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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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今月1日、国際会館で行われた「源氏物語千年紀記念式典」に縁あって参加した。前半に瀬戸内寂聴さんとドナルド・キーンさんによる記念講演があり、後半は天皇皇后両陛下御臨席のもと、舞楽の披露や、源氏千年紀イメージキャラクター・柴本幸さんによる『「古典の日」宣言』の発表があった。主催者側から京都府知事・京都市長・宇治市長などが、来賓として文部科学大臣などが出席し、さらに総合司会がNHKの武内陶子アナウンサーで、非常な高級感を伴った式典であった。

中でもやはり、天皇の存在感には圧倒的なものがあった。金屏風の前にただ座っているだけで、一言も言葉を発することはなかったが、明らかに天皇の存在によって場の空気は統べられていた。「えらい」というのはこういうことだと思った。例えば総理大臣も「えらい」人には違いないが、民主主義の日本においては、国民は誰でも総理大臣になる可能性を有する。そして、総理大臣のえらさは、我々の下支えがあるからこそ実現しているものである。しかし天皇の場合はそうではない。我々は絶対に天皇になることはできないし、天皇を選んだり罷免したりする手段を有しない。天皇の地位と国民の主権とのつながりは完全に断たれている。我々は天皇を「えらい」と認めたことはないし、なぜ「えらい」のか誰にも分からない。だからこそ天皇は「えらい」のであろう。この種のえらさは神聖なものとしか言いようがなく、そういった神聖性が現代の民主主義国家の中で未だに息づいていることには、違和感と不思議さを覚えざるを得ない。

源氏物語の世界では、天皇は今よりもはるかに生々しい。桐壺帝は身分の低い桐壺更衣を寵愛し、その結果光源氏が生まれる。冷泉帝は桐壺帝の皇子ということになっているが、実は源氏と藤壺の間にできた不義の子であり、物語は複雑化する。天皇は、取り巻きの皇族・貴族たちと分け隔てなく、スキャンダルの渦中にあってしかるべき存在なのである。

『「古典の日」宣言』を読み上げた柴本さんは、平安京をしのばせる艶やかな十二単に身を包み、それを見つめる天皇はグレーのスーツ姿。天皇とは伝統の中にあるものか、それとも近代が作り出した制度か。この得体の知れなさは、生半可なことでは片付かないと思った。
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 神様はいるんじゃないかなぁとよく思うが、最近悪魔もいるんじゃないだろうか?と思い始めた。
 今言う悪魔とは、絶妙なタイミングでそっと手をさしのべることで、どんな状況にある者でもその者にとって最悪な状況に貶めてしまう悪戯をする存在のことである。例えば、失敗をしでかしたが、次を頑張ろうと思い直し始めた瞬間に、自分がまた失敗をしていることに気付いて、一層へこんでしまう。こんなことがあると、最早自分のせいでなく別の力が働いていると思いたくもなる。
 かのキリストは修行中に自らのもとを訪れ、様々に誘惑し彼の神に対する愛を崩壊させようとした3匹の悪魔を、その不屈の精神力をもって見事に退けたという。私も悪魔を退けるために強い精神を持たねばならないのだろうが、キリストのようにいくはずもなく、悪魔に為されるがままとなっている。
 ところで私の中では神は創造主であり、悪魔が最強の悪戯っ子のようなものであるのだが、この2者の対照的なところは人間に対する関心である。神は人間を造ったが、それから後はほったらかしである。一方悪魔は人間の心に積極的に関わり、かき乱そうとしている。悪魔は我々に興味津々なのである。かのマザー・テレサは無関心こそが最も悲しいことだと仰った。我々はもしかすると永遠に神の愛を受ける
ことはできないのかもしれない。しかし我々に関心のある悪魔は、もしかするといつか我々を愛してくれるのかもしれない。そうすれば、神様なんかよりずっと心強い味方となるのではないだろうか。悪魔だけに信用しきれないものだが。
 そんなことを思って、悪魔からの善意を期待する日々を送っている。

