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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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虹の色は何色だろう。

 虹の色の数は日本では一般的に、赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の7色だと言われている。昔は、それが当たり前の事実であると思っていたが、実際は文化によって虹の色の数は異なる。イギリスやアメリカでは、青と藍を区別せずに6色(但し学術的には7色とするようだ)、ドイツではさらに橙と黄を区別せずに5色、また民族によっては暖色か寒色かの区別しかせずに2色とするらしい。

 虹は連続的に色が変化しているので、色に対する認識の違いによって、このような見方の違いが出てくる。文化や言語によるところも大きいだろうが、たとえ日本内でも、実際に虹を見たときに、虹が何色なのかを数えたなら、その数は人によって異なってくるのだろう。

 目に飛び込んでくる光は同じはずなのに、その色の受け取り方、捉え方が違うというのは、なんとも不思議な気がする。自分が「青」だと認識している色を、他人は「緑」と認識することもある。一人ひとり、目に飛び込んでくる世界の色が違うのだから、人によって世界の見え方も違うのだ。漠然と人は、世界の見方を共有できると思っていたが、今、眼前に広がっている世界は自分だけのものであり、それを他人に共有してもらうこともできなければ、逆に、他人に見えている世界を自分が共有することもできない。

 

 私は絵を描くことが好きだ。自分が綺麗だなあと心惹かれた色、色合いを思い浮かべながら、それをキャンバスに閉じ込める。自分の思った通りにその色を表現できたときには、喜びを感じる。だが、思い浮かべながら表現したその色は、頭の中からキャンバスに飛び出たとしても、他人から見れば、それはその人の「色」であって、自分の感じた色とは違うのである。

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 20日というのは(私にとっては)バイト代が振り込まれる日なので、はやく振込確認ハガキみたいなのが来ないかなーと心待ちにして、何度も郵便受けを覗いてしまう。振り込まれたからと言って、ほんのわずかな額だし、どうせ特に使い道もないので、お金があるかないかは別として、単に自分のしたことに対してそれが支払われたという事実にうれしくなっているだけな気がする。
 そんな私がたまにお金をつかうといえば、専ら書籍代としてである。本を(いや、なんでもそうだが)買うときのワクワク感が私は好きだ。参考書や問題集の類を手にレジへ向かうときでも、やってやるぞと奮い立つような気持ちになる。
 ただ、それを買うまでには、何度も本屋に足を運んで、買わずに帰る、ということをやっている。よくよく見定めて、惚れこんで、これぞ買うに値する!という情熱と、財布が財布として機能している(つまりちゃんとお金が入っている)ときが重なれば、その本はレジへ運ばれることとなる。
 そうして手にいれた本がどう私のためになるかと敢えて問えば、たちまち私の駄目さが露呈してしまうだろう。先に書いたバイト代のように、手に入れた時点で満足してしまって、本は棚に“陳列”される。宝の持ち腐れ。時々手にとって、面積の小さい面(?)すなわち紙の端が集まってできている面の手触りを確かめたり(すべすべして心地よい)、前書きを読んだりペラペラめくってみたりしてうんうんと頷く。「大事なのはどうやって金を稼ぐかではない。稼いだ金をどうやって使うかだ」、とはよくきく言葉だが、「大事なのはどんな本を何冊持っているかではない。一冊の本をどれだけ使い込むかだ」ということも心に刻みたい。
 ちなみに、新書や文庫本でもあまり安くないものが多いので、だいたいの本は図書館で借りて読むことにしている。読んでるうちに、これ選んだのは失敗だったと思えば返すまで。いつまでも家に置いておけるより、返却期限があった方がちゃんと読む。などなど理由はたくさんつけられるが、なんといっても図書館というもの自体、貸出、返却の手続き、自習しようと思っ…たけど睡眠!という様子などすべてひっくるめて、好きだからというのもある。少し残念なのは、高校とか府立、市立の図書館の本の数は多過ぎて、「図書館の本はすべて読みました」なんてことができないことである。

一週間の始まりである月曜日。
遅刻しまくりの月曜日。
ストーブの長い休みが終わりを告げた月曜日。
そんな月曜日に、今日も孝太郎をのぞきに来てくださった方、どうもありがとうございます!


では本日はバイト先の話を。

私は6月頃から塾講師をやっています。
そこは、生徒2、教師1の個別指導を行っている塾です。
生徒を両脇にして、教えているのですが、たいてい両脇の生徒同士は知らない者同士です。
学年も教える教科もバラバラです。
そんな職場で私は個人的に、生徒たちに新たなコミュニティーを提供したい思いがなんとなーくあるのです。
2人に同じ質問をしたり、右の子の話に関して左の子に意見を聞いてみたりと、話をする「機会」、「チャンス」を提供したりしています

この間は、学校も学年も違う中学生2人にジャニーズの話をしたところ、2人ともジャニーズ好きなことが発覚!
教材のコピーでちょっと席を外している間に意気投合していました。(間の席に戻りにくい・・・)
帰り際にHay!Say!ジャンプの山田くんの画像を交換したりして、なんだか微笑ましい。
ジャニーズは人の壁も越えていけるようです。

友達の友達は友達。
今回は先生という私を通して、2人は知り合い、3人のコミュニティーが出来上がりました。
つまり△な関係になれたわけです。
これをネットワークの科学では、クラスターと言います。
このクラスターは人々に安心をもたらします。
5人組も五角形に繋がっているわけではなく、実は△の繋がりが組み合わさって出来ているのです。
情報のネットワークが拡張し続けている今、人のネットワークについて少し目を向けてみませんか?
そんなクラスターなるものやネットワークについて紹介されている本を最近読みました。↓↓

