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 世には多く宗教を信ずる人がいる。科学の発達した現代にさえ、神の存在を当たり前のように信じて疑わない人がいるのである。世界の歴史、そして現代の状況を見ると、信ずるものの違いから生じる争いは絶えず、世界のあらゆる争いの根元と言ってもいいほど醜いものである。

 今宗教を信ずる人を世界的に見れば、その多くは恐らく生まれながらにして信仰する環境にあった人であろう。同じように、『当たり前の』世界観とは、生まれながらにして疑う間もないまま形成されるものである。それを誰かに否定され、悪とまで言われたなら、その人は悪と呼ぶ『悪』と闘わねばならない。当然の世界観を否定されることは、己の生涯を否定されることでもあるからである。この世界では、ある世界観を持つと、それと異なる世界観を持つ何者かと相対する宿命を背負う。

 しかしもともと、何かをひたむきに信じるという行為は、愚かであっても美しいものであるはずである。今はそうした見方はしにくくなっているだけであり、本来は人間の理想とするべき在り方の一つであることは間違いないと確信できる。

 私はいつか生き方を改めるほどに信じられるものに巡り会いたいと思っている。ひたむきに信じ、かつての苦悩を解消して救われる。このような過程を経たならば、他人の自分とは異なる世界観に対しても、大なり小なりその人が信じるものに行きつくまでの苦悩或いは思索が思いやられ、もう少し寛容になれるのではないかと思うからである。

 だが今はまだあまり救われていないので、どちらかというと闘いたがってさえいるから、非常に危険である。
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 「読書の秋」「芸術の秋」「スポーツの秋」……。秋には色々なあだ名がある。日本人の秋好きをよく表していると見ることもできるし、春・夏をぼんやり過ごしすぎたので冬眠までの最後のチャンスに何でもかんでもやってしまえ、という意味にもとれる。まあ、そこまでひねくれずともよかったか。

「味覚の秋」というのもある。秋刀魚や蟹、松茸といった海の幸・山の幸がちやほやされるが、そんなことよりくだものが美味しいので、私は秋が大好きである。

 八月の中ごろ、農家をやっている埼玉の親戚から桃がたくさん届いた。桃を秋のくだものというのには多少抵抗があるが、「くだものの季節」の到来を告げてくれることには違いない。今年の桃は天候に恵まれ、水気が多く、甘みも強かった。せっかくたくさんあるのだから、少しずつ食べて長い間楽しみたいが、完熟した桃たちはすぐに痛んでしまうのでそういうわけにもいかない。知り合いに分けたりもしながら、一週間くらいで食べきった。

 今はというと、梨が最盛期。形がよく似ていることから、しばしば林檎と比較される梨だが、見た目の美しさはともかく、味では梨の方が格段に上だと思う。こちらも、みずみずしさと強い甘み。そして、独特の肌理のあらさに由来する爽快な歯ごたえ。桃にはときどきとんでもなく渋い「ハズレ」があるが、梨にはめったにないのもありがたい。ひょっとすると、私の一番好きなくだものかもしれない。

 そして、秋の終わりを告げるのは、何といっても柿である。すこし肌寒くなる時期、スーパーの果物売場にうず高く積まれた柿の山は実に圧巻である。あの皮の色はなんと言ったらいいのだろうか、「オレンジ色」も「だいだい色」も柿の形容に限ってはそぐわない。かといって「柿色」というのは柿渋の色のことだからかなり違ってくる。妙な課題にぶち当たってしまった。さて、柿といえば、熟しすぎてやわらかくなったのが好きだという通の方もいらっしゃるが、私はむしろ固めの実を大ぶりに切ってガリガリとほおばるのが好きである。本当に甘い柿は、固いあいだのほうが鋭く甘い。熟すにしたがって甘みがぼんやりとしてしまう。

 桃・梨・柿。秋を代表する三つのくだもの。それぞれに特徴があり、魅力的だ。三つの最盛期が少しずつ違い、市場における主役の座を分け合っているのも心憎い。秋を三つの期間に分けて、「桃秋」「梨秋」「柿秋」などと名づけたくなる。

