孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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いわずもがな、秋になった。朝晩の冷え込みはかなりのものだし、曇っていると日中でも肌寒い。どこからともなく金木犀の甘ったるい匂いが漂ってくる。街路樹の銀杏も少しずつ色づき始めた。
私は、かなり早い時期からこの場を借りて、秋の兆しを様々な方向から捉えることを試みてきた。しかしここまで来ると、秋を感じることにもはや努力は要らなくなる。自ら五感を開き、周囲に心を配って感じとってきた秋を「積極的な秋」として自画自賛するならば、いま我々が否応なしに受け止めている秋は、「消極的な秋」と言えるであろう。
これが秋の心、すなわち「愁(うれい)」である。あれほどまでに掴み取ろう拾い上げようとした秋という季節が、いまや大きな流れとなって迫っている。自分はそれを受け身で迎え入れるしかないのである。その何とも言えぬ脱力感・無力感・嘆息感。これが私の感ずる「愁」である。
その意味で秋は終わった。次は冬の兆しを探すことになる。しかし、やはり冬は暗く寂しい季節である。秋に耳を凝らしたときのような期待感はどうしても持てない。季節というものを意識し、それを繊細に追いかけてゆこうとする作業は、そうたやすいものではないと分かった。
春の心「惷」は「うごめく・みだれる」という意味だそうだ。春が迫り来る感じだろうが、秋のそれとはずいぶん違うものだろう。ただ、季節の洪水とも言うべきものに心がうずもれてしまう、そのイメージにおいては一致が見られるかもしれない。漢和辞典を繰っても「夏の心」「冬の心」は見当たらない。やはり東洋文化圏における春と秋の持つ意味合いは絶大なようだ。
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