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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 いよいよ冬だな!と感じるのは納戸に眠っていたストーブがまた活躍をはじめたからだろう。灯油のにおいが私をなんとなく懐かしい気持ちにさせてくれる。着火してからと火を消してからの少しの間は嫌な臭いがするのはわろし。
 今日の気温はそんなに低くなかった。11月ってこんなもんだったろうか?と思うくらいである。私の友人には今年の3月くらいから京都に住み始めた人も多くいるのだが、「あの寒さ」を彼らに伝えるにはあと数か月か待てばよいのだろうか。
 冬、この季節は正直言ってまだよくわからない。島崎藤村の「三人の訪問者」を読んだことがあるのを思い出した。いやぁ、冬がまったくもって負のものだなんて思っちゃいませんよ、良いと思いますよ、冬も。なんて言ってもやはり「そんなにお前は私を見損なっていたのか」と冬に怒られそうである。季節をappriciateするのも、ただ自然の中に立っているだけじゃ不十分な気がするね。
 ところで、ここのところ暖冬暖冬と言われるのを聞いてなんだか寂しいなぁなんて思う私の家で、それほど寒くもないのにストーブが稼働中だ、と思うとちょっと情けなくなる。
 冬こそあえて外に出よう。

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  ふと思いついて、明治安田生命のサイトをのぞいてみた。保険に興味があるという訳ではない。この会社のやっている名前ランキングが気になったのだ。
 「2006年生まれの名前」は男の子で「陸」、女の子で「陽菜」がトップだったという。保険の加入者しか調査対象になってないので、統計学的にどうなのかという疑問があるが、それはさておき、ランキングの年別ベスト10というのを見ると面白い。女の子で「~子」というのが少なくなっているとかいう話題もあるが、それより、大正までさかのぼって順に見てみると、「名前は世につれ」だなぁと感じる。昭和2年、3年のトップがそれぞれ「昭二」「昭三」だったのには笑ったし、太平洋戦争(と呼んでよいのだろうか?)の時期が近づくにつれて「清」がおさえられ「勝」「勝利」「勇」「進」が上位を占めてくるのをみると何か考えさせられる。
 最近では、おかしな(奇怪な)名前が増えているらしい。付けた人でなくては読めないような当て字もあるようだ。名前は子供が一生背負うもの。親は考えて考えて付けるものだと思うのだが。
 上のランキングは検索をすればすぐでてくるし、見て気分を害する恐れもないと思うので、一度見てみてほしい。名前の羅列からでも、膨らませられる考えはある。
初めまして☆
習慣づけて何かをやるのは苦手なのですが、毎週途切れず更新します!
よろしくお願いします。

では今日は電車での出来事を一つ。
同じ制服に同じカバンを持った私立の小学生たちが6~8人でわいわいと大きな声でおしゃべりしていました。
明らかに皆さんちょっと不機嫌そう・・・。
奇声を上げているわけではないのですが、ポケモンがどやこやとやはりマナー違反な気がしました。
結局何事もなく小学生たちは去って行きましたが、注意とかすべきだったのでしょうか?
注意するとしたら何と言ったらよかったのでしょうか?
マナーとは難しい問題です。
車とかタバコとか・・・。
最近京都の道も歩きタバコ禁止になりましたね。
果たしてマナーは罰を与えないと成立しないのでしょうか。

 フォークデュオ、ゆずの歌に「ルルル」というのがある。楽しそうなタイトルだが、中身はというと、大好きな女の子の家に電話をかけるけれどもその子のお父さんに阻まれて話ができない、という感じのもので、サビのところでは「君と話しがしたい~ 君と話しがしたい~」と歌っている。歌の主人公には悪いが、なんだかきいていて微笑んでしまうような歌だ。
 何気なくきいていたけれども、よく考えれば、こういう歌はもう生まれてこないに違いない。なぜかって、いまはケータイがあるからね。「ルルル」が入ったCDは99年3月の発売なので、10年程前はまだ「家電」の時代だったということだろうか。
 そういえば自分が小学生、中学生だったころは携帯なんか持っていなかったし、(中学の頃から持っている人が増え始めたと思う)、部活の連絡網とか、友達と遊びに行くときとか、そういうのは全部家の電話を使っていた。いまでは全部ケータイでメールである。
 メールが来るのが、なんとなくうれしく感じるときもあったけど、いまやもう、煩わしく、やっかいなものという印象が強い。
 メールというものの便利さは、送る側の都合と受ける側の都合が合わなくてもやりとりができる、つまり、電話だと「ごめんいま忙しいから」といって話せなかったり、折り返し掛けると今度はつながらなかったり、ということなく、読める時間に読む、ということができることだと私は思っていた。だから、このあいだ、返信が6時間ほど遅れたために「仕事に支障がでるから」と早く返すように忠告されたときはこっちが困ってしまった。もちろん向こうも困ったからそう言ったのには違いないけれど。
 仕方ない面もあるが、「携帯電話」とはいえ常に携帯して注視せねばならないのか、と思うと、ウェブ世界と自分との関係に疑問を感じてしまう。
 他にもケータイのデメリットはたくさん挙げられるけれども、ここではあとひとつだけ書いておく。何か。
 上に書いたように、面倒だなぁとか文章が読みにくいなぁとか思いながらせっせとメールの返信やらあるいはこちらから問い合わせをしながら(やはり自分もメールに頼ってはいる)画面とにらめっこしていると、これが結構時間を食う。なかなか自分にとって空しく感じられる時間だ。しかし言いたいのはそんなことでなく、家族のいる空間で、私は無言でそういう姿をさらしているということに少し後ろめたさのような気持ちを抱くということだ。自分以外の人は自分がどんなやつとどんなやりとりをしているか知らない。固定電話を使っていたころは、そう、ゆずの歌のように、自分と友達との間に、親とか兄弟とかが入ることがほとんどだったし、自分が受話器をとっても、みんなのいるところで話すから、家族にはなんとなく中身はバレる。バレるというと嫌なひびきだけれど、他の人からすれば、電話の向こうにいる人がどんな人なのか知る貴重な手がかりのようなものだった。私が「~ですが、…さんいますか?」という時に、相手の親は自分のこどもの友達の声をきくことができる。ときにはその友達のおばちゃんとちょっと会話をしたりして。あたたかい。「プライバシー」なんぞ、ばかばかしいぞ!(そりゃ守るべきものではあるけどさ
 未成年とか、あと中身が未成年のような人、といったら不適切な発言かもしれないが、とにかくそういう人たちの関わる悪質な事件をよく耳にする中、ケータイというのがキーのひとつであるように感じてはきていたが、上に書いたような観点が今まで(自分の中に)なかった気がした。
 「ルルル」の主人公は電話をかける前に、高鳴る胸をおさえ、話す内容を紙に書いて受話器を握る。君と話しがしたい。
 似てるかもしれないが、やはりケータイとは違ったものがある。それに、(蛇足だが)こういう気持ちになれるのは多分それだけでも幸せなんだろうと思う。

