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火曜日担当の私は原稿の締め切りが月曜日であり、毎週月曜日は原稿のことばかり考え四苦八苦していますが、今回は最大の危機でありました。
いつまでたっても特にいい考えが浮かばない。ついには萎えきってしまって、布団でぐったりしていた時でした。小林秀雄のような顔の人が「思考の放棄」だと言う姿が急に頭に浮かんできたのです。その瞬間に、ガゼンやる気がでてきた、というより負けず嫌いな性格によって何くそ、という精神が呼び起こされたのです。
「思考の放棄」という言葉は、何かと討論番組やブログでよく使われている気がします。大体批判する相手を攻撃するのに用いるようです。理性至上主義の現代にあって思考の放棄とは、お前はサル以下だなんて言われてるようなものであり、相手をへこませるにせよ、自分の正当性を視聴者にアピールするにせよ、効果はてきめんです。私にも効果はあり、何とか書き出すことができています。
しかし残念なのは、結局私は「思考の放棄」をしている自分に危機感を抱いたわけでは決してなく、サル顔をした爺にサル以下と言われたことに憤慨してやる気を出したということです。もともとあまり好んで思考しようとしないものだから仕方ないのですが。
それでもそのおかげで思考しようと思えているのだから、私はこれを感謝しなければなりません。そして大いに利用しなければなりません。負けず嫌いという自分の譲れない面を利用して、頭の中にサル顔の爺をいっぱい作って、何度も何度も跳ね返されながら、思考する。自分で自分の背中を押していくのです。
普段はあまり生きている実感というものはないのだけれど、案外意識的に何かをして生きようとするこうしたことの積み重ねが実感につながるのかもしれないな、と思われたのでした。「元来、人間は死なない存在であったが、あるできごとがきっかけで月と同様死ぬようになった。しかし、それ以降人間は繁殖するようになり、月が繰り返し新しい生命を受け取るように、子どもたちが人間の生命を新たにしていくのだ。」
これは、アフリカ少数民族の間で広く語り継がれている神話である。狩猟採集でその日暮らしをする彼らにとって、満ちては欠ける銀色の円盤は、生や死のイメージと強く結びつく神秘的なものであったのだろう。カリハラ砂漠周辺のサン族には「月のことを笑うと、月が怒って月食になる」といった言い伝えもある。彼らの抱いていた月への畏怖がうかがえる。
月が日本民族に与えた影響も計り知れない。照明がきわめて乏しい中、月明への関心は古代より非常に大きいものであった。また彼らは、月の満ち欠けを基準に暦を作って日を数え、潮の干満を知った。彼らの生活・産業・軍事は月に左右されていたと言っても過言ではない。しかし同時に、月を見ることへの禁忌も存在した。『白氏文集』の一節「月明ニ対シテ往時ヲ思フコト莫カレ、君ノ顔色ヲ損ナヒ君ノ年ヲ減ズ」などとの関係が指摘されるが、『源氏物語』や『更級日記』には、月を見たために魂が肉体から乖離したり病気になったりする場面がいくつも見られる。月への畏怖という点では、アフリカの民族と似通ったところがある気もする。
もちろん周知のように、美しきもの、愛でるべきものという側面も、月を語る上で欠いてはならない。日本ではとくに秋の月を賛美し、その冷たく麗しい姿に、人々は自らの悲しみや無常観、さらには満足感をも反映させ、深く嘆息した。
花鳥風月という言葉があるが、その中でも月は特殊である。花や鳥や風には様々な種類があるが、月はただ一つしかない天体、それも時空を超えて唯一無二の存在だからである。阿倍仲麻呂は、異国の地より月を眺め、望郷の思いを込めて、「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」と歌ったが、彼が見た月は、三笠の山に出でし月のみならず、今まさに私の部屋から見えているあの月とも同一なのである。そう考えると、なんとも不思議な気持ちになる。
