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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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 さむい。

 平仮名ではあんまり伝わらないなあ。ここはひとつ漢字で「寒い」とすると、多少はしかつめらしくてグッド。だけども話し言葉では漢字もへったくれもないから、ほんとうにさむくてさむくてたまらんときには「さぶい」、あるいは最近では形容詞の語幹だけで切って感動詞的に言うのが流行ってるらしいから、「さぶっ」などと言ってみたりするよ。わたしは。
 この「さぶい」という訛り方は関西地方独特のものかと、関西地方出身のわたしは井の中の蛙な感じで思っていんだけど、実は式亭三馬の『浮世風呂』っていう本の中でも「さぶい」と言ってる人がいるらしいんだ。つまり200年前の東京にも「さぶい」という言葉はあったんだね。ところで、場所を移して北海道地方には「しばれる」という言葉があって、地元の人に言わせると北海道の寒さは「さむい」とか「さぶい」なんかじゃ言い表せないんだって。分かる気がするよね。「しばれる」。ものすごく寒そう。っていうか何か痛そう。
 言葉は記号としての意味を持ってるだけじゃなくて、音声が醸し出す雰囲気も一緒に連れてる感じがするなあ。[シバ]っていう音節は英語でもshiverで「悪寒」みたいな意味があるし、shivっていう言葉は「ナイフ」とか「カミソリ」を表してる。感覚的に同じものがあると思うんだ。インドだとシヴァは破壊神の名前だね。どかーんっていう感じ。そういえば日本語にも「縛る」っていう動詞があるじゃない。ぎゅうぎゅうぎゅう痛い痛い痛い!って感じ。「しばれる」ってそういう色々な「感じ」をごった煮にした寒さを表してるんじゃないかなあって思うよ。
 あ、でも柴犬は可愛いよね。犬はよろこび庭かけまわり。ああ、冬が始まったなあ。

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最近、ほぼ毎週、NHK総合テレビで放映されている「プロフェッショナル 仕事の流儀」を私は見ている。知っている人も多いとは思うが、これは、様々な分野の第一線で活躍しているプロフェッショナルの仕事や、その仕事における信念などを紹介するドキュメンタリー番組である。

テレビ番組であるから、その仕事のある一面しか取り上げられていなかったり、誇張されている部分もあったりして、番組の内容は、もしかしたら出演している人物が伝えたいこととは異なるものであるかもしれない。だが、私は、自分の職業、そして自分自身と向き合いながら人生を歩む中で、自分なりの信念や考えを持って仕事に取り組む人たちの姿を、この番組を通して見る度、心動かされる。尊敬、憧れ、単純に凄いと感心する気持ちなど、様々な感情が自分の中に沸き起こって、自分も将来、自分なりの信念を持って仕事に取り組む人でありたい、と思う。

私は、今まで単純に知的好奇心で進路を決めてきた。大学も勿論、知的好奇心のみで選択したため、現在学んでいることは、おそらく将来の職業に直結はしないだろう。これまでの選択を後悔する気持ちはないが、「とりあえず、働く傍ら趣味が続けられる仕事が見つかればそれでいいか」というような職業に対する安易な考え方は確実に薄れ始めている。

職業の選択は人生の二大選択のうちの一つであるという。自分の職業を決めるのは、もう決して遠い未来の話ではない。自分の人生がこれからどうなるかはわからないが、自分自身と再度向き合い、将来に向けて一歩一歩進んでいこうと思う。

今日はお休みです。
               水曜担当者

私は宿題というやつがだされると、提出期限ぎりぎりまでかかってしまう人である。
いつも間際になって重い腰をあげ、がーっとやって提出する。
ときどきそれを反省して、宿題の出された日にとりかかることもあるが、大抵の場合、途中で面倒になって、結局間際までほったらかしにしてしまう。
この「ズルズル症」であるが、これの特徴は、たとえ同じ課題が出されたとしても、提出期限が3日後なら3日かかるし、1週間後なら1週間かかる、という点である。
要は、朝プリントを渡されて、今日の終わりの会には提出しなさい、みたいなことを言われたなら、1日もかからずに仕上げられるはずのものを、1週間以内に出せばよいと思うだけで、1週間かかるのだ。
「課題がある」状態のまま過ごすのはなかなか不健康なことであるし、有意義な時間の過ごし方なるものを実現するならば、やはり出来るものはさっさと片付けてしまった方がよいにきまっている。それができなくて困っている。
ときに茂木健一郎という人は、(この人は非常に多くの仕事を抱えているそうである)、思い立ったことはその瞬間、すぐに始めるのだという。それに、朝起きて、やるぞと思ったらもう仕事モードに入れるらしい。「瞬間集中」ができるというのだ。
これは大変うらやましい力だ。得てして我々は、考え付いたことを、「明日からやろう」「あれが終わったらやろう」などと考えがちである。仕事をするにも「コーヒーを飲んでから」とか言ってすぐやらない、あるいは余計なことを考えてなかなか集中しないものだ。
対策といってはなんだが、「昨日までのことを反省する、今からやるべきことや今日の目標を決める、それがどれだけできたか自己評価する」というサイクルを繰り返すことが自分の実力アップに効果的で、様々な部活でこの取り組みが行われていたりもするそうだが、これをやってみるというのはどうだろう。これでは毎日が期限のようなものであるから、ズルズルやる訳にもいかない。
よし、やろう、明日から。
…ではダメだ。今日から始めよう。

