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授業中に居眠りをするようになったのはいつからだろうか。
少なくとも中学生の頃までは居眠りなんてとんでもないことだと思っていた(今でもしたくないとは思っているが)。
高校に入ってから、他の人が机に突っ伏していたり頭が傾いていたり、そういう光景が珍しくなくなったし、自分も気がついたら黒板の様子が変わっているなんてことがしばしば発生した。よくよく眠った次の日でも、あるいは勉強そっちのけで10時には寝ていた月でも、眠いときは眠いのだ。
居眠りというやつはしたくてしてるわけじゃない。結構おもしろいしきいていたいと思う授業でも寝てしまうこともあるのだから、「やる気、集中力がないんだ」とは一概には言えない。
ひとつ経験的にわかってきたのは「授業の内容が理解できなくなったら眠くなる」というものだ。途中まではふんふんときいていたけれども、あるところで疑問が生じて立ち止まった途端に先生の話が意味不明になる、それと同時に睡魔がやってくる。これはどういうことなのだろう?やはり聞く気、意識の問題なのだろうか?
ちなみに、黒板に書いてあることのほとんどがすぐには理解できず、しかも書くスピードが速いのでノートをとるのに必死だから先生の話もよく聞けない、そんな苦しい(ほんとに脳が苦しがっている気がする)時間が3時間も続くという授業があるが、これは今まで眠ったことがない。上の法則に反していて謎である。
結局居眠りをしてしまうのは体力がないからというだけなのだろうか。確かに中学校までとそれ以降では日々の運動量は劇的に違うから理由のひとつとは思うのだが。居眠りの予防法を見つけた方がおられたら是非教えていただきたいと思う。
ただ、授業中に見る夢は、結構面白いものであることが多いし、まったくしないのもなんだかな…なんて言ってたらダメだよね(笑)
ある人はしっかり勉強して、ある人はスポーツで体を鍛え、ある人は楽器の腕を磨き、ある人は人のためになる仕事をし、そうして日は暮れてゆく。
そんななか、勉強はよくわからないし、運動はしたくない訳でもないけどそのために外へ出るのも面倒だし、楽器の練習を毎日コツコツやる根性もなく、人の役に立ちたいと言いこそすれ、こんなやつが仕事などできる訳がなくずっと家にいる、そういう自分が今日もまた夜をむかえて「なにもできなかった」と少し自分に嫌悪感を抱く。日々いきいきとグングンすすんでいく人にはもう追い付けないような気がして、いまさら努力するのもなぁ、なんて思ってしまう。
それに対してもう一人の自分が考えるに、世の中からすれば、自分が今日一日猛勉強したりコンビニでレジ打ちしまくったりしても、ピーナッツチョコを口へ運びながらテレビをみたり有名人の書いた本を寝ながら読んだりしても、大して変わらない。私ががんばるかどうかは世の中と相談して決めるのでなくて自分が納得するかどうかでしかない。
さらに別の自分が考えるには、やはり他人のためになることをするということが良いことであり美しいことである。世の状況をよく見極め、自分が最大限人々に貢献できることを模索しそれに尽力することこそ私の望む生き方である。
いろんなことが頭の中をうごめきながら、どうしたらいいかわからなくて、とりあえず忙しくしてみる。忙しいとはこういうものではないか。
予めあった道を、わたしはすすむのでない。「僕の後に道は出来る」と言って生きてゆきたい。自分に責任をもつということだ。その道を通るのはただ自分ひとり。マニュアルはない。こういう意味で「道を踏み外す」という言葉をみると、これは間違っているな、という気になる。(道という語を正しく把握するのは難しい)。わかるだろうか。
確かに彼や彼女は自分よりもずっと勉強はできるし仕事もテキパキやる。だからといって自分が陰になってどうするのか。私のもつ時計と、やつらのもつ時計は進み方が違うのだ。忙しさの中に身をうずめてしまっては自分も、それにきっとまわりの人も、つまらないに違いない。この混沌は私がつくっているのだ、ハッハ!とくらいに言ってみよう(ただし誰もいないところで)。そうするとテレビの前で寝転がってばかりはいられなくなる。
みなさんどうも!一週間ぶりですね~。
学祭シーズンですが、どうお過ごしですか?
私は立命館大学、琵琶湖・草津キャンパスの学祭に行って参りました!
