忍者ブログ
孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
最新CM
[02/10 編集長]
[01/04 編集部紅一点]
[06/01 なんばぁ]
[05/13 日曜担当者]
[05/10 いちこ]
最新記事
(04/03)
(11/17)
(07/21)
(02/10)
(01/01)
最新TB
ブログ内検索
[6] [7] [8] [9] [10] [11] [12] [13] [14] [15] [16]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 命数法と聞いてなんのこっちゃの方は多いかもしれませんが,「一十百千万億兆…」のことだと言われたら大抵の方がお分かりでしょう。これは「大数」つまり大きいほうで,その反対は「小数」。

 

 大数の一覧。一,万,億,兆,京,垓,秭,穣,溝,澗,正,載,極,恒河沙,阿僧祇,那由他,不可思議,無量大数。すべて四桁ずつ上がっていきます。

 

 次いで小数。こちらはけっこう知られていない部類ではないでしょうか。一,分,厘,毛,糸,忽,微,繊,沙,塵,埃,渺,漠,模糊,逡巡,須臾,瞬息,弾指,刹那,六徳,虚空,清浄,阿頼耶,阿摩羅,涅槃寂静。

 

面白いのはこういった言葉にはすべて意味づけがあるということです。それも,極端な数になるほどに仏教の色合いを含んだものになることです。

例えば恒河沙。恒河とはガンジス川のことで,その砂の数に匹敵する,という多さです。阿僧祇は梵語“asakhya”の訳で,「数えることが出来ない」の意味。ガンジス川のは数えられるのかという突っ込みは置いといて。

 

さらには小数。涅槃寂静とは,悟りの世界が安らぎの境地であることを示していますし,清浄なんて見ての通り。「一寸の虫にも五分の魂」といっても,それがある程度大きいものであることも分かります。

 

数は極端になればなるほど感覚の世界になってきます。我々であれば「天文学的」というのがこういった数を示すのに使われますが,それは現在の我々が星の距離や宇宙についての科学的知見を持って数を捉えているからと言えるでしょう。しかし命数法の単位は仏教,悟りの境地の純粋さ,功徳の偉大さを意味しています。これらの言葉の生まれた時代はこれで数を伝えることが出来たというわけです。そうすると,数のイメージというものが全く違ったものになるわけです。

 

科学的に同じものでも,イメージだけでこうも変わる,そんなものは身近にあったのだな,と実感しました。

PR

「な」は「汝」「名」、大切に思う誰か。そしてその大切な誰かに優しく呼びかける終助詞であり、またその大切な誰かが間違えそうなときにはそっと禁止してあげる終助詞。

「に」は動作の終点を表す格助詞。私に、そしてあなたに。二人は互いに「似」ることを欲し、惹きあう。

「ぬ」は打消および完了。二人は否定しあい、二人の関係は終わる。ただし終止形の「ず」よりもやわらかい語感なのは、どうしても断定しきれない複雑な感情。素直になれないもどかしい音。

