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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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ま行を発音するには、まず口を自然に閉じた状態から、テキトーに息を押し出し、テキトーに鼻に抜けさせたりもし、テキトーに声帯も震わせ、適当に口をあける。
他人を小馬鹿にしたようで、表裏のある、掴みづらい性格の音。

「ま」は良い意味で「真」を表すかと思えば、同時に悪い意味の「魔」をも表す、変幻自在の音声。ゼロたる「ん」の音からやおら口を開いて「ンま」と発音。表だと思っていたらあっという間に裏の世界へ導く魔性の音。

「み」は不在たる「未」であると同時に、存在たる「身」「実」。見えると思ったら見えない。見えないかにみえて見える。そんなものに人間は魅入られる。

「む」はもっと強い不在。「無」。口を閉じる子音から最も狭い口の母音への以降は「ん」につながり、ゼロを表す。助動詞の「む」は未だ実現せざるものの推量・意志。

「め」は「目」。視覚に最も頼る人間が唯一絶対に見ることの出来ない盲点。「見えない」の「みえ」が約まった形かもしれない。

「も」は「喪」。未然の「む」と反対に、かつて有ったものが無くなっていまっていること。もう、何もかも。

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 最近寒くて震えが止まらない。来年になれば一体どうなるのか、と今から要らぬ心配をしてしまう。
 ところで私は時々、寒さによらぬ震えを起こすことがある。素敵なものを見た、素敵なものを聞いたなど、とにかく「素敵なもの」に触れると本当に身体が震えるのである。
 一体どうなって震えているのだろうか。身体が普段の動作と異なる動きをとるのには二つの場合がある。身体自身が何かを感じ取ってそうなるのが一つ。そして心が衝撃を受け身体を動かしてしまうのがもう一つ。
 今回の場合はどちらなのかというと、私は後者の方であると思う。前者であるとすれば、素敵なものを何度も聞けば、その度に私は何度も震えるはずだがそうではないからである。段々衝撃は薄れていき、震えもなくなってしまう。こうしたいわば末期的な慣れは、身体より心の方がずっと起こりやすい。普段心であれこれ考えはするのに、身体の感覚に対しては比較的無頓着であるので、かえって身体で何かを感じ取った時はいつも新鮮な気持ちでそれを受け止めるからである。
 衝撃を身体中に響かせるのも、衝撃を失わせていくのも共に心の働きである。こんな生意気な心の働きについて少し思い付いたことがあるけれど、それは来週に回します

 大根を買おうとしました。一本198円。下宿生で忙しい身,そうそう一本丸ごとを使い切るほどの余裕はまだありません。そんなわけで買うのは半分カットのもの。葉っぱに近いほうは120円。下のほうは85円。ちょっと普段より高いなあ,それはさておいて下の半分を購入しました。

 そこでふと疑問。何故違う。同じ大根の上と下で何故40円違う。
理論的にはどういうことに根拠がありそうか,調べてみました。大根は葉に近いほうは甘く、地に深いほうは辛い。それだけ。甘いとサラダとかにできるし,辛いと大根おろしにしたりできる,という。

一般には甘いものの方がそりゃ価値が高いのでしょうね。きっと。サラダに使えると便利ですし。しかし,それは葉のぎりぎり下部分と,根っこの先端を比較したら言えるでしょうが,「上半分の一番下」と「下半分の一番上」では差は皆無なわけです。それで40円を差につけております。貨幣価値というものは難しいものです。

医療保険の話。アメリカを例に取りますと,中指切断と薬指切断。中指を治すなら60000ドル,薬指なら12000ドル。どっちとりますか?というのが保険に入っている貧困層に対して示された選択肢だった,という事例があります。その他,普段使うからだの部分ほど金額は跳ね上がります。全うな感覚を持った人々なら必ずや違和感…いや嫌悪感を感じるであろうこの仕組み。大根の甘い辛いで済んでいた話が,ここまで来ると生々しい。

使用価値という観点で見ているわけで,すべてが道具化しているわけです。それが貨幣に出るとこういうことになるのですね。それ以来大根を見ると切断された指を思い出します。

感じる理不尽さと嫌悪感を失わないでいることが,ここに潜む問題点を観る最大のモチベーションになるように感じます。大根でやってるんだから人間でも同じ,そこを大いに疑問視できます。人体とは別の倫理がある,と言われそうですが,同じです。
 

ハ行はその昔、p音で発音されていて、それがf音を経てh音に落ち着いたという。本当だろうか?

「は」は「波」。光は粒子としての性質と波動としての性質の両方を持ち合わせていると聞いたことがあるが、「有」たる「う」と相携えて発動するこの世の存在原理が「は」なのかもしれない。「は」の子音は無声で実体が見えないにもかかわらず、気合いを入れた「は!」の声にはとても力強さがこもっている。