今日はそこでのお話を一つ・・・。
噴水に風船がふわふわ付いていてきれいだなぁーと歩いていると、食器貸し出しスペースを発見。
「エコ」のために、リユース食器が使われているとのこと。
私もリユース食器を片手にオムそばをたいらげました。
全国の学祭でもゴミの分別をたくさん行ったり、使い捨ての食器類を減らしたりと「エコ活動」しているらしいです。(とくダネ情報)
使用済みのリユース食器は、ゴミ捨て場からダッシュで回収され、食洗機のでかいやつで洗われていました。
しかし、そこで疑問に思ったのはこの食器をきれいにするために使用される、水、洗剤、電気。
これは果たして「エコ」なのでしょうか?
みなさんもうお分かりですよね。
環境のためによかれと思ってやっていることが、逆に環境によくないことになっているかも。
相手のことを思ってやったことが相手にとっちゃあ、ただのおせっかい、なんてこともよくある話です。
みなさんも左目を手のひらでおおってみてください。
盲点は視野を変えれば見えてくるかもしれませんよ。
今日は何の日?
孝太郎の誕生日!
ということで今日は文学誌孝太郎の創刊記念日でした(勝手に制定しました(笑
B4一枚からはじまってもう2年。いや、まだ2年か、というような気もします。ずいぶんいろいろありましたから。楽しかった。ふわふわふわ。
しかし私は思い出にひたり過ぎてしまう傾向にあります。もうあれを超える素晴らしい日々はこないのではないかと。そうなるとどうしても過去にばかりに目がいって、ずるずると時間が過ぎてゆきます。
とはいえ、私もあと少しで二十歳ですから、「あれを超える日々」はきっとやってくるということが経験的に少しわかってきました。ある人の言葉に「過去はないのだ おまえが勝手に思いだしているだけではないか」というのがありますが、そうはいっても過去は、やはり無意識に美化しているのか、どこか独特な光を放って私を誘惑するのです。
こういう「思い出症候群」だった高校生の私は、こうしてひたってばかりいるのは何か違うぞ、と感じていて、そしてやっとはっきり意識したのが、いまが一番楽しいと思えればいいんやん、というごく簡単なことでした。
いまが一番楽しいを感じながら目指しながらやっていこう。もちろんいまというのも過去あってのもの。切り取っちゃえという訳ではありません。
今日は孝太郎へのアクセスがいつもより少し多くて、しかもデイリーより多かった。もしかしたら「あのひとたち」が11号を期待してくれていたのではないかと想像して、心がはずむとともに、はやくアップしなければ、と強く思いました。そして、生きている限り、遠く決して触れられない、あの人、あの場所、あの時間とも、つながっているんだな、という感覚を覚えました。
「そんなん意味無いやん」という批判か非難かツッコミかよく分からないような発言をたまに聞きます。文脈はさまざまです。ボケでシュールなネタを使った時笑いながら言うときから、青筋立てて人差し指を突き出しながら言われる場合まで。後者の場合はかなり言われるとキツいですが。当然。
しかし、これも陳腐な励ましに多いですが「やってることは必ず意味があって、実を結ぶんだよ」とも聞きます。こちらはやっても成果が現れない場合について言われるか、悟ったような顔をした立場が上の人間がよく使います。あくまで個人の意見です。それを踏まえて、「意味が無い」とはどういう意味なのか、という問いを頭の中で弄んでみました。
蓋し、やってることにはいちいち意味があるものです。いやむしろ、人の特徴であると思いますが、どんな事物についても意味を見出さずにはいられないものです。シュールレアリスムの絵画を見たときも、理解不能、超現実的、とした後、あるときは「これは時の不確実性を暗示しているのである」と評論家が唱えたり、あるときは「これは全く理解不能で何を意味しているのかわからない。しかしこれこそシュールレアリスムの具現化なのである」などと、意味の分からないことがその意味だというようなことが叫ばれたりします。また、偶然こぼれた墨汁の染みが「蝙蝠に見える」と思えたりもします。また、ちょっと違う次元では、例えばハイキングに行ったとき、眼前に広がる自然に対し「癒し」と、自然を感じつつもさらに意味を付与しようともします。目的を付与することとは違う動きであるように感じます。「癒し」のために自然に行くことと、広がった自然に「癒し」を付与することとのずれ。
