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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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これからしばらくこの曜日の記事では、クラシック音楽から私が是非聞いてほしい曲、あるいは、まぁ知ってたら楽しいんじゃない?という曲、などを選んでコメントをつけていく、あるいは音楽関連の事柄について興味深い(かもしれない)ことを書くみたいなことをやろうと思う。
こういうやつは名の知れた曲からはじめた方が良いかな。

まずはベートーベンの交響曲(1)。
ベートーベンは交響曲を9つ書いているのだが、有名なのと言えば「運命」と名のついた第5番、「のだめ」で使われていた第7番、日本ではなぜか年末恒例行事のように演奏される「第九」こと第9番あたりだろう(2)。あるいは、「英雄」と呼ばれる第3番も世界史の授業で知っている人もいるだろう。なぜか奇数番号ばかりが並んだが、個人的には第4番が好きである。あと、第6番は「田園」と言ってこちらも必ずやきいたことがあるに違いない。学校で聞かされるからだ。(ところで、日本の音楽教育って、目指すところはベートーベンというか、「ベートーベン神!」というか、そういうベートーベン絶対、みたいな風潮(?)があるよね。まぁ、そういうのを無批判に信じ込んでも、実際ベートーベンはすごいからいいっちゃあいいけど、なんかちょっと違うんですよね。)
とまぁ超がつくほどメジャーなベートーベンの交響曲であるが、きいていて気づくのは、オーケストラの全ての楽器(3)に主役がまわってくるということだ。第九などきけばよくわかるが、ヴァイオリンや木管楽器はもちろん、コントラバスや打楽器にもスポットライトが当たっているように聞こえるのである。なかなか美しいことであるね。一度意識して聞いてみてほしい。
しかし、ベートーベンは重いような軽いような、やっぱり重いような、みたいな感じで、少し難しいと言えば難しい。ベートーベン絶対!クラシックはベートーベン!みたいなところから影響をうけてベートーベンをきいて、なんかしんどいな、クラシック、なんてことになるとしたら残念なことだ(4)。作曲家はまだまだたくさんいるのだから。(このシリーズも長くなる…ということか…)

(1)交響曲とは何?と聞かれてまともに答えようとすると難しい答えしかできないが、とりあえず、弦楽器管楽器打楽器を用いて書かれた、4つの楽章(4曲?いやいや、楽章)からなる大きな曲と思っていればよいかな。
(2)ヨーロッパではあまり日本ほど演奏されない、とどこかで読んだことがある。まぁ規模も大きい(合唱とか独唱者も要るからね)し、わかる気がする。ちなみに難易度はかなり高い。よっぽど第九が好きなんだね、みんな。
(3)ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペット、トロンボーン、チューバ、ティンパニ、その他の打楽器(シンバルとかトライアングルとか大太鼓とか)、などなど。

 (4)しかしベートーベンをきくと、何か安心感のようなものが得られる気がする。

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 新年明けましておめでとうございます。年明けと共に新しい服を下ろしたり今年の抱負を考えてみたりと、誰もが清清しい気持ちになれるのはこのお正月のおかげでしょう。

年明けというものは1年365日の中でも際立った1日の最たるものでしょう。太陽の周りをこの星が1周くるりと回ったことに、我々な相当な意味を置いているようです。しかも徐々に僅かながら生じる誤差を調整する、という愚行を犯しながらも。日本は特に季節の変化に富んだ風土を有していますから、まだ1年の感覚というものははっきりとしています。けれど、地球という星はそういうところばかりではないのです。けれどもどの国の人々もひどく大切な一日として年明けを過ごします。1年というサイクルを利用して年齢なんて概念も作りました。

日本では20年経てば人は成人し、60年経てば還暦を迎えます。1年の終わりと共に、自身の生活や生き方を振り返ったり、生きていることに喜びを感じたりします。ただただ本能に身を任せて暮らしていれば良いものを、人間というのはひどくストイックな存在だなぁと感じました。

まもなく成人の日を迎えます。私は成人となってもう何ヶ月かが経ちましたが、この成人に日に改めて、そしてちょっと白々しくも「成人したんだなぁ」と感じ、きっとお正月のように人生の目標なんかを立てているのでしょう。通過儀礼と言いますか、何かから何かへと変わる区切り目というのは思ったよりも、我々の生き方を良くも悪くも規定している気がしました。