たったひとつの月を見て、百人が百通りのことを考える。しかしそこには時空を超えて通底するあるひとつの感情が存在するような気がしてならない。月に魅了されるという心理現象は人類共通のものかもしれない――そんなことを思って、私はますます月に魅了される。
※今年の中秋は明日、9月25日だそうだ(ただし、満月は9月27日)。
※なお、この記事を書くにあたって、『世界大百科事典(平凡社)』『日本大百科全書(小学館)』「国立天文台ホームページ」を参考にした。
大学生の長い夏休みももう終わりにさしかかっていて、さて、本格的に秋だな、なんてよくわからないことを思う今日この頃であるが、気温はというといまだに下がってこないし、はやく涼しくなれよ、と無生物に対しての苛立ちが募ってくるかと思えば、急に晩だけ寒くなって風邪をひいたりしてさらに嫌悪感が増してくるのだけれども、仮にこの暑さというのは人間のなしてきた種々の行動によって引き起こされたものであると考えると、ありがちな罪悪感あるいは開き直りがわが身に生じてきてどうもぎくしゃくしてしまうので、何かいい案はないだろうかと考えるふりをしてみたのだが何の進展もない。
都会を離れて人口密度の小さいところへ行くとだいたい緑が多くあって、そこは、やはりと言って良いかわからないけれども、幾分か涼しいのだが、陽のよく照る日など特にアスファルトで覆われた道路は高温になるので、ムアっと、熱い空気に下から襲われて、熱い方が空気は膨張して密度が小さくなるし軽くなるはずだがどうしてか重さを感じるのは熱い空気であるなぁ、とか、やはり舗装されたところはダメだね、これがヒートアイランド現象の原因の一つと考えられるのは当然じゃないか、などといい加減なことが頭に浮かんできてしまう。
今年私にとって少し新鮮であったのは、舗装された道路たるものがいかに尊いものかということを今までとは違った感覚でとらえられたということだった。熱い空気を生むし、それにドウロコウダンという言葉にネガティブな印象を抱いていることもあってか、道路というものに軽とか蔑の念を抱いてきた、というかそれについて考えたことがあまりなかった気がするが、日本中に張り巡らされているのであるよ!道路は!都会を離れて山奥へ、なんてことを簡単に思いついてスッと実行できるのも道路あってのことではないか?などと思えてくるし、こんなところにまで道路があるなんてこれをつくった人はえらいことをしてくれたものだなぁ、と土木工のイメージまで浮かんでくる始末で、多少、ばかばかしいかなという気もしながら、そして道路のために野山が切り開かれたのだというところに無惨さのようなものを感じたりもしながら、えらいものだ、という感慨深さに支配されてしまって、結局暑さの問題は先延ばし、他人事になっている。
他人のため、次世代のためになりたいとは思っても、まだまだ自分のことしか考えられないでいるのだ。
「心」という漢字を見ていると、不思議な気持ちになります。何とも曖昧な、ばらけた一字。心臓の形から作られた象形文字だとか。一画目は大静脈ね、などと考えると納得がいくようないかないような。
でも、私が不思議な気持ちになるのは、これが「こころ」を示すところです。「こころ」。一体「心」が指す「こころ」とは何か、と考えると眠れなくなりそうですが、それでも何かこう掴めない、揺れ動く、という印象のある「こころ」。それを示すのに適当な一字ではないでしょうか。ためしに一度「心」と書いてみてください。次に、三度ほど「心」と書いてみてください。三、四画目などは特に、一つ一つ味が出てくるでしょう。「国」とか「命」とかの字はどこかがっちりした字で、何か頑固にすら思えてきます。それに対して「心」。柔らかい感じのような気がします。
「心を一つに」というのはよく聞くフレーズで、特に大人数で何か同じ作業をする時にまとめる側の人間がよく言います。しかし、字面の上でもなかなか同じものが書けない「心」が一つになどなるのでしょうか。個人一人の中でも「心」は一つに留まらないでしょうに。「心を一つに」は「不可能なことをとにかくやれ」という本音を暗喩しているのかとひねくれたくもなります。同じようなものに「心を乱さず集中して」というフレーズもありますが、乱れない「心」など、「心」ではありません。
