以外の世界のみではだめなのだ。自分を含めた、「世界の中の自分」として考えるのだ。

 これは、もしかしたら、何かの本で読んだ(「~通信」という文章だったと思う。高校生のときに国語の教科書にも載っていた)「自分を相対化する」というやつかもしれない、と気がついた。時間的に、空間的に、自己を相対化する。そうだ、当時はよくわからなかったが、あのときの文章はきっとこういうことだったんだ、と嬉しくなる。ホントのところどうかはわからないし、またそのうち読み返してみよう。

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