「ね」は「な」と同じく、呼びかける終助詞。「な」よりも強く、一度むこうを向いた相手をもう一度振り向かせる呼びかけ。

「の」はおそらく日本語でもっとも意味範囲の広い助詞。語や文節を結びつけ連体修飾語を作る。あらゆるものは二人と関係付けられ、世界は二人のものになってゆく。

 私は早起きが苦手で、毎朝どたばたと大急ぎで出発の準備をする。もちろん、通学中も周りの景色に目を留める余裕もなく、見るものといえば進行方向と時計の針だけだ。実際に家を出る時間も遅いため、そのころにはもう太陽は顔を出すどころかだいぶ高いところにおでましになっていることが多々あるのだ。そんな私は昨日、久しぶりにゆっくりと朝を見た。残念ながら早起きによってではなく、遅く帰ってくることによって可能になったことなのだが。
 朝はご存知のとおり東からやってくる。と、同時に重厚な雲に覆われた夜の空が西の方角へ逃げてゆく。朝の領域が夜の領域を徐々に侵食する様を見て、地球が絶えず回転していたことを思い出した。私は顔を出した太陽は東の空を明らめるばかりのものだと思っていたが、その時京を囲む山々はみな光を浴びて燦然と輝いていた。今の時期の山々は赤や黄色をあふれんばかりにかかえている。しかし、その山の表情は底抜けに明るい夏とは異なっている。きたる冬を思って、山々はあふれ出す赤や黄色をぎゅっと抱きしめているのだ。弱弱しい笑顔だけはこちらに、あとは背を向けているのが11月の山々だ。その山々を朝日が照らしだす。朝日を受けて山々の表面は影の部分と光の部分に色分けされ、ぐんと奥行きが出る。朝日を受けるだけで、笑顔の裏に隠された寂しさが滲み出してきた。山に、朝に、こんな表情があったことなって知らなかった。小さいころは感じていたのかもしれないが、もうずっと忘れていた。
 忙しい人間たちに忘れられても山々は毎日、朝日に照らされる。毎朝、偽の笑顔を引き剥がされながらも、決して太陽を拒まない。
 もうすぐ冬がやってくる。雪に覆われる山々はどんな表情を見せてくれるのだろうか。早く起きて会いに行こう。
 最近急に冷え込むようになった。外の空気が肌に触れるだけで震えてしまい、何もしたくなくなるような寒さである。
 年を追うごとに寒さには弱くなっている。着衣が年々増え、できる限り肌を出さないようになっているので、やがては人生で数えるほどしか着たことのないマフラーを常備し、それでも足らずカイロをそこら中に貼り付ける日々を送るだろう。昔は何であんな短パンで平気だったのか?昔は今よりずっと温かかったのだろうか?
 だんだん頭を使う歳になるにつれて、逆に何でもかんでもいちいち頭を使って頑張らなければいけなくなったのかもしれない。ガキの時は厚着したくないんじゃーッ!!と思うだけで寒さが苦にならなくなったような気がするが、今はそんなことを思っても寒さが沁みてきて他のことが考えられなくなり、結局厚着してしまう。心とからだの解離が始まっているのである。そういえば自分でやる気を出そうと思ってもなかなか出ないが、同じことが原因となっているのかもしれない。
 寒さに負けない強い子になりなさい、というのはこういうことなのかな、と思った。何だかとても運動したい気分になってきた。勿論、心の運動がしっかりできるようにするためである。

 行間を読めと言うことをよく言われる,特に受験期。文字と文字の間にある文脈を読み取って解釈せよ,文字ではない筆者の主張を読み取れ,ということだっただろうか。

 

 これは非常にいい指摘であると思う。筆者の主張は神がかり的に瞬時に浮かんだこともあれば,検討に検討を重ねたものもある。その人のライフワークとなった文章を,文字面だけで把握は到底出来ない。本当のところは全思考形式まで知って読みたいものだが,そんなことはしていられない。しかし,行間,つまり「そこにある言葉の群」はせめて解釈しよう,となるわけである。

 

 ここで,あまり一般でないがもう一つ行間で読んでみたいものを加えたいと思う。時間である。偉そうに言っても既に実践している方がいるかも,だが…。

 

 行間は↑のようにわざと広げられる時もあるが,大抵はワープロ機能で全て決定される。文字の姿かたちはこんな風にいろいろいじくることが出来るが,行間は空けるだけ,である(しかも上の文章の場合はいらんことしたが故に余計ややこしい)その間に筆者は何をしていただろうか?筆者が同じことを喋る時にはどのくらい間が開くのだろうか?

