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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 携帯電話で誰かに連絡する時を想像してみて下さい。夜になって、何か連絡があったり、しゃべりたくなったりしたときに誰かにちょっとメール。返ってきたら用件以外の話も加わって深夜に亘ってしまう、と言う経験、一度ならずある方は多いのではないでしょうか。

 

 この場合、「相手は何処にいるか」ということは連絡の前提として大きな問題です。何をしているか、も然り。ですが、気にかけつつも最後は考えないことが多いように思います。本来、気にしだしたら到底連絡など、出来なくなるはずですから。

 

 固定電話から携帯へ、手紙からメールへと移った際、いつでも連絡が取れることの裏にある相手の場所など「読めない」事柄の問題について、それほど深く考えられてこなかったのではないでしょうか。固定電話は家にあり、手紙はこちらが指定した場所に届きます。そういった前提が今は希薄です。

 

 模索の結果、苦肉の策がとられている、と言ったら誇張かもしれませんが、筆者が想像した範囲でも以下のことが言えます。(一応)自由に読んで送ってが出来ますが、すぐに返すのが「マナー」と言われること、「電話してもいいか」とメールで尋ねる人がいること、用件以外の会話がどんどん入り、電話なら一瞬で終わるような会話に何時間もかけること、同時に三人以上とメールで会話する人がいること(聖徳太子と命名)。これらには「読めない」ゆえに電話がしにくいことに対して、メールの(一応の)自由さで補っている節があると感じました。勿論、電話には「読めない」以上に拘束性が高いことが重要と言うのも分かっています。そういう観点から見たら側面の事柄になりますが。

 

 先日、親とこの関係が作れない、というような話の中で、家出した女性(娘)が、連絡の取り方がわからず、心配する母に対して「心配要らない。ケータイのある部屋が、私の部屋だから」と言ったと聞きました。もはや「読めない」部分を気にしなくなったと取れるこの一言。どうも他人事といえなくなっていきそうに思います。

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 どうしてもはずせない所用があったのと、この冬の寒さととっている授業の退屈さがあいまって、この2日間あまり学校へ行かなかった。正確に言うと、1コマしか授業に出席しなかった。勉学を本分とする学生として不謹慎の極みである。(本当は8コマ出るべきだった) (しかしある教員曰く「私は、自分で勉強してくれさえすればこんなつまらない授業出てくれなくていいですよ」だそうである)
  ところで、学校へ行っていないと、クラスの友人達と会わないこともあってか、たとえそれが数日間であっても、ある種の不安な気持ちを催させる。これはどうしてだろうか。
  自分の生き方をするというのは、「ひとりになる」ということを含んでいると思う。これに対して学校へ行っているうちは、どんな自由な学校であってもそれなりの`レール'があって、それに甘んじてしまうことがある。私などその好例だと思う。上に書いた教員の言っていたことのように、自分の好きなように、自由な暮らしというのを求めて日々過ごすのは、私のように甘やかされた人間にとってはかえってこわいことなのだろうと思うのだ。
  私はこの前こんな言葉をきいた。
 「偶有性の海にとびこめ」
  これをきくと、私の好奇心など嘘っぱちだなと思う。
  これから先、私はやはり何かに所属することだろう。そのとき、レールが終着点に達したときにうろたえないために、私は何か一つでも、「自分の好奇心」を持っていなくてはならないと思う。
  2日間授業をサボって見えてきたのは、着飾った紛い物の自分ではなく、何一つまとっていない自分自身の姿だった。

クラシックバレエを始めてから、もう15年ほど経つ。始めたきっかけは何だったろう。あの華やかな雰囲気に憧れたからなのか、あのひらひらとしたドレスのような衣装を着てみたかったからなのか。あるいは、母曰く、その頃ちょうど『うさぎのくれたバレエシューズ』という絵本を読んでいたそうなので、その影響を受けたからかもしれないし、たまたま、自分の通う幼稚園でバレエ教室が開かれるようになったからかもしれない。今ではもう、きっかけなどはっきりとは思い出せないが、気づけば、バレエをしていることが日常の一部であり、当たり前のこととなっていた。