「ひ」は「火」「日」「非」。人間が触れることのできない存在。「は」と同様、無声によって暗示される不可侵の力。

「ふ」は「風」。「波」は媒質があれば四方八方に伝わってゆくものだが、「風」は一方向に流れてゆく。意志を持った空気の動き。

「へ」は「屁」。どうしてエ段の音には碌でもない単語ばかり割り当てられるのだろう。

「ほ」は「帆」。見えない力を見える力に変換する装置。或いは「歩」。

先週に引き続き、山の話題となってしまうが許してもらいたい。化政期の浮世絵師、葛飾北斎が作った富嶽三十六景は最近では文房具のデザインなどに使用され、日常でもよく目にするようになった。世界にも名を轟かせた彼の版画は、これはあくまで私の印象だが、力強さと繊細さを持ち合わせその中に遊び心のある魅力的なものに思われる。
三十六景のなかに通称「赤富士」と呼ばれる作品がある。その版画には、朝日に赤く染まった富士山が全面に描かれ、奇妙な雲を抱いた真っ青な空が背景にある。そして、山すそのあたりは木々らしきものが見られる。富士山が赤く染まるのは夏から秋にかけての日の出のときだそうだ。
先日、北斎の赤富士にも負けず劣らずの迫力を持つ赤い富士を私は実際に見たのだった。それは厳密に言えば夕日に染まったものなので赤富士とはいえないが、山肌が燃えるような赤に染まり、日が沈むにつれて下のほうから夜が重ねられ、最後は雪の積もる山頂だけが鮮やかな赤を発する様は、赤富士に匹敵する芸術性を兼ね備えていた。
両者ともに美しいことに変わりはないが、その美しさには相違があった。北斎の赤富士は実際の富士山を絵画として一度ある意味での抽象化を経たものである。彼が見た富士山の中から、彼の作品を構成するにふさわしい要素を取り出して再構築したのがあの赤富士だ。この再構成は意識的であれ無意識的であれ、凡人にはなかなか出来ない業だ。再構成は絵画だけでなく写真についてもなされていると私は思っている。一方、私が見た富士山は富士山そのものであった。夏には雪は解け、江戸時代には噴火をしただろうし、今はきっと山肌はごみだらけの富士山がそこにあった。もちろん噴火の形跡やごみが肉眼で見られるわけではないが、富士山のどんな歴史も性質も、こちらの都合で取り払うことは出来ないのだ。そこにあるという、富士山の存在そのものを私は見ていた。同じように赤く染まっても、取り払えない要素の集合体としての富士山は表情だけでなく人格すら持っているのではないかと思わせたのだった。

 私が足繁く通っている研究室に、若い助教の先生がいる。アメリカでの留学経験があり、自主ゼミの合間に、海の向こうの研究事情などを語ってくれる。先日は『「PhD(博士号)」とは「Defense of Philosophy」である』ということを教わった。
 もちろんPhDは、実際にはDoctor of Philosophyの省略形なのだが、Dを「defense=防御」と解するジョークには、博士すなわち専門家になれば、自分の学説ないし理論を命がけで守らねばならない、という意味合いがにじみ出ている。「一旦議論になれば、決して引いてはならない。相手に説得された時点で、PhDの称号は剥奪されたに等しい。」彼の口調にはいつになく力がこもっていた。
 この研究室の研究テーマは「生体情報処理」。生物がどのように外界の様子を認識し、行動しているかについて、情報処理という観点から迫る。研究室長たる教授は細胞に着目し、細胞そのものに心の働きを認めようとする(細胞主義)。しかしこの説には異論が多く、同じ研究科内でも完全に四面楚歌である。
 細胞主義に対立する立場として、脳全体のネットワークに心的活動の根拠を定めようとする説があり、私はその説を掲げる先生が主催する演習にも参加している。その授業では、例えば「神経を情報が伝わる」という表現を何の抵抗もなく使う。しかし細胞主義では情報は伝わるものではない。はじめから細胞の中にある。その立場の違いを知っていたから、私はネットワーク主義の先生に「そこでおっしゃっている情報とはどういう意味ですか。」と聞いた。すると彼は「例えば腕を少し動かそうと思ってもたくさんの情報が動くでしょう」言っただけで、明確な回答をよこさなかった。「はあ…」と僕は言ったものの、全く納得できなかった。ただ、喧嘩をしに来たのではないと思いなおし、それ以上追及することはしなかった。
 その話を細胞主義のゼミに帰って話すと、助教の先生が最初に書いた話をしてくれたのだった。「君を納得させられなかった時点でその理論は破綻しているということでしょう。でも君も『はぁ…』とか言って引き下がっちゃいけない。」研究者とは研究をして飯を食っている人たちである。自分の論理が否定されれば文字通り飢え死にしてしまう。何が正しいか、何が理にかなっているかという問題以前に、いかにして自分を守るかという生々しい問題が立ちふさがっていることを、私は現場の風として感じ取ったのだった。

 学園祭で買ったパズルの本が面白くて、手放せない日々が続いている。この本は私の通う大学でパズル学を研究している、いわゆる「ビラがパズルの人」という呼び名で有名な学生が中心となって作成したもので、実に様々なパズルが収められていて楽しめる。
 この「ビラがパズルの人」のブログの中に、「パズルの定石」という言葉が出ていた。その人も研究中とのことではっきりとした説明はないのだが、特定のパズルに限定せず、どんなパズルを解くにあたっても通用する考え方のことを指しているのだと思われる。それがいろんな学問に通ずる重要なものとなりうるかもしれない、ということなのだ。
 うまくできたパズルを目にした時には、ややこしいはずの自然法則がわずかな記号で公式化できてしまうのと同じような神々しさを感じる。もしかするとこのパズルも何か意味があるんじゃないか、という気になる。
 パズルの本質とは何かと言われると、究極の暇潰し、本来全く無意味なものだというところであろう。しかし実際パズルをしていると、そうとは思えない。パズルは現実的に何の力も持たないが、現実では得難い喜びや示唆を与えてくれる。
 しかしそうした良い面はパズルを解いて気持ち良くならなければ気付くことはできない。解けなければただの時間の浪費。そういう意味でパズルはかなりギャンブル的な面がある。多くの人がパズルに魅せられるのは案外そういうありふれた理由なのかもしれない。

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