また、「意味無いやん」の場合の意味とは何でしょうか。まとめて考えると、実際的・生産的なものかどうかの一言に尽きます。本当に意味が無いならば理解すら出来ないはずです。聞いた相手は意味を(たとえ筆者の吐くシュールな駄ネタであっても)一応は状況に当てはめて理解できています。そして、それが現実においてなんら有効ではない、実際に起こり得ないことを指摘して「意味無い」と切り払っているのだと思います。また冒頭の励ましの「意味」ってのは生産的な利益がある、という意味ですよね。意味が意味するところの意味や意義を探る。
「全てに意味がある」ってのは全てに意味が付与されているわけです。逆に、原理的に意味は無いのかとも感じます(文字なんてその典型ですよね。このブログ上、ただの黒い点の集合です。)そんなことを無意味に考えた筆者の時間に意味はあったのかどうか。ただそういった意味に価値をいちいち見出す人生に意味はあるのか。人生にまで意味を求めるのか。そろそろ切り上げます。
その日、私は講義が行われている最中の講義室で堂々と昼寝をこいていた。そのことの道徳的問題は、とりあえず今は問わないでいただきたい。そして、これから私が述べる、論理的を装ってその実だらだらと長いだけの文章は、私が経験した不思議な夢を強引に説明するための私の勝手な妄想に過ぎないことをお断りしておく。夢のメカニズムに関してはちゃんとした研究がほかに何なとあるはずである。
講義中の昼寝には独特の面白みがあって、なんとなれば講義の音声情報が耳に流れ入り続けるため、その情報が脳内でイメージの連鎖を起こし、結局現実の場面に近い夢の世界が構築されやすい。すなわち、夢の中でもまた現実と同じように講義を聞いていることになる。夢中の人間はその夢を現実と思いやすい傾向にあるもので、私は夢の中でもまだ眠たかったため、またぞろ机に突っ伏して寝てしまった。こうして2次の夢がやってくる。1次の睡眠が2次の覚醒である。帰納法的にn次の夢がやってくる。こうなると「夢か現実か」などという一元的対立は意味を成さない。n次とn-1次の差も、1次と0次の差もたいした違いではないのだ。
ところで、0次から1次への移行の際に、0次の聴覚が1次の意識感覚に作用を及ぼしたように、夢を行き来している途中で自分の感覚の一部が別の次元に置き去りにされ、感覚全体がちぐはぐになることがある。金縛りなどはおそらくその一種なのであろう。私は金縛りにあったことはないが、その日の私の居眠りの場合、視覚を一つ下の次に置き去りにし(眠っていながら目で見ることが可能なのはその下の次も夢だからである)、運動感覚は上の次にあった。するとどうなるか。上体をむくっと起こしてみても、目に映る画像の方が全く動かなかったのだ。驚いた。単純に「死んだのだ」と思った。幽体離脱という言葉が浮かんだが、幽体離脱だって視覚と運動感覚が一体になって自由に動き回れるはずである。本当に、全く未知の感覚だった。
デイリー孝太郎の記事は匿名で書かれる以上、一般性の強い話題を持ち出すのが普通である。しかし、今回、どうしてもまとまった文章に残しておきたい体験だったため、この場を借りて個人的な備忘録にしてしまった。大して面白くもないのに。ごめんなさい。同じような夢を見たことのある方がいらっしゃれば、是非お聞かせ頂きたいものです。
確か私がまだ3歳か4歳の頃であっただろうか。現在住んでいる家に引っ越してきたその日、我が家が建っている一帯にはまだ電気が通っておらず、蝋燭の灯りで一晩を過ごすことになった。寝る前に少しだけ外に出てみようかという話になって、肌寒く、どこか張りつめた空気が漂う中、姉と一緒に外に出て空を見上げてみると、そこには無数の星が川のようになって輝いていた。
私の住む地域は田舎ではあるが、引っ越してきたばかりの頃から、開発はどんどん進んできている。人が増え、建物や商業施設が増え、交通機関が便利になるにつれて、空に見える星も少しずつ減っていった。現在では、あの日見えた星空をもう一度眺めようと思っても、決して叶うことはない。
科学技術が進歩する中、我々の身の回りはどんどん便利になり、以前よりも生活は快適になった面が多いように思う。しかし、便利になっていく一方で、確実に我々は何かを少しずつなくしてしまっているようにも感じる。決して、今の便利さを捨て、昔に戻るべきだと主張するつもりはない。だが、なくしてしまい、見えなくなってしまった「何か」に目を向けることなく、このまま便利さを享受し続ければ、我々は、いつか後悔してしまう気がしてならない。