 中島みゆきのある歌の詞に「人は多くなるほど 物に見えてくる」と言う一節があります。やんわりとしたメロディーで歌われ、すぐ後にその逆説が出てくるのですが、この一節のもつ力には相当なものがあると思いました。

 

 社会的に言われる「大衆化」「均質化」と言うのは先述の詞をカタく言ったものといえるでしょうか。人格の無い単位としての「人」。それに伴って、視覚的な物質性(例えば、満員電車から吐き出されるように出てくる人々。朝だと背広率が高くていっそう規格化されたように見えますね)というレベルでの物っぽさがあるでしょう。そしてさらに、物に対してと同じ扱いが起こる、というところを暗喩出来るようにも思います。言葉をかけても返ってこない、使い方を知っていれば自分の意志で動かせる…。

 

 私は勿論人=物であり、操作可能な機械のようなものという暴論を唱えたいわけではありません。近いことを言った政治家はいましたが。普段の生活の中では人は個性をもって個性と向き合っているでしょう。ですが、もし管理的立場になった時に陥る危険が誰にでもあるなと感じました。多くの人を調整する(一般には「人を束ねる」と文字通りな単語が使われますが)となると、無難に済ませたいという心裏があって、個性なんぞにかまってられないとなるのも自然でしょう。さらには国家、及び世界レベルになると、それこそ万単位で死んでも政策といわれる状態になるわけです。

 

 話が広がりすぎました。人々を調整する立場になる人には、単なる数以上のものとして人を見る心がけを失ってほしくないというのが、この駄文のとりあえずの帰結点です。

 実るほど頭を垂れる稲穂かな

 収穫の季節。私はこの句を噛みしめる。実に佳い句である。実れば実るほど、頭を下げて謙虚な姿勢になる、稲穂、かな。この「かな」というのがいい。教訓じみず、ただただ素直に感動する姿勢。俳句本来の姿勢である。「同じですあなたとわたしの大切さ」にはこの情緒がないのだ。正岡子規が怒り出すだろう。

 ところで私は「謙虚」という言葉を使ったが、この言葉だって句の中には全く現れていない。実るほど頭を垂れる稲穂を見て、それを「謙虚」と解釈するか、「寡黙」と解釈するか、或いは「首痛そう」と思うのか、それは読者に任されている。言葉が無限の想像力をかき立てる。これでこそ芸術、である。

 たった17文字にこれだけの情感を込められる俳句なる芸術の何と素晴らしいことか。私も俳句にならって今回は早めに筆を置こうと思う。

朝、学校へと向かう途中に、ふと思い立って、いつも通る道とは道路を挟んで反対側の道を通ってみる。あれ、あんな場所にお店があっただろうか、あの看板がある建物はあんな形をしていたのか…いつもより少し、視点が変わっただけで、見慣れている筈の景色から全く違った印象を受け、次々と新たな発見をすることができる。

例えば、帰宅時、玄関に向かうまでの間、毎日のように見上げている自分の家。ガレージにしゃがみこんだ状態で見上げてみたら、どのように見えるのか。いつも、部屋の窓から眺めている雨。外に出て透明なビニール傘を差して、傘越しに空を見上げてみたら、降ってくる雨はどのように見えるのか。実行してみたなら、きっと自分は、何か今までとは違う印象を受けるのだろう。

 物事というのは、例え自分がよく知っているつもりであっても、実際はある側面しか見えていない。視点を変えるだけで、別の側面や考え方が出てくる。だから、物事というのはあらゆる視点から見つめ、考えてみることが大切だ――今まで物事を考えるときには、当たり前のように思っていたことだが、ふとした日常の中にも通じるものがあると感じるとき、私は、不思議とその大切さに改めて納得できる気がするのだ。
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