 林檎や蜜柑が本格的に出始めると、いよいよ冬支度。読書も芸術鑑賞もスポーツも、忙しくて思うようにできなかったなあ、と嘆いて、日本人は過ぎてゆく。

9/8

先日、原因不明の蕁麻疹に襲われました。始めダニの類かと思ってその対策をとってましたら、発疹はみるみる全身に広がって、酷い所では十五センチ四方の腫れが幾つも出来ました。何しろ原因不明です。昨日何か落ちてる物でも食べたかな?などと考えても心当たりがありません。その時、ふと思う所あって考え込むのを止めて、とりあえず寝ました。

 

思う所、といいますのはある心理カウンセラーが示したことです。骨組みだけ紹介しますと、全く知らない土地を一人で歩き、迷った。その時近くに人を見かけた時、「私は何故迷ったのですか?」と尋ねる人はいない。しかし事柄によっては平気で同じ趣旨の質問をしてしまう人が多い、というものです。具体的には、子どもが非行に走ってしまった親が、「私の育て方のどこが悪かったのですか?」と聞いたり、交友関係が上手くいかない人が「私の性格のどの辺りを直したらいいのですか?」と相談したりする状態。実際に考えるべきは道に迷ったときと同様、これからどうするか、ということなのですが。

 

「安心を求めている」「今後の反省に活かす」ためとして先の質問を肯定する人もいるかもしれませんが、道に何故迷ったかを尋ねて、「地図を用意してなかったからだよ」と答えてもらって原因が判明したとしても、それによる安心ってどれほどのものでしょう。で、以後地図を持ってこようと心に固く決めた所で、迷ったものはどうしようもない。問題が解決してないのに安心も反省もあったものではありません。

 

「自分のせいではない」という期待も含まれているでしょう。子どもが病気になった時、医者に「今は特に流行っている病気だ。」と言われると安心する親は多いでしょう。不振の時に「最近運が悪い」と思ったりするのも同じ。「何故迷ったのか」の考えを抜けていません。

 

大変難しいことではあるでしょうが、「どうしたらいいか」に考えをシフトすることが真剣に解決できる手段であるでしょう。

 

あ、蕁麻疹は翌朝理由不明で治り、念のため病院にいったら申し訳程度の薬を処方され、二日後には全快しました。
9/7
 近頃、マクドナルドで注文しようとすると「お召し上がりですか?」と訊かれるようになった。「こちらでお召し上がりですか?」の「こちらで」を省略したのだろうが、「食べ物は召し上がられるためにあるもの」という前提を覆してしまうような妙な質問となっている。私が最初にこれを聞いたのは確か2年ほど前であったと思うが(そのときは笑いをこらえるのに必死であった)、今ではかなり普通に聞かれる表現になったようだ。
 いま、マクドナルド店員の立場に立って考えてみるならば、これからお客様にお出しする商品は、現時点では「食べられる」か「持って帰られる」かのどっちかであって、持って帰っていきさえすればその後は、そのままゴミ箱に捨てられようが仏壇に供えられようがそんなの関係ねぇといったところであって、この二分法に従うならば、「お召し上がりですか?」だけであってもその意味するところはもう明確なのである。
 言語は完全に論理的たり得ないし、人間同士の対話は何らかの前提を共有していないと成り立たない。「こちらでお召し上がりですか?」に対して「いいえ、あちらの席に座って食べます」と答える人がいても何も不思議はないのである。
 ただし、この例の場合、前提が店員の側に寄りすぎている。お客様である私は家に持ち帰って「食べる」ことを主たる目的として注文をするのだから。とはいえ、私も上記のように店員の意図を読んでしまっているため、「いえ、お持ち帰りで」などと誤った自敬表現で答えてしまうというのは、何とも情けない。私のような優しい市民を味方につけ、大会社日本マクドナルドは日本語文化に(もちろん善悪両方の)影響を与えるほどの力を握っているのである。
 斯様に言語の変容には非・論理的な人間の力関係がつきまとう。変容を拒否することは誰にもできないが、その背後にある人間社会の営為を注意深く見守っていく必要はあると思う。
9/6
 何か、見たり、聴いたり、体験したことに対する感想を咄嗟に述べるとき、私は「よかった」という言葉を頻繁に用いる。しかし、「よい」という言葉は、自分が好感を持っているということを表すだけで、自分の中に生まれた感覚を的確に表すことができず、もどかしい思いをする。私は今まで、こういったもどかしい思いは、自分の中の語彙が少ないからだと思っていた。語彙が増え、自分の中でそれぞれの語の微妙な差異を知っていれば、自分の中に生まれた感覚を様々な語句を用いて的確に表すことができ、自分の中のもどかしい思いもなくなるだろう、と。

