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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 私は普段ぼんやりとしていることが多い。そのおかげで脳ミソがぐったりしていて、日常は緊張感にかける。車に乗ったり自転車をこいで頭が動くと、バカな脳ミソは自分が働きだしたと錯覚するのか、ようやく目覚めてくる感じである。

 しかし、本当に目覚めているのか、というとそれはかなり疑わしい。ちょっと気持ち良くなって、目覚めた気になっているだけかもしれない。

 自分の脳ミソが何をしているかというのは、なかなか分かりにくいことであると思う。素直に自分の思うようには働いていない。数学の難しい問題が解けずウンウン言っている時、本人は一生懸命考えているつもりでも、脳ミソは実は全然働いてないらしい。好奇心で色々調べてみたことも、しばしばすっかり忘れてしまう。そのくせ自分では本当にどうでもいいようなことを、一度聞いただけで覚えてしまっていたりする。脳ミソが何に対して活発に働いてくれているのかは、経験的につかむしかないのかもしれない。

 しかし、脳ミソの欲と自分の意志とが重なる時には確かに脳ミソは活発に働いている、すなわち思考している。脳ミソの欲がはっきり分からない以上、自分の意志をできるだけ長く保つことで思考する機会がより増えることになる。

 こんなことを書いているのは、思考している状態がどんなものかというのを私は今一つ分かっていないからである。何かに悩んでいるとき、ふと、自分は本当にその悩み事、いやそれに限らず、あらゆる問題にあたった時、思考しているのか?と思った。自分が何かを考えていると思っている状態が、本当に思考している状態なのか分からなくなってしまった。だからそのことについてまた悩んでしまっているのである。そしてまたそのことについて。やがてせっかく目覚めかけてたような脳ミソは、また眠ってしまうのである。

 

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いわずもがな、秋になった。朝晩の冷え込みはかなりのものだし、曇っていると日中でも肌寒い。どこからともなく金木犀の甘ったるい匂いが漂ってくる。街路樹の銀杏も少しずつ色づき始めた。

私は、かなり早い時期からこの場を借りて、秋の兆しを様々な方向から捉えることを試みてきた。しかしここまで来ると、秋を感じることにもはや努力は要らなくなる。自ら五感を開き、周囲に心を配って感じとってきた秋を「積極的な秋」として自画自賛するならば、いま我々が否応なしに受け止めている秋は、「消極的な秋」と言えるであろう。

 これが秋の心、すなわち「愁(うれい)」である。あれほどまでに掴み取ろう拾い上げようとした秋という季節が、いまや大きな流れとなって迫っている。自分はそれを受け身で迎え入れるしかないのである。その何とも言えぬ脱力感・無力感・嘆息感。これが私の感ずる「愁」である。

 その意味で秋は終わった。次は冬の兆しを探すことになる。しかし、やはり冬は暗く寂しい季節である。秋に耳を凝らしたときのような期待感はどうしても持てない。季節というものを意識し、それを繊細に追いかけてゆこうとする作業は、そうたやすいものではないと分かった。

 春の心「惷」は「うごめく・みだれる」という意味だそうだ。春が迫り来る感じだろうが、秋のそれとはずいぶん違うものだろう。ただ、季節の洪水とも言うべきものに心がうずもれてしまう、そのイメージにおいては一致が見られるかもしれない。漢和辞典を繰っても「夏の心」「冬の心」は見当たらない。やはり東洋文化圏における春と秋の持つ意味合いは絶大なようだ。

 

明日の朝吹く風の「しゅう」という音が「愁」に聞こえたら、あなたの中で秋は終わる。

スケールの大きな(小さな)話。

 オーケストラは多くの楽器で構成されていて、いろいろな旋律が同時に鳴らされている。
 慣れていないうちは、目立ったメロディラインしか認識できないが、繰り返し聴いていると、主旋律の裏にある音の動きがわかるようになってくる。これがわかるようになると、わからないままきくより音楽が数段おもしろくなる。
 合唱をやっていると(おそらく多くの人がやったことがあるだろう)、主旋律とか対旋律とかいわゆるハモリというやつとかがあるのがわかりやすい(非常に大雑把な言い方だが)。ここで、主旋律以外のパートはつまらないかというと決してそうではない。私はむしろメインでないパートをやるのが好きだ。どんなパートも、練習しているうちに、不思議とその音の並びを「歌」と思うようになる。みんながそれを「聴く」という思いこみようなものが芽生える感じだ。
 ところがやはり、裏に織り込まれた歌は注意深くきいてやらないとよくわからないことが多い。ただ、メインの部分だけきいているようであっても、それを支えている響きもちゃんといっしょに自分の中にはいってきている。
 オーケストラも、それぞれの楽器が、それぞれの歌を歌っているのだ。それらがじつにうまく調和し合ってひとつの曲をつくっている。月からみた地球は青い球体であるように見えるが、そこには多くの生命があって、それぞれのリズムを刻んでいる。その多くの生命は互いに依存、影響しあうのであって、そうでなくてはいられない。様々なことがらが同時進行ですすんでいって、それがこの世界、青い地球をつくっているのだ。
 注意して、さまざまなところに「耳を」向けてみよう。そうすると、自分が何気なくきいていた音楽の奥深さに感じ入ることになる。音楽でなくとも良い。それぞれの楽器を人間の一人一人と置き換えても同じ話ができる。私たちはみんな歌っているのだ。宇宙は壮大な交響楽であるのだ。