クラシックバレエの舞台は、本当に華やかなものである。色とりどりの衣装を着た人たちが、それぞれの踊りを通して、与えられた役を自分なりに表現していく。時に難易度の高い振りを見事にこなして観客を沸かせる。舞台を見ている間は、時間の流れも忘れて、その世界に惹き込まれてしまう。しかし、その華やかな舞台から一歩外に出ると、全く違う一面が存在する。舞台上では軽々と華やかに踊っているバレリーナが舞台袖に入った途端、膝に手をついて、ぜいぜい喘ぐのもよくあることだ。

私はクラシックバレエを今までずっと続けてきたが、「何故続けているんだろう」と疑問に思ったことは何回もあった。腹筋や背筋加え、普段鍛えないような部分の筋肉も使って踊るのは、ただ身体を動かすよりもよっぽどしんどいし、踊るには、筋力だけでなく柔軟性も必要で、それらを得ようとするのもまたしんどい。クラシックバレエにはやはり身体の向き不向きがあって、自分は決して向いているほうではないし、何かが秀でているわけでもない。さらに、バレエは自分の身体を使って見せるものであるにも関わらず、正直なところ、私は人に見られることは寧ろ嫌いであり、目立つのは避けたいとも思っているのである。

こう考えていくと、何故続けているのか、と自分でもますます疑問に思えたりもするのだが、結局のところ、自分がバレエを続ける理由は、バレエが「好き」であるというシンプルなものなのだと思う。上記のようなことがあって、悶々と悩むこともよくあるが、やはり「好き」だから続けたいと思うのである。

小さい頃は、身体がバレエ向きの周りの子達が次々にバレエをやめていくのを見て不思議に思っていたが、物事を続けるためには、その事に関する自分の向き不向きよりも(勿論向いている方が良いとは思うが)、まずその物事を「好き」だという強い気持ちが必要なのだと考えると納得がいく気がする。人間が、何か物事を持続する原動力は、その物事に対する「好き」だという思いにあるのかもしれない。

本日のデイリーはひょんな事情により金曜担当者による代筆です。

「オカルト」という言葉があります。一方で「カルト」という言葉もあります。筆者は長い間、これら二つを同一の単語と見なしてきまして、そしてつい最近になって気付いたのです。あ、「オカルト」という言葉がある一方で「カルト」という言葉もあるぞ、と。恐らく日本語で名詞を丁寧に言う接頭辞「お」と混同して、今までは気にならなかったのだと思います。でもそれならば表記は「おカルト」になりそうなもの。調べてみますと、二つはやはり全く別の単語。

オカルト【occult】…超自然の現象。神秘的現象。
カルト【cult】…宗教的崇拝。転じて、ある集団が示す熱烈な支持。 (大辞泉より)

語源的にも別だという説が有力なようで、意味的にも明確に区別されています。しかしながら、ここからは私見ですが、英語の綴りを見ても、「oc」がついているかついていないかの違いだけであって、多分英語の話者の方でも両者を混同している人は多いのではないでしょうか。
前回の金曜の記事と重なるところがあるかも知れませんが、言葉はシニフィアンとシニフィエが完全に対応した強固な論理体系というわけにはいかず、単に発音が似ているからという理由だけで意味が近寄って変質したりすることがままあるようです。そしてまたその裏には、やはり現実社会で起こっている出来事が大きく関わっていることが多いです。「オカルト」であれば、この言葉がよく聞かれたのはオウムによる事件が問題になったころでしたでしょうか。最近は聞かなくなりましたね。今の流行は「スピリチュアル」でしょうか。

やるべきことがたくさんあって、こんなことしてる場合じゃないと思いながら、この数日間に2つの演奏会に行った。以下、それの最中に気になったこと。無学ながら偉そうに言ってすみません。