けれど、こんな風に頭で考えるよりも大自然・大宇宙が持つ我々への影響力というのはもっと大きなものかもしれません。天文学が無くても、カレンダーが無くても、我々はちゃんと1年をこの肌で感じていたのかもしれません。今となってはもう分かりません。いずれにせよ、西暦2009年が始まりました。今回の公転1周分も、皆さんにとって有意義な期間となりますように。
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 新年明けましておめでとうございます。今年も日曜日の執筆を担当させていただきます、よろしくお願いします。
 さて新年と言えば初詣ですが、今年は珍しく一月一日に初詣に行くことができました。ちらほら雪が降る寒い日に、わざわざ長い列に並んで金を捨てに行くという変な慣行もやって参りました。
 賽銭箱の前で合掌して今年のお願いをするわけですが、眼を瞑ってみると去年、一昨年、過去十数年の今頃そこで願っていたことが少しずつ思い出されていくのです。自分自身は単純な性格なので願い事も至極分かりやすいものばかりなのですが、当時の自分が一番何に必死になっていたのか、どんな状況にあったのか、というのがきわめて主観的な形の記憶で思い出され、さらには昔の自分の主観と今の自分の主観とが頭の中で並び浮かべられるという、稀な事態に陥ります。せっかくの新年早々に気持ちを一新するどころか、過去を振り返るはめになるのです。具体的な記憶が蘇ると色々考え込んでしまうもので、今年はこうするぞ、という決意から頭がどんどん離れていってしまう。
 さすがに来年もこんなことになっては困る。そう思い、今年はできるだけ色んなことを思い出さないような、あまりつかみどころのないお願いをすることにしました。少しお願いとするには漫然としすぎたものであり、今の自分というものが少しも出てこないものとなったのですが、まぁ良いでしょう。人事を尽くし天命を待つ。今年も一年頑張っていこうと思います。

 年の初めの試し書き。

 風の祝詞

  向かい風
  呼吸器に新鮮な情熱がなだれ込む
  まだ生まれていない笑い声の香り
  肺胞から私の血液へ
  
  地球はやはり回転を続け
  木はその幹を太くする
  その轟音が聞こえる朝に
  笑い声の主が
  希望を持てと励ましてくれた

雪しげくふりゆく年もまぼろしか日々こころ憂く思ひこそすれ

 2ヶ月ほど前から日記をつけ始めていてそれなりに色々書いてもいたのだが、3日坊主ならぬ3週坊主となり、ここ最近はめっきりつけられていない。
 そもそも日記をつけ始めたのは、頭の中に色んな考えが浮かんでは消えていくということが多くなって、どこかにその考えを残しておきたいと思ったからである。
 例えばデイリー孝太郎の執筆者なら分かると思うが、今週どんなものを書こうかと悩んでいると、必ず私的すぎてウェブに公開できないけれど自分としては結構面白い文章が一つや二つ思い浮かんだりするものである。文章を考えるのはなかなかしんどいものであるし他人にも是非読んでもらいたいと思うけれど、公開することができない。そしてそのまま放っておけばやがて忘れてしまう。それは勿体ない。
 こんな葛藤を晴らしてくれるのが日記であった。思い付いたが投稿できない文章をいわば裏・孝太郎として日記にストックし、いつか日の目を見させてやろうと暖め続けるのである。
 
 こんな感じで日記は私にとってそれなりに重要な役割を担うものであったのだが、日記をつけるとなると頭が自然と身構えるのか、つける前ほど色々浮かんでこなくなる。生活も極めて単調であるからやがてとりたてて書くこともなくなる。何より毎日つけるのは面倒くさい。かくして今に至る。毎日何か書けるという継続性と感性とをしっかり持ち続けるのが大事なんだなぁと分かるだけなのであった。

 

 夕焼けがマンネリ化しないことには毎回驚かされます。日常茶飯の事々は「よほど当たり前すぎて関心を払う必要がなく,しかも合理的でマンネリ化に問題なし」か「マンネリ化を避けようと何かしら無駄な努力をする」のどちらかかと思います。前者は例えば風呂に入ったときに何処から洗うか,なんかや朝,学校やその他必要な場所への移動の経路。後者は食事のメニューなんかが代表例。
 
 そこに夕焼け。今日は黄土色。昨日は雲の下から黄金,しかも澄んだ色。太陽の動きなんて未来永劫約束されたマンネリズム,差異といったら若干の南中高度始めとした微細な変化のみ。でもきれいです。何故かきれいです。晴れた日のグラデーションも一日違えば度合いが違い,雲も飛び方が違い。
 
 しかしよく考えたら昼間の青空も姿かたちが違うんですよね。白っぽかったり,高さが違って見えたり。雲が一粒だけ飛んでいたり。夕焼けは時期が短いから,印象深い色だから,けっこうその違いがはっきりと分かるのでしょう。
 
 そう考えたら,日常の諸々へのマンネリ化に対する特効薬は「考えて差異を見つける」と拡大解釈できそうですね。マンネリ化が悪いわけではないですが,同じことに持続的に良さを感じ続けるのにもエネルギーが要るな,とよく思うもので。夕焼けのほうからしても別に明日は違うメニューの色合いにしようなどとは微塵も考えていないわけでして。そのくらい気楽なものとして日々に風を吹き込んでいこうと思うものです。
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