 槇原敬之の歌「僕が一番欲しかったもの」とGReeeeNの「愛唄」のメロディーラインが酷似しているという指摘が、ファンを含めて様々な人から出されています。YOUTUBE上に比較(といっても結論ありき)のビデオが掲載されるほどです。茶化すためにビデオの編集ご苦労さん、と皮肉るのも少し躊躇うほど真剣なものでした。

 

 独創的であることが重くみられる芸術の世界ゆえ、同じものが出てきてしまうのは失格だ、ということなのでしょう。別にGReeeeNのファンでもなく、弁護の意思はありませんが、この二曲に限らず、この手の「被り」にはどうも非難をする気になれません。ああ、草派の陰からの言い分ですが。

 

 一つのメロディーに、一つの詞が対応して歌ができ、それが歌われて作品になる。その過程で、一部のメロディーが聞き覚えのあるものでも、その前後のつながりや詞、息づかい、その他の要因によって違う意味を為すように思います。勿論歌以外にも充分当てはまるでしょう。熱心に作られた曲であれば「その音しかない」からその音が使われているわけで、単に似てる、では評価を少し下げるくらいならともかく、非難まですることはないだろうと感じます。そんなことなら先に、似たような歌い方しか出来ない某アイドルグループを歌手として批判しとくべきです。

 

 あと、作曲者の有名度も関わっているように思います。W・A・モーツァルトの曲は、特にカデンツァに於いて一体似たような動きが何度、何曲に出てくるでしょうか。久石譲の曲にも相互の類似はあります。ですが、あまり文句が出ません。特に前者は似てると発言するのも憚られるような状態です。

 

唾を散らしてこんなことを言ってますが、結局、どういうスタンスを取るかということまで芸術に対しては自由ですね、とここまで書いて思いました。容赦なく非難するもよし、弁護するもよし。冷めて傍観するのも一手。最初に示した結論ありきのビデオは「あなたはどう思いますか?」で終わっていました。ここまで読んでくれたあなたに問います。「あなたはどう思いますか?」

Eight days a week is not enough to show I care」John Lennon/Paul McCartney

家で寝ているだけの生活なら曜日など関係なしに過ぎていくのだが、このごろは授業が始まったりして、一週間というサイクルで日々の生活が螺旋状に展開してゆくようになった。気ぜわしい日々。ビートルズの歌の如くもし一週間がもう一日多かったら、何の授業を自分がとったか分からなくなりそうだし、だいいち休みの頻度が減ってしまう。かといって休日をもう一日増やすのも少し休み過ぎの感がある。一週間が7日というのは何とも絶妙な日数であるように思う。

ときに、どうして7日なのだろう?「日が昇り日が沈む」という1日のサイクルが、「暑くなり寒くなる」の一年のサイクルに嵌るのが大体365回目で、これは自然の摂理に従っているので仕方がない。これを12の月に分けるというのも約数が多いということで合理的だ。また、もう少し細かい単位に目を移しても、1日は24時間に、1時間は60分に、1分は60秒に整然と分けられている。一週間だけが素数、7日なのだ。

 素数ということは、約数がない、すなわちどんな数でも割りきれない。例えば週に2回アルバイトを入れようと思っても、丁度何日おきというわけにはいかず、2日空いたら次は3日空くことになって何となく均整が取れなくて少し気持ち悪い。週3でもこの状況は変わらない。無理に均整を取ろうと思えば毎日働かねばならず、それではせっかくの安息日が意味を失う。つまりは、一週間が素数であることによって、各曜日は他のいかなる曜日とも性質を共にせず独立した存在でいられるというわけだ。日曜日と水曜日に糸と麻を買いにいくなら水曜日の方が沢山買い溜めないといけない。月曜日の気分(人によっては週の始まりの憂鬱だったり、週の始まりのウキウキだったりするだろう)は月曜日にしか味わえない。各曜日がそれぞれの個性でもって我々の生活を前へ前へと押し進めてくれる。各曜日それぞれに違った愛着が湧いてくる。