 今日,弁当を拾いました。というと一体どういうカミングアウトかと思われそうですが。筆者を実際知る方々は深い○○を覚えることでしょう(任意)。

 本当です。今冷蔵庫に眠っています。夕方,コンビニの横に,それは丁寧に置かれていたのでした。消費期限は前日午前二時。うわ,だいぶ過ぎてます。表示価格より50円引きシールも貼られていました。全うな感覚をお持ちの方々からしたら,まず手を出さないであろうこの物件。しかし筆者はそれをついつい手に取り,かばんに押し込んでしまったのでした。

 どれほど放置されていたものか不明です。当然,傷んでるかもしれません。いや傷んでるでしょう。食べてコレラにでもかかろうものなら一大事でございます。
 でもビニールがぴったりと包装し,鮭も玉子もつやつやと輝いておりました。しかも松茸ご飯です。下宿生の身でそう口に入るものではありません。
 さらに,筆者は洗濯機の裏から出てきたジャガイモや,割と酸っぱくなった肉じゃがや,青い点の見える南瓜,毛の生えた粒が横に見られる米など,ある程度おぞましい食品をこの一年間で食す機会がありました。柔らかくなった人参や変色したレタスなど文字通り日常茶飯事。そういうものを食べながらこの一年大した病気もしておりません。丈夫なものです。いや元来からポテンシャルはあったはずです。以前こんな食生活してませんし。

 食品の汚染が問題になっています。そういうときに弁当拾うなど。お前は汚染水使った加工品を食うのか,汚染米食うのか,といわれるかもしれませんね。そういうところは無頓着か,世の中が潔癖なのか,と。いえ,そういう食品は丁重に辞退いたします。それはどこか企業の(意図的かもしれない)ミスの結果ですから。少なくとも筆者の一年間のおぞまし体験や,置いてあった弁当は“時間が経った”以外,問題ないはずです。いや,分からんのですが,それは現在世に出回っている食品にもしかしたらある問題点が分からないのと同じレベルだと思います。

 結局のところ自分が信頼できる範囲で食べていかないといけないはずです。言われたから信頼しない,言われなければ気にしない状態。そんな状態で世間は「食育」と言ってるわけです。同時にちょっと期限が切れると大量に廃棄する世間もみんな分かって暮らしているわけです。それを考えたらここにある期限切れの弁当は,このまま捨ててしまうしか選択肢が無いものだろうか,というわけです。

 当然体調が悪くなったら自分がアホってことです。もちろん誰かが食べる予定だったのかもしれない,という視点もあるんですが。とりあえず松茸ご飯の誘惑も捨てがたいという意地汚さから全ては始まったのでした。 

「か」は最も強い口の閉鎖から最も明るい母音へと推移する、爆発力の強い一音である。「カッとなる」或いは「火」の音読みに見られるように、強いエネルギーの発動を表象する。

「き」は「奇」であり「危」であり「鬼」でもあり、何か人間に不安を催させる音である。木の戸が「キキキ…」と軋む音。「気」として感じられる得体の知れない恐怖。

「く」は「苦」。「句」となって現れる人間から自然界への微かな抵抗としての呟き。

「け」は「怪」「異」「仮」と人間の認識の及ばない範囲を示すが、「き」よりもいくぶん中立的である。唐突に一本だけ生えた「毛」のような意味の無さ。

「こ」は「此」方へ「来」いと呼ぶ音。「あ」とは対照的に、小声で呼び合う者たちだけの親密な音である。

ふと気付くと、自分の中で大きな部分を占めていた絶対的な考え方のようなものが形を変えていた。変えたくても変えられないと思っていたそれが、自分でも気付かないうちに変化していたことにひどく驚く。

 人はいつの間にか変わっていく。変わっていないように見えて、その実、何かしらの変化がある。
自分が身を置く環境、時の流れ、積み重なっていく経験、人との出逢い…様々な刺激、変化を受けて自分も変わる。

 私は表現するのが好きだ。何かを創り出すことが好きだ。
自分から生まれたものは、それが、どのような形をとっていたとしても、そのときの自分が滲み出る、いわば、自分の一部というか、自分そのものなのではないかと思う。
 だからこそ、どんなときでも何か表現したいと思ったら形にしよう、と思う。自分には少しずつでも常に変化があって、ある瞬間に表現したいと思ったことはその時にしか表現できない。そして、その一瞬一瞬に生み出した自分の積み重なりが、次の、未来の自分を生むのだ。