今日はまたまたマナーのお話です。記念すべき私の第1回目の投稿の時には、電車でのお話をしたと思うのですが、今回はバスについての話です。

修学旅行生のマナーはかなり悪いですね。大声でしゃべったり、足を伸ばして座っていたり・・・。一番困っているのは、優先座席を譲らない、という点です。
この間私はそんな修学旅行生たちに、「優先座席だからおばあさんにかわってあげなさい」と思いっきり注意してみました。
中学生はまだまだ素直ですね。その後は、おじいさんにも席を譲っていました。
しかし、言われてできるのなら、マナーに関する責任は彼らの教師、もしくは学校側に責任があるのではないでしょうか?
制服を着て、学校、都道府県を代表しているわけですから、観光だけではなく、子どもたちを成長させるような教育を修学旅行にも組み込んでいってほしいものです。
また、修学旅行生を受け入れる京都府京都市のお偉いさんたちも、府民市民の普段の生活にきちっと配慮していただきたいものです。
バスが遅れたり、快適な乗車が損なわれたり。観光の町だからこそ、もっと京都住民の目線からも物事を把握してほしいですね。

少し話は変わりますが、心理学には交通の心理学という分野があります。その中で、歩行中や運転中には「匿名性」が働いて、攻撃的になってしまう、というものがあります。私もなんとなく身に覚えがあるなぁ・・・という感じなのですが、しかし、今回この「匿名性」、悪い面ばかりではないと感じたのです。
私がバスの中で中学生たちに注意を促すことができたのは、もちろん多少の勇気は必要だったにせよ、「匿名性」の力があったからではないでしょうか?
マナーが悪いのも「匿名性」、マナーを是正するのも「匿名性」。少し極論かもしれませんが、全く関係ないとは言い切れないと思います。
みなさんも「匿名性」を上手く使ってくださいね!

じゃんけんで勝つ確率はいくつかご存知だろうか。
この質問だと、3分の1と答える人、あるいは2分の1と答える人、もしかしたらその他の答えを出す人もいるかもしれない。
今日は確率論的な話ではなく、じゃんけんにまつわる私の体験談を書きたい。
先日、私はあることを決めるためのじゃんけんに参加した。参加者は20人ほどいた。20人では多くて勝負がつかないということで、はじめに2回ほど、第三者とじゃんけんをして負けたあるいはあいこだった者を除くことで人数を減らしてから参加者同士でじゃんけんをした。そして最後まで勝ち残ったものがある権利を手にするのだが、ここではあえてその内容には触れないこととしよう(一部の人には察しがつくかもしれない)。
このじゃんけんはおよそ週に1、2回行われている。私はこの2週間で3度ほどこの「権利を得るためのじゃんけん」に参加した。その3度ともが大いに私の興味をひく結果を残した。
1回目(1日目)、私はその権利がとてもほしくて、20人以上の中の1人になれるとは思っていなかったものの、意気込んでジャンケンに臨んだ。すると続けて3度勝って、最後の数人にのこってしまった。ここで一瞬迷いが出たのである。もしホントに最後まで勝ってしまったらどうしようか、と。(自分の買った宝くじが高額当選したと宝くじ売り場で知って、その場にそれを置いて去ってしまう人がたまにいるらしいが、そういう人も、当たれと思って買っていながらホントに当たるとは思っていなくて、当たったときいたショックで手放してしまったのではないか。もしかしたら私も似たような状況にあったと言えるかもしれない)。さて、そう思ったが最後私は次のじゃんけんで負けてしまった。悔しさもあったが、なんだか少しホッとした気がする。
続いて、2回目である。このときは、勝ってもあまり魅力的な権利がもらえる訳ではなかったが、一種の義務感があってじゃんけんに臨んだ。このときの心境としては、「挑戦しないというのはなんだか惜しいから、負けてうまくあきらめられたら」くらいのものだった。そしたらうまい具合に一発で負けた。「あ、負けたな」と思ってその場を去った。
3回目、の前に、1回目2回目のことを振り返って、私はなかなか悔しい思いをしていた。途中で弱気になった1回目についても、最初から負けても良いと思っていた2回目についてでさえも、勝ちたかった、とまさに「逃した魚は大きい」の気分だった。そこへきたのが3回目である。このときは、私は勝つつもりでいた。参加者はまた20人くらいはいたが、勝とう勝とうと思ってじゃんけんに臨んだ。そうすると続けて2回(3回だったかもしれない)勝って、最後の2人に残った。1回目の経験から、私はここで気持ちを切らしてはならんと思い、勝つぞと思いながらじゃんけんをした。そしたら勝った。見事権利獲得、である。
このとき、私は少しの間、2つの意味で呆然としていた。
ひとつは自分が勝てたことの実感が少しずつわいてくる感じ。もうひとつは、気の持ちようが、まったくの運でしか決まらないと思っていたじゃんけんにも、影響するのか!と思わされたからだ。
「運も実力のうち」と言うが、これはある意味本当だな、と思わされた出来事だった。実力とはやればできる力のことではない。向上心のようなもの、前に進んでゆく力なのだろうとなんとなく思った。(文と文の間でだいぶ飛躍があるが)

