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外を歩いていて、鏡や窓ガラスや車など反射するものを私はひどく意識してしまう。そこに写る自分の姿を必ずと言っていいほどチラリと見てしまうのだ。自分の容貌は惚れ惚れするものとは程遠いし、体型も見るたびにがっかりしてしまう、何か長けた能力ももちろん無く性格だって悔しいくらいに欠点だらけだ。なのに私は、そこに写った私の像をある種の自信と優越感に浸りながらフフンと眺める癖がある。そこにあるのは現実逃避でも偽りでもない。ただ、すがすがしい前向きな気持だけだ。
自己の容貌に異常な愛着を感じ自己陶酔ゆえに他者を排斥するナルシスト・自己愛者と俗に呼ばれるものとはまた異なることだと定義しておくが、自分を愛することはそれほど悪いことではないと思う。「自分のことが嫌い。」だという声はよく耳にする。それは、特別な環境の下にいる人だけでなくこの満ち足りた現代における人々からも発せられる、いやむしろ後者の方が多いのかもしれない。人間の良し悪しの基準は容貌でも能力でもない。自分が嫌いなら直せば良い、直せないならばそんな自分を認める人間になればいい。私は「私」と一生付き合ってゆくのだ。
自分を愛することは、自分の現状に満足する・自己を過大評価するということとは必ずしも同値ではない。それは他者を愛することと同じように、健やかな人生を歩むことを望み、欠点を含めた全てを受け入れ、また成長させようとすることも自己への愛の範疇であろう。人間としてまっとうな幸せな人生を送るために人間は生きているのだ。自身を理想の人間像に近づかせようとすることは、人間性の向上という点で不可欠なように思われる。自分の心の動きに意識を向けて生きていなければ、他人の気持など分かるはずもないだろう。今日よりよい明日を望み、より良い人間を目指し、より多くの人に愛されたいと願うことは人間としての正当な欲望であるはずだ。
何もせずとも容易に生きられる時代・社会に我々は生れ落ちた。ある種の生命の危険が無いと、なかなか自己への愛は生まれないのかもしれない。「人間関係が上手く行かない。」「毎日が楽しくない。」「私なんて死んでしまえばいい。」・・・・・・・・・自分を愛することができずにいるあまりに謙虚であまりに自由な私たちにとって、現代は生き難い時代なのかもしれない。
鏡の中の自分に微笑みかけよう。「私」という魂の居場所を自分の手で、心地良いものにしていこう。或る、ナルシストがぼんやり考えたことである。