「私たちはどうつながっているのか  ネットワークの科学を応用する」
著作:増田直紀
中公新書
2007年4月25日発行

もしよければ手にとってご覧になってみてください。
秋の夜長が終わってしまう前に。

私は落語ゆうやつが好きでして、小学生のころ、親の持ってた桂米朝の落語のテープを何べんも聞いて、しまいには一つの話を全部覚えてしもうたことがございましてな、身近な友達には趣味のあう友達がおらんかったさかい覚えた落語洗濯物干してる親の横へ行って話してきかすみたいなことをやっとった気がします。
しかし好きとは言えなんとなく何年か前からほとんど聞かんようになってしもたんですが、この10月から某局のドラマで落語家のでてくる話がはじまりまして、それをきっかけに久しぶりに古いテープを出してきて聞いてみたんですな。これがやっぱりまたおもろいんですわ。聞く前は、もう何年も聞いてなかったもんで一回覚えた話もはっきり思い出せなんだですが、ひとたび聞きだすとでてくる人物のセリフやら展開やらが蘇ってくる、これではさきが読めておもろないんちがうかと思わはるかもしれませんがそれがそんなことはない、何遍聞いても笑えるゆうところが落語のええとこのひとつや思います。
もっとみんな落語をきいたらええのに、とは小さいときに思うとりましたが、最近自分もきいてなかったもんで、昔の自分に怒られそうでございます。「らくごのご」みたいなんでええからおもろい番組ができてくれへんやろか、なんて。
え、オチですか。そんなもんはまた来週つけますわ。

 通りすがり

 

 

草叢を歩きました。頭上には紅くなった木々がありました。着いた建物の階段に腰を下ろしました。

 

 ふと気づくと足下に何かくっ付いていました。見慣れた「くっつきむし」と、見慣れない草の実たちでした。軽く通っただけなのに、前にも後ろにも付いていました。平べったいの、丸いの、黒いの、緑のとありました。

 

 とりあえず取って放りました。一つとると指に粘液が残りました。顔をしかめて次々と取りました。ですがどんどん取りにくくなりました。なんとかやっとで取りきりました。

 

 

「お前についていく中で 新たな世界を夢に見た ここでどうせ捨てるなら せめて大地に投げてくれ」

 

 

 指先に残る粘りからそんな声が流れてきました。

 

詠うような、はかない声でした。

 ネタがないことをネタに書かれた文章ほどつまらないものはない。しかし今回に至ってはこの手段を採らずにはいられないだろう。なにせ現在、11月16日の23:19。ネタがないというよりは時間がない。いずれにせよ書いている自分の状況を書くという、文筆のショート回路は大した文章を生まないだろう。そんなことは百も承知で、敢えて今日はだらだらと時間の許す限り綴ってみようと思う。
 小学校の卒業文集でどうしても書くことが考えつかないという友達がいた。「小学校での思い出」若しくは「将来の夢」と大まかな題は与えられていたものの、それではあまりにも抽象度が高かったようだ。担任の先生も入稿の〆切などあったのだろう。困じ果てた風だった。ところが、とうとう時間に窮して彼が無理矢理書き上げた短い文章は、奇跡的に芸術的なものだった。流石にここに全文を載せるのは憚られるが、私にはかなり印象的な文章で、今でもかなりの部分を覚えている。
 「羽があったら飛びたい」で始まる彼の文章は、題の抽象度を遙かに上回る抽象度で、「~なら○○したい」を次々に羅列してゆく。そして最後に「僕は勉強が嫌いだ。遊ぶことが好きだ。」とやはり抽象的な宣言をして終わる。今になって思うが、これはトリスタン・ツァラの「ダダ宣言」に似ている。「言いたいこと」?そんなもんねぇよ。それが俺の言いたいことだ!何とも体制に対して挑発的な態度。この文章は今読んでも瑞々しく心を打つ。小学生の彼に、そこまでの意図など無かっただろうが、子どもというのはガチガチの観念に固められていないだけに、時としてこのような一発逆転ホームランを打つものなのだ。
 23:43。そろそろupの作業を始めるべきだろう。一発逆転ホームランを打つには、私はもう生き過ぎているようだ。来週からはちゃんと計画的に書こうと思う。

私は、小学校4年生の頃から、クラリネットをかれこれ9年以上やっている。しかし、自分の中で、最も思うように吹けていたように思うのは、ほぼ毎日のように練習していた中学生の頃であり、週に2回ほどしか吹けていない現在では、思うように吹けずに悶々とするばかりである。他人と比較するものでもないとは思うが、楽器を始めて3年程だとしても、ほぼ毎日のように練習を積み重ねている人の方が自分よりも上手い場合が多く、大切なのは年数の長さではなく、練習の密度の濃さなのだと思い知らされる。

勉強に関しても通じるものがあるように思う。集中せずにだらだらと長時間勉強するのと、たとえ1時間でもしっかり集中して勉強するのとでは、後者の方がより効果があるに違いない。

 ここまで色々なことを思い巡らせながら、ふと、考えようによっては自分の1日の時間を「延ばす」ことが可能なのではないかと思った。私は今まで何度となく、他の人より24時間程、余分に時間が欲しいなどと思っていたが、1日、つまり、陽が昇って沈み、また昇る時間、24時間を自分だけ48時間に延ばすことは勿論不可能である。だが、集中して過ごす1時間が、怠惰に過ごす1時間より、何倍も効果や密度があるのだとすれば、前者の1時間は、後者の何時間かに相当するとも考えられ、時間の過ごし方によっては、1日の時間を「延ばす」ことができる。何ともわかりにくい説明になってしまったが、自分の時間の過ごし方次第では、上に述べた願いも叶えることができるのだと、私は妙に嬉しくなってしまった。

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