と書いたは良いが、冷静に思い返せば、どうしてもやりたかったことが、じゃんけんに負けたせいでできなかった、という経験は私自身何度もしている。そうすると、今回の出来事は偶然でしかなかったと言うしかないかもしれない。それにしても、じゃんけんで決められることがらは、多数ある。もし極端に「じゃんけんが強かったり弱かったり」したら、人生変わってくる気がする。

 ある日の新聞の投書欄に、最近のセンセーショナルな言葉遣いへの嘆きが記されていました。例えばテレビ欄。「超美人女優」が「幻の素材」を使い「カリスマ料理人」が料理したものを食べて「感動」したり、一方では「壮絶な半生」のドキュメンタリーに「日本中が涙」したりしています。投書は、そういった言葉の氾濫で繊細さが失われていることを危惧していました。テレビ欄だけでなく、これは週刊誌やスポーツ新聞、活字だけでなくバラエティーからワイドショーまで、誇張気味の表現が多数見受けられると言うこと、これはこの孝太郎をご覧になる方なら一度は案じたことがあるのではないでしょうか。

 

 ところで先日、また別の新聞記事に、これまた言葉を案じた文章があり、そこでは最近の傾向として「考える代わりに感じるようになった」と書かれていました。何か二人の作家の、やはり言葉についての著書に関する評であったと思いますが、何か大変分かりやすい、有効な指摘だなと思って、今日ここに書きました。

 

 今思いつくものであっても、直接的なギャグのバラエティーがユーモアを醸す番組より前面に出てきたり、意味を成さない叫びのような形容詞を連ねるスポーツ実況が人気を博したりします。売れる本のタイトルには「9割」「99.9%」「○○力」、その他単純化、印象化された文言がみられ、タイトルが何も無くても帯に「100万人が泣いた純愛小説」「現代人必読の書」などと書いてある場合があります。

 

 本来商業主義から事を派手に見せるのはまあ分かることですが(ちょっと最近陳腐ですけど)ニュース、解説、そういった類は企業の商品を売る動きとは異なると思います。そして何より、私たちの日常会話もそうした派手さに影響を受けています。企業のCMと方向が違うと言われるかもしれません。でも、一緒です。友達と話していても「むっちゃヤバい」ことなど日常茶飯事。たいていが1日で解決します。キャラとモデルと友人まとめて「むっちゃかわいい」と評したりします。要するにフィーリングです。感覚です。伝わるんです。もう一つ、こういった表現は均一化します。みんな揃って「マジで?やっばぁ~」と嘆き、揃って「かわいぃ~」と盛り上がります。でもいいんです。感覚が伝わるんです。

 

 ちょっと前なら「日本語の乱れ」と言われたりしますが、これもまた感覚的な表現ですね。(バカの一つ覚え、とも言いますが)「何が」「どのように」「どうなる」ことが乱れで、「何が」「どのように」あったらいいのか、人によって違うかもしれません。例えば、カタカナ語が嫌われる場合、それは外来語嫌いなのか、分かりにくいからなのか、インテリっぽいからなのか…。筆者は復古的日本語再興には興味ありませんが、考える言葉が使えたらもっとコミュニケーションの広さが向上するだろうな、楽しくなるだろうな、と思ってこんなことを言うわけなのです。
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