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中学校から(正確には習い事で小6からだが)英語を学び始めてはや8年にもなり、ネイティブスピーカーとちゃんと話せるとまではとても言えないが、片言のコミュニケーションはできるようになったし、実際に外国で会話のやり取りをしたりもしたが、それでも英語がごく日常的に用いられる世界があるのだとは未だに信じられないものがある。外国人を見るとそれが我々と同じ人間だと思うこともできない。
彼らが何気なく話していることが、我々が何気なく話す下らない内容のものだと思うこともできない。
それは多分私が、外国人と身近な立場で交流したことがないからであろう。私の知る外国人はテレビで観た者に過ぎなかったり、実際に会った場合でも、社会人として、或いは教師として、つまり自分を立場の下の者として接してくる者であり、 その人の社会的な身分を抜きにした姿が見えるケースがなかったのである。異国との壁を乗り越える良いきっかけを未だに持っていないということになるのだろうか。
こんな私でも外国人とうまく話をすることができた時は非常に嬉しくなるが、それは英語というツールをうまく使うことが出来たという技術への喜びのような面があり、相手と交流できた、という喜びではないことになる。例えば英字新聞の内容が分かったというだけでも、話せたことと同じ質の喜びが得られてしまう。もしかすると学力的に培った英語力を試したいという気持ちの方が、異国の人と交流したいという気持ちに勝ってしまっているのかもしれない。
長々と英語を学んできたが、調子良くいけばそれも今年度で終わりとなる。そんな時なのに外国人に対し上述の思いを持っているのはけしからんと反省し、意識的に勉強し直さねばと思いつつも、どの先生なら楽に通るだろうかと考えてしまうあたりどうしようもないものだと悩んでいる。
池田晶子氏の文章「あたりまえなことばかり」に冒頭から出てくる一節に「言葉は命である」というものがあります。高校生でこれを読み,それを思って生活する中で自分の中で何か信念というか,目標というか,そういうものになっている一節です。
氏は死刑未決囚との公開往復書簡をテーマにこれを語ります。また,ホスピスにお務めの友人を指しても示します。
「死の床にある人,絶望のそこにある人を救うことができるのは,医療ではなくて言葉である。宗教でもなくて,言葉である」
「状況が動く限り,言葉は動く。生きている限り,言葉は必ず動いているのである。」
そして氏は,「だからこそ,会って語る,あるいは語らなくても共に居るということが,共に歩むことにおいていかに不可欠のファクターであるか,私は痛感した」と続けます。つまりは人との間で生きること全てに関わるものです。この次元の理解にまで私は簡単にはたどりつけていませんが,「状況が…」の部分までは何とか追いついていると思います。
このデイリー孝太郎は,一見すればどこぞの馬の骨とも知れない人間が日常のことを針小棒大に書きなぐったもの,と見えないでもありません。それゆえ義務感であるとか,方向性の無さであるとか,表面のきめの粗さが指摘されるときもあるのでしょう。
しかし,少数とはいえ人が言葉を連ねた文章,それが修正を加えられることも無く掲示されることについては,崇高な…と言えば大袈裟でしょうか,理想を感じます。
個人が日記のように文章を書くブログと違うのは,ブログはその継続,些細な日常の積み重ねに筆者の生活を感じるのに対し,この文章は連続させてもあくまで「連載終了」まで,基本的には一話完結でその人の考えを示します。文筆家でもない人々がそのように自己の言葉を凝縮させたら,そりゃあ問題もいろいろと発生するであろうにも関わらず,果敢に挑んで…いる人もいる(腰砕け)ことについて,注目したいのです。
事柄は言葉で語らざるをえません。その時にどんな言葉を選ぶのか。それがその人の人格を示すものであり,そして人格になることは「人の子の最大の幸福」(ゲーテ)となります。 今はまだデイリー筆者の人格どおしがふらふらと葛藤している感じかもしれませんが,ここからだけでも言葉の力がうっすらと浮かび上がるのではないかと思っています。
さあ,取り止めがなくなってきたところで…こういうわけですから,大元の「孝太郎」の文章のほうに,きめが粗くとも,一つ「一話完結」なものを投稿してみてはいかがでしょうか,と宣伝して終わっておきます。言いたいのはきっと3段落。まだ私も修行が足りないのでしょうね。