 デイリーの依頼を受けて、早一年以上経つ。このデイリーを通して、言葉、文章というものも表現方法の一つだということを実感することができた。私は今回をもってデイリー孝太郎から去るわけだが、勿論これから先も、創り出すことはやめない。言葉という手段によって表現したいことがあれは、まとまった文章に限らずとも、思い浮かんだままを書きとめていこうと思う。
 たとえ自分の目指すところまでに行き着かなかったとしても、そのときの自分ができる限り、出せるだけの力、気持ちを込めて表現したいものを表現できたなら、最高だなと思いながら。

 今まで有難うございました。
 またいつか、会う日まで。

 最近お気に入りのパン屋さんがある。こじんまりした小さなたたずまいで、おいしそうな匂いをいつも漂わせているそのパン屋はフランスのパンを主においている。そのなかでも私が心奪われたものがクロックムッシュなるパンだ。ハムとチーズをサンドし、その上にホワイトソースがかかっている。クロックムッシュ、日本語に訳すと「かりっとした紳士」、なんておしゃれなのだろう。フランスでは軽食としてこのパンがよく食べられるそうだ。

 京都の街中でクロックムッシュをほおばる。目の前には町家があってあっちに行けば御所でそっちに行けば鴨川で・・・京都の小路も食べ物ひとつでシャンゼリゼ通りに変わってしまう。

 「食べる」という行為は、本能だ。生物の活動の上での必要なエネルギーを得ることが出来ればそれだけで事足りる。しかし、限られた人生で1日三回以上もお付き合いをする食事なのだ。無味乾燥な食事のために短い人生の大半を充てたくはない。視覚・嗅覚・聴覚・触覚・味覚、食事をするのに五感のどれも休ませるわけにはいかないのだ。そして小路をシャンゼリゼ通りに変えてみせる想像力も働かせる。

 食欲の秋、煩悩に負けたものではないだろう。今年の秋は食をめいっぱい楽しもう、そして、生きていることをめいっぱい感じよう。なんだか素敵な秋になりそうだ。

 不思議な先輩に出会った。工学部4回生の方で、光や音データの処理について研究しているという。将来的には、例えば、奥行きや質感を伴った映像情報を保存できる仕組みができれば、文化財保護などに活用されうるらしい。

 そんなご本人が特異な感覚の持ち主で、自己暗示能力が尋常ではない。実際には存在しない光や音情報を脳内で作り出し、それをありありと感じることができるのである。例えば、街角で素人バンドが演奏を繰り広げていて、ドラムが特に調子っぱずれで聞くに堪えないと思ったら、ドラム音だけを脳内で消去し、より正確なリズムを「脳内ドラム」で刻んで合成することによって、かなりましな演奏を自分だけ楽しむことができるのだそうだ。同じ原理で、合唱団の中の気に入った人の声だけを聞いたり、下手な人の声だけを消したりすることはおてのもの。ソロアーティスト同士の架空コラボレーションを脳内で開催することもできる。

 この能力は、その他のあらゆる身体感覚に及ぶ。視覚的な面では、目の前の白いコップに金メッキをかけたり、無地の壁に瞬時に壁画を描いたりできる。アロマテラピー検定1級を持っており、「ベルガモットとラベンダーを混ぜた香り」など、任意の嗅覚情報を鮮明に想起できる。また、眠れない夜は、まず全身が冷たい水に浸ったイメージをすると体がぶるぶる震え、次いで温かい湯に入るイメージをすると全身が一気に緩んで温まり、スムーズに眠りに入れるという。

 彼に言わせると、「自分が持っている程度の能力はたいしたことはない、もっとできる人もいる」のだそうだ。そういう人は、目の前の現象が実際存在するものなのか、自分が想像しているものなのか、その区別もつかなくなるらしい。

 私自身はこのような能力を一切持ち合わせていないので、彼の話を聞いた時には、いささか誇張した話なのではないかと思った。しかし実際そうでもないようだ。感覚の仕組みについては私も興味を持っており、継続的に勉強しているので、この出会いは大変画期的なものである。彼と似たような能力を持っているという人がいらっしゃれば、ぜひ教えていただきたいと思う。
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