 

 つながっている文と文が連続して書かれたとは限らない。その間に筆者はもの凄い吉報に触れたかもしれないし,訃報に触れたかもしれない。感情を込めてある文章ほど,行間の時間には何かが起こっているのである。

 

 「休符は最大の音楽である」と言うのはモーツァルトだったか。少しねじっているが,文章にもそういう「スペース」はあり,それが文章をただの主張でなく,時間を含んで筆者がじかに語るようなものに近づけているように思う。

 バスに乗っているといろんなことがある。これは日曜の昼下がり、バスで移動中の話である。
腰の曲がった乱髪のおばあさんが乗ってきて、私の後ろの席に座った。「はぁ、はぁ、よっこいしょ、よっこいしょ」とかなり大儀な様子だった。それだけなら何ということはないのだが、それから五分後、息が整ってきたそのおばあさんは、おもむろに法華経の題目を唱え始めた。
つぶやくような小さな声だが、しかしはっきりと聞こえる声で、「南無妙法蓮華経、南無妙法蓮華経、……」と延々唱え続ける。面白いのと呆れ返るのと少し不気味なのとで、私はたいそう困惑した。題目以外の何か別の言葉も時折はさみながら、我を忘れたように「南無妙法蓮華経」は続く。バスの中が異様な雰囲気に包まれた。
法然の「南無阿弥陀仏」にしても日蓮の「南無妙法蓮華経」にしてもそうだが、私は「唱える」という行為を重要視する教えに、これまでいまひとつ説得力を感じてこなかった。「唱え」は形式的なもので、経典や教義全体の象徴でしかないと思っていた。しかしあのおばあさんの「南無妙法蓮華経」はそんな生半可なものではなかった。何を祈っていたのかは全く分からないが、とにかく必死に救いを求める感じ、唱えの魔力で事態をなんとかしてやろうという意志が強烈に伝わってきた。
同じ文句を何度も何度も繰り返す。その営みには想像をはるかに超えた力があるように思われる。繰り返す内容がどんなことであれ、無限再生されていく中で、その言葉は言葉以上の威力を持つに違いない。救いとして善きに働くこともあろうが、政治や宗教が濫用すれば悪しきに働くことも十分ありうる。唱えに引き込まれる前に、今一度身構えなければならない。
おばあさんは私より先にバスを降りた。タラップから歩道に下り、よたよたと歩き始めたおばあさんの口元は、相変わらず「南無妙法蓮華経」を唱えていた。彼女に救いのあらんことを祈るのみである。

 秋も深まり、すっかり紅葉が鮮やかに色づいて私の通う大学を美しく彩る季節となっている。どこをぶらぶら歩いてみても絵になるような風景を目にすることができるので、大変幸せな時期と言える。
 これほどに美しい風景が並んでいるとついしたくなるのが写真撮影である。やはり良いなと思ったものはずっと残しておきたくなるものだ。しかし実際私が写真を撮ることはほとんどない。携帯のカメラの性能は悪いし、カメラマンの性能も悪いからである。自分が撮った写真はいつも軸がぶれていて、見た風景とあまりに違うので、結局消去してしまう。
 上手い写真を撮るには、上手い風景の見方が必要らしい。写真を撮ることを考え、自分の目をレンズにして風景を見るのである。しかしその見方にこだわりすぎると、肝心の風景を目でじっくり見ることがおろそかになってしまうことがよくあるのだという。普通の人にとっては勿体ない話である。
 直に見る風景には必ず時間が存在する。つい見とれてしまう風景にはいつも何か他とは違うリズムが流れているように思う。あるいは自分が、流れる風景から勝手に思い描いているだけかもしれない。一方写真はある時点を鋭く切り抜いたもので、そこに時間はない。自分が持った印象が一番強く表れている瞬間が写され、それは同時に強い主張になるのである。
 自分の思う写真が撮れないというのは、両者のこういう違いを意識しないで何とかやっつけようとするからなのだろう。「うまく写真を撮る方法」はあっても「うまく見た風景を撮る方法」は有り得ないのである。
忍者ブログ [PR]