忍者ブログ
孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
カレンダー
05 2025/06 07
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30
最新CM
[02/10 編集長]
[01/04 編集部紅一点]
[06/01 なんばぁ]
[05/13 日曜担当者]
[05/10 いちこ]
最新記事
(04/03)
(11/17)
(07/21)
(02/10)
(01/01)
最新TB
ブログ内検索
[46] [47] [48] [49] [50] [51] [52] [53] [54] [55] [56]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

 小ネタを二つ。最近耳に入ったニュースから。

 中国では離婚が増加しているらしい。なんでも1979年から採られている"一人っ子政策"で生まれた一人っ子たちが結婚適齢期に達しているのと関係があるとか。なるほど、小さいころから同年代の他人と協調して生活することに慣れていないと、大きくなっても愛する人との共同生活に不自由を感じてしまいやすいのだろう。離婚率が増えることで、人口抑止という中国政府が持つ本来のねらいに2次的な効果が上がっている、というのは何とも皮肉な感じがする。

 日本では紅白歌合戦の司会者が決まって、軽く物議を醸している。紅白両チームの司会、共に男性というのが、51年ぶり、NHKアナウンサー以外では初めてだとか。何が物議かというと、男女同権の時代に司会が両方男性というのはどうなのか、という意見があるわけだ。一方で、紅組の司会が女性という決めつけの方がどうなのか、という意見もあり得るだろうし、そもそも男女が別れて対決するという構図自体どうなのか、という意見もまああるだろう。しかしながら、紅白で白組が勝ったからといって翌年に男性が強権的になるというわけでなし、私個人の意見としては一夜限りのお祭りということで、司会も含めて白は男/紅は女としたほうが番組として見やすいように思う。他に適当な分け方も見あたらないことだし。

PR

最近、どうも気が緩んでいるのか、早くも中だるみのようなものがきてしまったのか、講義中もぼんやりとしていることが多い。先生の話も右耳から左耳へと流れていく。授業の内容から離れて、今日しなければならないことなどを頭の中で挙げていってみたり、取り留めのないことをぼんやり考えてみたりしているうちに、いつの間にか眠りの世界へ旅立ってしまうこともしばしばある。

そんな状態のまま、一昨日の夜、テレビをぼんやりと見ていたところ、突然「世の中につまらないことなんてない」という言葉が頭の中に浮かんだ。

今までつまらないと思っていた事柄も、自分が興味を持ちさえすれば、それは突然「面白いこと」に姿を変える。ある事柄と向き合って自分の興味が湧く部分を探し出すことによって、自分の中に新たに入ってくるその事柄に関する情報は、自分に様々な刺激を与えてくれるだろう。つまらないと思うのも、面白いと思うのも、全て自分次第だ。

そう考えると、今までの様々な事柄を聞き流していた時間が、途端に勿体なく思えてくる。自分次第で全てのことを面白く感じることができるなら、自分が自然と興味を持てないことには仕方がないと割り切って、つまらないと思うことには目を向けずにいるのは勿体ないと思ったのだ。どうしたって自分の中に入ってくる情報なら、面白いと思えたほうが良いと私は思う。そもそも、以前はどんなことであっても、自分の中に新たに入ってくることは面白く感じていたようにも思う。私は、いつの間にか、自分の知らないことを知る喜びや楽しさを忘れてしまっていたのかもしれない。

 

さあ、では明日から意欲的に授業に臨もう。そう思っていたはずなのに、昨日の授業もまたぼんやりと受けてしまった。「考えていたことをそのまますぐ実行できるなら苦労はしないか。少しずつ変えていこう。」と前向きに考える自分と、「実行できるかできないかも、自分次第だ。」と軽い自己嫌悪に陥る自分。二人の自分が心の中に生まれた。

英語力の低下が著しい。私の中で。使わないと忘れるという話はきいていたが、まさかここまで知識が薄れるとは思っていなかった。高校生の頃は、毎日英語に触れていた。それがネイティブスピーカーとのコンタクトでなくて文法の参考書とか英作文の問題集とかであってもとにかく英語を目にし、出力することがあった。だがしかし。卒業してからというもの、わずかながら読むことはあっても、書くことなどほぼゼロになってきた。半年強経った今となっては去年は当然のように知っていたことができなくなっている。なんとも悲しいものである。
思えば、たまにやろうとするからしんどいんであって、毎日やってれば一回一回の苦労は小さくてすむのだ。これは掃除を連想するとわかりやすい。勉強って掃除みたいだね。やれば気持ちいいし。ハマるととまらないし。みんなでやると結構楽しい、ってこともあるし。
いまからでもまた英語の力をつけていきたい。少しずつ。
いまからでもまた腕力を鍛えていきたい。少しずつ。
いまからでもまた料理を覚えていきたい。少しずつ。
継続は力なりというやつですね。やりたいことがたくさんあるので、一日一回やってると24時間じゃたらなくなってくる気がします。そこをうまくやれるような頭の良さがほしいです。

