孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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なくしてからそのもの大切さに気づくとはよくいうが、有形のものが無に帰するというのはどんなことでもむなしいことだ。無常観もそうだし、文学の原動力にも、日常のメランコリックな気分にも、このむなしさはとうとうと流れている。
先日、生物についての話題の新書を読んだのだが、そこによるとどうやら人間を含め、生物の細胞を構成する原子というのは次々に新しい物に置き換わっているそうだ。皮膚のターンオーバーはよく聞く話だが、内臓や骨を構成する原子も次々に新たに取り入れたものに置き換わっている。著書の中に生命は原子の流れが部分的によどんで濃くなったところだ、といった記述があったのを覚えている。
なかなか信じがたい事実だが、そうなると人間という生命体は果たして有形のものなのだろうか?という疑問がわいてくる。目には見えない原子がなんとなく集まったところが私なら、私はもとから存在しないのではないか?今日の私と1年後の私はまったく異なった原子で構成されているのだから。
形あるものがなくなってしまうむなしさか、もともと存在しないものが(存在しているように見えていて)あるべき姿へと還元されていくことのむなしさか、どちらがつらいだろうか。私の場合は後者の方がなんだかとても安心できる。いや、安心というよりもむしろ幸運に近いものを感じる。意思のないタダのつぶつぶが偶然にもしかも正しく集まって、私を作っている。ここに存在することがラッキーなのだ。こう考えると、せっかくの神秘を自らの手で壊したいとは、とうてい思えなくなる。
まぁこれは主観の問題である。いずれにせよ、有なのか無なのかわからない私たちは実にあいまいな存在である。しかし、そのあいまいな中にただひとつ明確なことがある。目にも見えないし、どこにあるのかさえ分からないが、この体のなかに感情をひしと受け止めることができる。感情なんて錯覚かもしれなし脳みそのいたずらかもしれない。けれど、私を駆り立てるものはその感情以外にはありえないのだ。そして思うに、人間はこの「感情」を頼りに短くて長い歴史を歩んできたのだ。私たちは有るのか無いのかということを考えるのは楽しいが、その終わりの無い議論からちょっとはなれて休みをとる場所も必要なのだと思う。PR
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