目を付けた男性にくねくねしく擦り寄っては股間を弾く仕草で「ち~ん」とやる、その動きのキレといったら何度見ても(いや、むしろ何度も同じものを見せられるからこそ)笑える。これはもう理屈ではない。
そんな彼女の定番ギャグのひとつに、言い寄った男性から突き飛ばされて壁に正面衝突、倒れ込んだ後むくっと起きあがり「男なんてシャボン玉~」というのがあるが、吉本新喜劇がアメリカ公演をやった際にこのギャグをやると、アメリカ人には女性虐待と受けとられ、冷ややかな反応しか返ってこなかったらしい。女性虐待だと言われてしまっては「理屈がない」ではどうもすまされなくなってくるので、我々は決して女性を虐めてげらげら笑っているのではないという方向で弁解をしておいた方がいいだろう。
私の見解では、この場面において優位に立っているのはむしろ女性である。何でも力で解決しようとしがちな男に対する、女の精神性の勝利である。「男なんてシャボン玉~」の後は全員による“ズッコケ”で終わるわけだが、吉本における“ズッコケ”はボケた人間に対する「降参」あるいは「畏敬の念」に近いものを示していると私は思っている。
いやはや、こういった見解は穿ちすぎているかも知れないが、何度も同じものを見せられているとこれぐらいのことは考えずにいられない。
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E7%94%B0%E7%8F%A0%E4%BB%A3
「出来ない」と思ったときには、全く上手くいかなかったことが、「出来る」と思ってやってみると、案外すんなりと上手くいくことがある。一種の自己暗示といえば、確かにそうかもしれないが、「出来ない」と思いながらの行動で自分の力を精一杯出せないのは確かではないかと思う。
そもそも、人間はどういうときに「出来ない」と口にするのだろう。自分自身の能力から未来を見越して判断しているのだろうか。だが、一日目にできないことが二日目にどうなるか、一週間でできないことが一年後にどうなるか、未来を真に予測するなどできるはずもない。
結局のところ、「出来ない」、その言葉を口に出して、自分の限界を決めているのは自分自身なのではないだろうか。確かに、人間には向き不向きがあって、他人の倍以上の努力をしなければならないこともあるだろう。しかし、その努力を続けることのできる人だけが、自分の可能性を広げることができるのだと思う。
ふと、魂というものがあるのだろうかと、そんなことを考える。私にはいわゆる霊感はない。昔から輪廻を信じてはいるが、こうも慌しい生活を送っていると、魂の世界の存在がひどく疑わしくなってくるものだ。
霊という概念はいつ生まれたのだろうか、埋葬という行為が始まったその時に、アニミズムが始まったその時に。もしくは、霊の存在を知った人から広まったのだろうか。いずれにせよ、そこには死せる者と絶対的な自然への畏敬の念があった。そして、無事に生きたい、災いから逃れたいという生きる者の欲望があった。
魂は時に、我々を常に監視する規範となり、時に永久に続く愛をもたらす。精神世界を信じるがゆえに宗教戦争が起こるのもまた事実である。しかし、CやOやHのかたまりとして(浅識な表現で申し訳ない)1回きりの活動期を経て土へ還る。ただそれだけの物体の、家族になり友達になり恋人になり親になるのだろうか、そして私もまたただそれだけの物体なのだろうか。やはり、私は魂を信じたい。魂があったらいいなぁ、と思う。魂の存在によって、人間、自然、自身を大切に思える。
異なる価値観から考えたならば、これはただの現代人の、というより世間知らずの子供のエゴに過ぎないかもしれない。けれど、それでもいい、魂を信じよう。私は、もう一度祖母に会える日を待っている。