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フォークデュオ、ゆずの歌に「ルルル」というのがある。楽しそうなタイトルだが、中身はというと、大好きな女の子の家に電話をかけるけれどもその子のお父さんに阻まれて話ができない、という感じのもので、サビのところでは「君と話しがしたい~ 君と話しがしたい~」と歌っている。歌の主人公には悪いが、なんだかきいていて微笑んでしまうような歌だ。
何気なくきいていたけれども、よく考えれば、こういう歌はもう生まれてこないに違いない。なぜかって、いまはケータイがあるからね。「ルルル」が入ったCDは99年3月の発売なので、10年程前はまだ「家電」の時代だったということだろうか。
そういえば自分が小学生、中学生だったころは携帯なんか持っていなかったし、(中学の頃から持っている人が増え始めたと思う)、部活の連絡網とか、友達と遊びに行くときとか、そういうのは全部家の電話を使っていた。いまでは全部ケータイでメールである。
メールが来るのが、なんとなくうれしく感じるときもあったけど、いまやもう、煩わしく、やっかいなものという印象が強い。
メールというものの便利さは、送る側の都合と受ける側の都合が合わなくてもやりとりができる、つまり、電話だと「ごめんいま忙しいから」といって話せなかったり、折り返し掛けると今度はつながらなかったり、ということなく、読める時間に読む、ということができることだと私は思っていた。だから、このあいだ、返信が6時間ほど遅れたために「仕事に支障がでるから」と早く返すように忠告されたときはこっちが困ってしまった。もちろん向こうも困ったからそう言ったのには違いないけれど。
仕方ない面もあるが、「携帯電話」とはいえ常に携帯して注視せねばならないのか、と思うと、ウェブ世界と自分との関係に疑問を感じてしまう。
他にもケータイのデメリットはたくさん挙げられるけれども、ここではあとひとつだけ書いておく。何か。
上に書いたように、面倒だなぁとか文章が読みにくいなぁとか思いながらせっせとメールの返信やらあるいはこちらから問い合わせをしながら(やはり自分もメールに頼ってはいる)画面とにらめっこしていると、これが結構時間を食う。なかなか自分にとって空しく感じられる時間だ。しかし言いたいのはそんなことでなく、家族のいる空間で、私は無言でそういう姿をさらしているということに少し後ろめたさのような気持ちを抱くということだ。自分以外の人は自分がどんなやつとどんなやりとりをしているか知らない。固定電話を使っていたころは、そう、ゆずの歌のように、自分と友達との間に、親とか兄弟とかが入ることがほとんどだったし、自分が受話器をとっても、みんなのいるところで話すから、家族にはなんとなく中身はバレる。バレるというと嫌なひびきだけれど、他の人からすれば、電話の向こうにいる人がどんな人なのか知る貴重な手がかりのようなものだった。私が「~ですが、…さんいますか?」という時に、相手の親は自分のこどもの友達の声をきくことができる。ときにはその友達のおばちゃんとちょっと会話をしたりして。あたたかい。「プライバシー」なんぞ、ばかばかしいぞ!(そりゃ守るべきものではあるけどさ
未成年とか、あと中身が未成年のような人、といったら不適切な発言かもしれないが、とにかくそういう人たちの関わる悪質な事件をよく耳にする中、ケータイというのがキーのひとつであるように感じてはきていたが、上に書いたような観点が今まで(自分の中に)なかった気がした。
「ルルル」の主人公は電話をかける前に、高鳴る胸をおさえ、話す内容を紙に書いて受話器を握る。君と話しがしたい。
似てるかもしれないが、やはりケータイとは違ったものがある。それに、(蛇足だが)こういう気持ちになれるのは多分それだけでも幸せなんだろうと思う。