 このブログには各曜日に担当者がいて、つまり計7人がかわるがわる記事を書いているわけだが、どの曜日とどの曜日が似通うということもなく、各曜日それぞれに個性があり、彩り豊かで読んでいて大変楽しい。私も私の拙文で以てこの彩りの中に参加できているというのは大変に光栄なことである。

私は空を眺めるのが好きだ。雲一つない真っ青な昼間の空も、オレンジから、緑、青と綺麗な色のグラデーションを見ることのできる日が沈む直前の空も、どうやったらあの空の色を、雰囲気を、キャンバスに閉じ込めることができるかな、などと思いながら、ぼんやりと眺める時間が私はとても好きなのだ。

空を見ても飽きることのないのは、空が見る度に違った表情を見せてくれるからだと思う。例えば、とても心に残った空があったとして、それと同じ空をもう一度見たいと思っても、それは叶わない。一見変わっていないように見えても、一秒一秒、時間が流れていくうちに、雲が動き、日は沈み、空の表情はどんどん変わっていく。自分が空へと目を向けたその一瞬にしか、そのときの空は見ることができない。だからこそ、私は空にどうしようもなく惹かれてしまうのかもしれないとも思う。

こんなことを考えながら、人間も似たようなものか、と思った。自分は何の変わりもない毎日を過ごしているように思えても、実際は、周囲からの影響、また、自分の一つの行動や思いが、少しずつ、けれど確実に未来へ変化を与えていく。一日として、同じ日はなく、同じ自分もいない。変化が小さすぎて気づかないけれど、一瞬一瞬、違う自分がいる。書いてしまえば、当たり前のことかもしれないが、こうして実感すると、ますます、一瞬一瞬の時間を大切に過ごしていきたいと思うのだ。

 外を歩いていて、鏡や窓ガラスや車など反射するものを私はひどく意識してしまう。そこに写る自分の姿を必ずと言っていいほどチラリと見てしまうのだ。自分の容貌は惚れ惚れするものとは程遠いし、体型も見るたびにがっかりしてしまう、何か長けた能力ももちろん無く性格だって悔しいくらいに欠点だらけだ。なのに私は、そこに写った私の像をある種の自信と優越感に浸りながらフフンと眺める癖がある。そこにあるのは現実逃避でも偽りでもない。ただ、すがすがしい前向きな気持だけだ。

自己の容貌に異常な愛着を感じ自己陶酔ゆえに他者を排斥するナルシスト・自己愛者と俗に呼ばれるものとはまた異なることだと定義しておくが、自分を愛することはそれほど悪いことではないと思う。「自分のことが嫌い。」だという声はよく耳にする。それは、特別な環境の下にいる人だけでなくこの満ち足りた現代における人々からも発せられる、いやむしろ後者の方が多いのかもしれない。人間の良し悪しの基準は容貌でも能力でもない。自分が嫌いなら直せば良い、直せないならばそんな自分を認める人間になればいい。私は「私」と一生付き合ってゆくのだ。

自分を愛することは、自分の現状に満足する・自己を過大評価するということとは必ずしも同値ではない。それは他者を愛することと同じように、健やかな人生を歩むことを望み、欠点を含めた全てを受け入れ、また成長させようとすることも自己への愛の範疇であろう。人間としてまっとうな幸せな人生を送るために人間は生きているのだ。自身を理想の人間像に近づかせようとすることは、人間性の向上という点で不可欠なように思われる。自分の心の動きに意識を向けて生きていなければ、他人の気持など分かるはずもないだろう。今日よりよい明日を望み、より良い人間を目指し、より多くの人に愛されたいと願うことは人間としての正当な欲望であるはずだ。

何もせずとも容易に生きられる時代・社会に我々は生れ落ちた。ある種の生命の危険が無いと、なかなか自己への愛は生まれないのかもしれない。「人間関係が上手く行かない。」「毎日が楽しくない。」「私なんて死んでしまえばいい。」・・・・・・・・・自分を愛することができずにいるあまりに謙虚であまりに自由な私たちにとって、現代は生き難い時代なのかもしれない。

鏡の中の自分に微笑みかけよう。「私」という魂の居場所を自分の手で、心地良いものにしていこう。或る、ナルシストがぼんやり考えたことである。

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