私が殊更強調するまでもなく、音楽を媒介するメディアの変化(進化?)は目覚ましい。音波を電気信号に替える技術は、音楽に録音・再生の調整という新たな手段を提供し、スピーカー・レコード・テープレコーダーといった新たな機器を生んだ。電気信号を数値化してデジタルに記録する技術は、音楽を劣化させずに保存することを可能にし、CD・MDという新しいメディアを登場させた。音楽メディアの歴史をみるに、この二つの契機が二大革命と考えられてよいのではないかと思うが、それに劣らず重要な第三の革命ともいうべき状況が近年起こっている、というのもまあ時々聞かれる言説であるが、私個人の所感として少し述べておきたい。
その第三の革命というのは「メディアの無形化」。iTunesを代表とする音楽ファイルのダウンロード配信が普及したことにより、音楽は実体のあるメディアから遊離し、あらゆる場へ転送可能なものとなり、結果、携帯電話でもパソコンでもiPodでもiPhoneでも音楽が楽しめるようになった。またミュージックビデオとして視覚メディアと結びついた配信も盛んになり、音楽の楽しみ方は多様化している。それだけでない。音楽は編集可能なものとなり、今やyoutubeやニコニコ動画といった動画投稿サイトには、違法コピーの是非はともかくとして、いろいろな視覚メディアと組み合わされたり、好きな曲順に並べられたりしたファイルが夥しい数出回っている状況である。
この音楽環境は、我々の音楽の聴き方にいかなる影響を及ぼしただろうか。音楽の聴き方の多様化というのは、単に人それぞれが「私は携帯で音楽聴く派」というように派閥に分かれただけでない。一人の人間の中にも「家に帰ったらニコニコ動画で音楽を楽しみ、出先ではiPod」というような複数の楽しみ方が混在するようになった。
すると人びとは気付いたはずだ。音楽というものは、それ自身完結した価値を持つというよりは、それを聴く状況、気分、オーディオ環境、映像の有無など様々な条件で違った聞こえ方をするものであると。だから、同じアルバムでも気分を変えるためにシャッフル再生にしてみる。大体気になった音楽はyoutubeで聴くが、特に気に入ったものはCDで買う。それでもその曲への愛が冷めやらず、着うたでダウンロードして目覚ましに使う。音楽の聴き方は高度に複雑化した。
だからこそ我々は、能動的に自らの音楽環境を選ばなければならないと思う。いたずらに四六時中音質の悪い音楽を鳴らし続けるのは、実は精神衛生上良くないことである。無責任な音に溢れた現代のサウンドスケープ(この語に関してはご自分で調べてください)は非常に劣悪である。私はMDに入れた音楽が、iPodに替えてから家でしか聴けなくなり、その覚悟はしていたものの、慢性的にストレスを感じるようになってしまった。主体的に良い音楽を志向しようではないか。それが音楽文化全体の高品質化にも繋がると信じる。
夜はとても静かな時間だ。日中はせわしなく活動している人間も、夜には床に就き眠りの世界に落ちてゆく。夜遅くに帰宅するとどの家の明かりも落とされ、辺りは静寂に包まれている。生きている者は自分しかいないのでは?と不安になるくらいに何の物音もしないのだ。日の高いうちには、人間は自分が世界の主役たる面持ちで街を闊歩する。その背景たらんとする街は、主に図体の大きな建物によって演じられる。どんなにそれが大きくても、人間様の存在感には勝ちやしないのだ。あくまで日中は背景である。そんな彼らも、夜には何よりも重々しい存在となる。昼間の雑踏がまるで嘘のように、彼らは世界に沈黙を強いるのだ。
夜は静かなもの、その静けさは我々人間が作り出した街によって実現していたのだ。街は生みの親である人間しか許さない。木々が風に揺れる音も、高層ビルが許そうとはしない。森に生きる野生動物の夜の世界も、満天の星空が地上を照らすことも許さない。矮小な人間が昼間にせかせかと生きることをただ許すに過ぎない。そして人間が眠りについた夜には、彼らだけの静かな空間を楽しむのだ。
そしていま、私はこの空間に足を踏み入れてしまっている。不自然で人工的な静けさが怖くなる。この中で人間は目を覚ましてはならないはずなのに、私はなにを堂々と歩いていたのだろう。私は夜の世界の異端者だ。いつかは裁かれる。
そう怯えながら、一方で生に満ち溢れた本来的な夜を強く強く想う。悠久の歴史の中、本来的な夜はずっと存在を主張してきた。そしてきっと今なおどこかにいるはずなのに、私は知りもしないのだ。けれども私は本来的な夜を探している。この街で培った拙い想像力と、ほんの僅かばかり遺伝子の記憶に残った野生を頼りに、私は本来的な夜を想うのだ。
明治時代の教育の始まりは西洋のカリキュラムをそのまま用いたため,「檸檬色」のような子どもはおろか先生まで実感が伴わない,つまり生活とはかけ離れた内容が頻出していたそうです。もちろんその字は書けるようになりますが,だからといって檸檬も檸檬色も実際は分からないわけです。