ひとつめ。三味線、箏、尺八など日本の楽器で演奏される曲、ひろくは、別の民族音楽(?)に欠かせないのはおそらくピアノで出せない音である。つまり、ドと♯ドの間の音とかそういう音。だから邦楽はピアノで再現しようとすると、そういう理由もあって失敗するに違いない。もちろん西洋の、我々が普段クラシックと呼んでいる類の音楽であっても微妙な音程抜きには無味乾燥としたものになるのだろうが、こちらは「ピアノ的」音から外れると「下手」と思われる気がする。
で、私は、ドから1オクターブ高いドまでを12に区切ってしか歌えないのでは、と演奏会中に思った(当然ながらその場では歌えなかった)。ほんとはあまりに細かすぎなければいくつに区切ったって歌えるはずだ。なのに半音単位でしかわからなくなっているのはなぜだろう。学校の音楽のせいなのか、身の回りの音楽がみなそうだからか。
ふたつめ。ベートーベンの交響曲を聴いて、曲自体はとても好きだけれども、この演奏の仕方はどうかなぁ、と思っているところに、アンコールでモーツァルトが演奏されて、こちらは大変気に入った。何の変哲もない話のようだけれども、一瞬、これはモーツァルトの曲の性質なのではないかと思って震えた。ベートーベンのある意味厳格な音楽は、演奏する者、あるいは聴くものに何かを要求するような感があるが、モーツァルトの音楽は、芸術として見事なものである上に、大衆受けの良いというか、誰にもなじんでいく、そんな感じがある。実際は、多分自分のベートーベンの交響曲のイメージと指揮者のスタイルが違い、しかしモーツァルトに関しては同じだった、そういう曲に向いている指揮者だったというだけかもしれないが、今回はベートーベンの偉大さだけでなく、モーツァルトの偉大さを感じた。

みなさんおはようございます!!
今日は、「証言の心理学」っていう新書の中に出てきた文章を少し紹介したいと思います。

「記憶は体験を発酵させ、少しずつ変化させていく熟成庫のようなものである。熟成に成功すれば体験本来の味わいをより深く、より濃厚
にしてくれるかもしれない。しかし熟成と腐敗は常に紙一重である。記憶のなかで私たちは出会ってはいないはずの人と出会い、話してい
ないはずのことを話し、見ていないはずのものを見てしまうことすらあるのだ。」

引用
「証言の心理学」
著作:高木光太郎
初版:2005年5月25日
P18L8~P18L11

どうでしょうか?私は特に、熟成と腐敗は常に紙一重である、のところが気に入りました。

記憶とはあいまいなもので、また変化していってしまう、そんな記憶をもとに証言が存在している。
そして、その証言は人の人生を左右するほどの力を与えらてしまう。
なんとも恐ろしいことです。
だからこそ心理学もその証言を限りなく正確なものとするため、日々邁進しているのか・・・と思うとなんだか、私も世の中に役立つ学問
に触れているのだからもっと頑張らねば!と感じられたわけなのです。

よかったらまたまたこちらの新書も手にとってみてくださいね。

 

 高校時代の国語の師、I先生。印象的な授業、言説を示して下さいましたが、その中でも特に筆者が覚えているものの一つに、某大学の国語の入試問題を解いていた時の発言があります。曰く、「国語の問題を解くのは頭のスポーツのようなものだ」と。

 

 難解な記述式の問題を解くことについて述べられたものですが、ウンウン悩んで、頭の中で考えを捏ね繰り回して、深く深く考えて記述する、そうして終わった時には走りきった後の脚の感覚のように、頭に心地よい疲れのようなものが残っている、という感じだったでしょうか。高校時代は専ら素人フルマラソンのような疲れしか筆者は味わっていなかったのですが…。

 

 筆者は現在第二外国語として中国語を学んでいます。発音や日常会話、基本文法を学んでいるうちはよかったのですが、そろそろ文章読解に入ってきて苦労が始まっています。その中で、嘗て始めて英語を見たときに味わった、「全く読めない」感覚を再び味わっています。そうなった時は例えば「私は2~3日旅行に行きます」という他愛ない文章を書くにも辞書首っ引きで、単語、いや文字単位での結びつきを考えていくわけで、解体新書の「フルヘッヘンド」を訳すのに苦労した、という逸話まで思い出してしまうほどです。

 

 そんな状態でいると、つい最近の授業で一つの中国語文章を日本語に訳しきったとき、何か一試合終わったかのような疲れと達成感を感じました。I先生の言葉を思い出した所以です。大学の第二外国語など、周りにはやっつけ仕事として「要領よく」こなす方々が周囲は多いのですが、手も足も出ない感覚を味わって、かつじわじわと考えていく体験が出来たことは大いに有益だったなと考えています。

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