 まだ11月ではありますが、自分の中では、もう年末の空気がもわもわと漂いはじめています。また今年もきたか、みたいな。
 小さい頃、年末年始はほぼ毎年祖母の家にいてそこで年を越していました。大勢でごはんを食べながら紅白歌合戦やなんかを見る訳です。小さい頃ですから私はたいてい0時になるまでに寝てしまっていたのですが、ある年、あと数時間後に新年がせまっているときにこんなことを考えたのを覚えています。
 そのとき頭の中には時間軸、数直線のようなものが浮かんでいて、矢印が22時くらいのところから翌年の0時に向かってゆっくりとすすんでいきます。そのまま直進していけばめでたく新年をむかえるということになるわけですが、そのときは、「Power Of Ten」の後半のようにどんどんと矢印の先端と0時を示す点との間にズームしていって、いくら時が経っても0時のところにたどりつきませんでした。
 いま思い返せば、これはゼノンのパラドクスのようだな、なんて思いますけれども、このときの不思議な感覚はなんと言っていいやらわかりません。
 数学的な観点から考えれば、連続性とか、無限級数の和がどうのとか、そういうことがこの問題のヒントになるような気がしてはいますが、私はまだ、まったくと言っていいほど不勉強で(数学的観点なんて言ったって、私は数IIIですらまだちゃんとわかっちゃいません)、小さい頃の自分と一緒に不思議な感覚にとらわれていることしかできないでいるようです。
 しかし、あの頃の自分の「どういうことだろう」という気持ちがいまも自分の核にあって、たまに出てきては私を動かそうとしているような気がします。
 普段は、なんというか、一種実利主義的に、極限の計算問題をやったりしてますが、そんなことをしている最中も、「どういうことだろう」に急かされている感じがすることがあります。もちろん、いわゆる受験数学のようなものも面白いとは思いますが、もっと深い学問の世界に飛び込みたくも思います。そう言えば、入学試験をつくっているのは学問の面白さを知っている先生たちであって、彼らは「受験数学」なるものに興味はないのだし、予備校なんかで受験テクニックが教えられていたりするけれど、ほんとは高校生だって学問だと思ってどんどんやったらよい、それで受かるようになっている、みたいな話を先日ひとからきいてハッとしました。
 なんか数学について語っているような文章になってしまいましたがそういうつもりはありません。寒い空気の中、ふと「あのころ」を思い出して、ひとり熱い気持ちがよみがえってきたような気がしたのを、書きとめておきたかった。そして、他の人にも「どういうことだろう」を追究してほしいと思った。そういう訳なのです。

先週はコメントありがとうございました~!
みなさんはどんな三連休をお過ごしになりましたか?
ちなみに私は祝日も授業があり、ただのフツーの休みでした・・・。
では今日は我が家の1コマをご紹介。

みなさん、「じゃがポックル」って知っていますか?・・・では、「ジャガビー」というお菓子を知っていますか?・・・では説明します。
ジャガイモのスティックスナックで、「ジャガビー」のほうはコンビニでも売っているので、一度見てみてください。
「じゃがポックル」のほうは、北海道産のじゃがいもを使った、いも本来の味を大切にした「ジャガビー」って感じです。
これは北海道限定商品です。
白い恋人がごっそりお土産コーナーから姿を消した後、この「じゃがポックル」ががっつり儲けたらしいのです。
売れすぎでかなりレアな商品になっている模様。
まぁ、この「じゃがポックル」、北海道出張の多くなった父に母が買ってくるように強く言っていたものでして、先日ついに父は2箱も買って来ました!

