孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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中島みゆきのある歌の詞に「人は多くなるほど 物に見えてくる」と言う一節があります。やんわりとしたメロディーで歌われ、すぐ後にその逆説が出てくるのですが、この一節のもつ力には相当なものがあると思いました。
社会的に言われる「大衆化」「均質化」と言うのは先述の詞をカタく言ったものといえるでしょうか。人格の無い単位としての「人」。それに伴って、視覚的な物質性(例えば、満員電車から吐き出されるように出てくる人々。朝だと背広率が高くていっそう規格化されたように見えますね)というレベルでの物っぽさがあるでしょう。そしてさらに、物に対してと同じ扱いが起こる、というところを暗喩出来るようにも思います。言葉をかけても返ってこない、使い方を知っていれば自分の意志で動かせる…。
私は勿論人=物であり、操作可能な機械のようなものという暴論を唱えたいわけではありません。近いことを言った政治家はいましたが。普段の生活の中では人は個性をもって個性と向き合っているでしょう。ですが、もし管理的立場になった時に陥る危険が誰にでもあるなと感じました。多くの人を調整する(一般には「人を束ねる」と文字通りな単語が使われますが)となると、無難に済ませたいという心裏があって、個性なんぞにかまってられないとなるのも自然でしょう。さらには国家、及び世界レベルになると、それこそ万単位で死んでも政策といわれる状態になるわけです。
話が広がりすぎました。人々を調整する立場になる人には、単なる数以上のものとして人を見る心がけを失ってほしくないというのが、この駄文のとりあえずの帰結点です。
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