バイトで塾講師をしていると,教え子たちの知らない言葉の多さに驚くことがしばしばあります。ある中学生に国語を教えた際ですが,熟語の読みを扱う中で「忌引」「厄年」「盆」(ずいぶん抹香臭い言葉ばかりですいません),その他「名残」「悲哀」などが“全く初めて見る単語”として意味を尋ねられたのでした。抹香臭いシリーズはその文化に触れているか否かですけれども,「悲」「哀」の言葉を組み合わせた「悲哀」などは想像くらいしてよ,と言う感じでした。
彼にしたら,江戸時代から明治時代への移行期に「檸檬」が分からなかった人々と同様,生活の中にそれらの言葉は組み込まれていないわけです。たとえ漢字そのものから類推できるものであっても,その思考の枝は伸びてはいかない。
単に読み方の問題や書き方の問題の中でいきなり上記のような言葉を脈絡も示さずに持ってくる教科書にも罪はあるように思います。しかし彼は,彼が触れてこなかった身近な言葉の世界には全く疎遠なわけで,なんだかもったいないなと感じました。かく言う私も修行中の身,もったいない思いをずっとしていることでしょうが。
自分の知らない言葉を身に付けていくことは一生続く修練の一つと考えています。思考の枝を伸ばしていくには言葉を得続けないといけない。新語,流行語の類をより獲得していくものと並行してこういった素養も補強していきたいと改めて感じました。
檸檬が分からなかった人々も,そういった新しい言葉を獲得していくことと,同時にそれらの使用をそれまでの言葉の中に組み込んだことで知恵を作ってきたわけです。
なぜ人間は酒を飲むのだろうか。人間が酒に求めているのは酔いである。酔うことで人間は普段の苦労を忘れ束の間の自由を手にすることができる。酔いが回ると大体の人間は普段と比べおかしな言動をとり、状況の正確な判断ができなくなる。理性が失われるということである。しかしながら酔うと共に妙に頭が回り饒舌になる人間もいるという。最近話題となった酔いどれ大臣もその類いであり、普段はできないような黒い話題もできるようになると聞いた(彼の場合はそれが度を過ぎていたようであるが)。そうした話も含めると、酔いが回ると人間は大胆になるとも言える。社会生活を営む上で人間を縛る、様々なものに対する知的な配慮が酔いによって失われ、人間は自由になってしまうのである。酔う前と後の人間の様子の違いは、ある意味知的な配慮をすることによる人間の負担の重さを示している。
酒と共によく並べられるのがタバコであるが、本質はかなり違うものであると思う。にわか仕込みの知識であるが、タバコは吸えば吸うほど脳内活動を変化させる。そしてやがてはタバコを吸うことによって脳に現れる物質が、身体の通常の状態を維持するのに欠かせなくなる。いわゆるタバコ依存症に陥る。身体の機能はタバコによって大きく縛られるのである。
またタバコは人の容貌にも影響を及ぼす。以前姉妹のうち一方のみタバコを吸う双子を比較した写真を見たが、タバコを吸う方は吸わない方と比べ皺や肌のたるみが明らかにひどかった。主観的な見方になるが、その顔にはタバコがよく似合う。タバコは人間の容貌さえも、タバコなしではいられなくしてしまうのではないかとまで感じたものである。
このように酒は人間を自由にする一方タバコは人間を縛るものと見ることもできる。だから私はタバコは吸わない。もっとも酒もあまり飲みたくないのだが。
なんとなれば、例えば「一日中走り回って文字通りへとへとだ」などと言っている人がいた場合、「君、それは『文字通り』という言葉をうまく使えていない。修飾される言葉に額面通り以上の意味が含まれてしまいそうな場合にのみ『文字通り』は有効なのだよ。単なる強調表現とは違う。」と諭してあげたい気持ちにいつも駆られていたのでした。つまり、慣用句を使うときにその構成要素そのものの語義を際だたせたいときに、「私はグルメリポーターを生業としておりますが、最近仕事が減って、文字通り飯の食い上げなのです(笑)」などとうまいこと言うために、「文字通り」という言葉があるものと思っていたのです。ところが、
大辞林で調べてみましたら、別にそういうわけでもなく、「文字に記したとおり。少しもうそや誇張のないさまにいう。」とあって、例文には「文字通り一文なしだ」と書いてありました。思ってたのと違って、軽度に落胆しましたが、私の用法が否定されたわけでもないので、私としては向後も私の用法でこの言葉を使っていきたいと思います。はい。
ところで先日、何かニュースだったでしょうか、「文字通りくの字になって寝る」とかいう表現に出会いましてはっとしました。「文字通り」という言葉自体も、「文字」という言葉を「本来の語義」という意味で曲げて使っているのであり、上記の例文では、「く」というのは確かに文字でありますし、まさに文字通りの「文字通り」、メタ文字通りであるなあと思って笑いました。おわり。