しかし、本当にそうだろうか。よく思い返してみれば「よい」というのは、無意識にでた言葉であって、自らの語彙から意識的に選択したものではない。自分の中で生まれた感覚を分析して、その分析に当てはまるような表現を、自分の語彙の中から選択して述べたとしても、私には、最初に出てきた「よい」に込められた感覚とは違うものを表現しているように思えてしまう。

結局、自分の中に生まれた感覚というのは、言葉には表せないものなのかもしれない。突発的に自分の感覚を表現した「よい」という言葉は曖昧で、自分の中の感覚にしっくりとこない。だから、表現を突き詰めていって自分の中の感覚を的確に表そうとするが、言葉を尽くしたところで、その表現は最初に生まれた感覚とは違うような気がして、今度は「よい」という曖昧な部分が多い言葉こそ、自分の感覚にぴったり当てはまっているように思えてしまう。こんな延々と続きそうな循環を繰り返しているうちに、私は言葉というものに振り回されている感覚に陥った。

9/5
 人間は世界の解明のために生きているのではないだろうか。世界とは我々が存在する場・空間・時間・要素・価値など全てに関することだ。科学者アインシュタインがなんとかと言い、哲学者フーコーがかんとかと言う。自然科学、人文科学、社会科学に関係無く、いや、学問か否かに関係なくだ。「今が楽しければいい」若者も、政治に興味のない主婦も、世界と自身の価値を疑い自殺を願望する者も・・・心に潜む生への疑問と共に生き、そして死ぬ人間は皆、世界の解明を望み生きているのではないか。
 脳科学が人間の全ての思考パターンを予測し、宗教の開祖が宇宙の根源を見る。全てが繋がるかもしれないし、逆に全てが破綻するかもしれないが、世界が解明される方向にあることだけは確かだ。
 そもそも解明とは何だろう。とんでもない結末を考えると私の拙い想像力では、もともと全てが必然である決定論や、神とも言うべき絶対的存在が我々を操作しているだとか、宇宙そのものが何かひとつの大きな生命体の細胞であるとか・・・こんなことしか思い及ばない。しかし、どんな形であれいつかは解明されるのだ。解明された結果、自然科学が完全なるものだとしても、その整合性と自身の儚さに我々はぞっとするに違いない。解明の時が人類滅亡の後のことであれば、他の星で同じく解明に向わんとしている生命体にでも続きは任せよう。しかしそれが我々の滅亡前のことならば、きっと世界が解明されるまさにその時に人間の存在は浮遊し、その時が滅亡の時となるのではないだろうか。
 だからと言って、滅亡を恐れて解明への道を捨ててしまえば、それもまた生きる価値の喪失と共に人類は滅亡するだろう。結局のところ、世界の解明に向って我々は進まねばなるまい。学問と学問ではない何かを守りながら、今までそうしてきたように、少し冒険的に少し盲信的に進まねばなるまい。そして生への疑問と共に生き続け、最期はやはり死なねばなるまい。
9/4

 例えば今はマサイ族を見ると、彼らも我々と同じ人間であると一応考えることが出来る。しかしこのように考えることができるようになったのは、ごく最近のことである。それまでは、いわば形が人間に近い動物の一種のように見ていた。彼らと我々があまりに違いすぎているからである。しかし、彼らも人間として彼らの日常を生きている。自分を基準とする人間像からかけ離れた彼らに対しては、そんな当たり前のことも想像できずにいて、民族と称する別の生き物であると自然に考えていた。
 これは本当に最たる例であるが、このように、自分の基準と違いすぎて本当の姿がつかめないことは、もっと微妙なことを含めるとよくあるのだろう。すると、ますます自分の基準というものが疑わしくなってくる。そして、それを築いてきた周辺環境や自分の経験といったものまで疑ってしまう。何か新しいことを学んだと同時に、決して得ることが出来なくなった視点があるのではないかと。怪しい宗教がはびこっていると騒いだりするが、自分自身だって余程怪しい。
 こんな風に考えると臆病になって何も出来なくなるので、出来るだけあまり意識しないようにしている。しかしまたテレビでマサイ族を見ると、同じような苦々しい気持ちが蘇ってきて胸くそわるい。

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