「お一人様3箱までだったけど、カバンに入りきらないから、2箱しか買えへんかった。」

「お一人様3箱まで」このフレーズ、よく聞く言葉だとは思いませんか?父の発言を見れば、そもそも3箱買わなければいけない考えが念頭にある発言になっています。
1つでいいのに、3つまでと言われると、なんだか3つ買わなければいけない感覚に襲われる。
これって不思議な感覚ですよね。
もったいない!とかせっかくやし!とか、思いはいろいろあると思います。
しかし、もしそれが経営戦略なら消費者として、私たちが気を付けていかなければならないことかもしれませんね。

 先日筆者は「人は多くなるほど物に見えてくる」という詞からちょっと唐突な論をぶち上げましたが、今日はその続きとなりうる話です。

 

 自殺、についてです。まあ言っちゃなんですが人気な話題。これについて語るとこの一回ではおさまらないくらいの話をしたくもなるのですが、今日は今年出されました政府の「自殺対策白書」を読んだことから多少、雑感を述べます。

 

 政府の「自殺対策白書」。今年はじめてまとめられた物なのですが、年間3万人を超す人々が自殺している現状を鑑み、2016年までに自殺者の数を2005年の時よりも2割以上減らすことを目標とし、相談体制の充実、インターネットの自殺サイト対策、鬱などへの診断技術向上、そして自殺予防教育、多重債務者への相談体制拡充、多忙な介護者を支援することなどが重点項目として挙げられています。また、高齢者自殺の率の高さが問題になることを懸念する内容も含まれています。

 

 さて、それ自体はようやく政府も対策を文章化し始めたか、と思ったりもするのですが、いささか気になる点が。

 

 何しろ2割減です。20%引きです。それが目標なのです。2005年度が人口動態統計によると30553人。つまり、確認されているものです。その2割ですから6110人くらいです。つまり年間自殺者が(把握した数の上で)来年当たりに24000人くらいで済めば目標達成です。世界に誇れます。そして対策は自殺はいけないんだよ、命は大切だよ、と子どもに教え、「いのちのホットライン」のようなものを設置するわけです。

 

 政策についてはいちいちこれ以上は述べませんが、何か空恐ろしいような気持ちになります。政府が個人の自殺意思にまで口を出すかについてはいろいろ賛否あるかと思いますが、無謀であっても自殺者はゼロにしたい、くらいの意思だけでも示してほしいものです。何か余計な公共工事の出費を抑えるのと同じような感覚で自殺者を減らす、と言ってるような印象になります。筆者は比較的「命は大事なんだよ」と思っているので、余計にその非人間性といいますか、無感覚さというかに敏感になってしまいます。24000人ならいける、というのは何処から来た感覚なのでしょうか。そして真っ先に教育がネタに上がりますが、心配すべきは大人のほうです。

 

 そこで、何時ぞやの詞を思い出すわけです。マクロな視点に立ってもミクロな人間を見失わないでほしい、というようなことをここに「とりあえずの帰結点」として書きましたが、それが欠けてる現場にこうも速く出会ってしまったことが、すこし残念に思えます。
 喉が渇いたので、コンビニに入ってペットボトルのお茶を買う。鞄に空きがあるので、ビニール袋を貰っては余計なゴミになって邪魔だ。ここはひとつ「あ、袋要りません」と店員に向かって言い、ペットボトルをビニール袋に入れずに直接渡して欲しい旨を伝える。店員としては、その申し出を聞いて、そのままペットボトルを差し出せば職務をまっとう、給料が無事支給、安定した生活、となるわけであるが、やはり何か意味のある言葉を発した人間に対して無言でその命令に従うのでは具合が悪い。
 そこで店員さんは様々なレスポンスを試みる。「恐れ入ります」。これはもっともシンプルな返答だろう。出過ぎたことをしました。お客様の意図を汲めなくて申し訳ありません。そんな意図など汲めるはずもないが、一応何の言葉もなく通じ合えるのが理想、ということにして、店員の側が謝る形をとることで一応その場が調整されて安泰。何とも日本的な語彙である。
 或いは「ありがとうございます」、こんなのも聞いたことがある。店員はいったい何に感謝しているのだろうか。店ごとにレジ袋削減のノルマでも決められているのかも知れない。目標到達に貢献して下さいましてありがとうございます。もし本当にそうだとしたら、こちらも日本的な、そして現代的な考え方であり、何とも悲しい気持ちがする。目標を設定してしまうと、その目標を設定した意味、意義が見えなくなってしまうのだ。隠蔽体質、賞味期限偽装。ああ、やだやだ。
 私としては、自然な笑顔で一言「はい!」とでも言ってもらえれば一番嬉しいと思う。下手に言葉を重ねず、場に合わせた無理のない表情を作る。これが私のもっとも愛する"日本的"である。何か、地球温暖化という問題が権威的すぎる(重要なことだとは思うが)ために、誰かに見張られているような、ぎこちない心持ちになっているところが、われわれの中にあるのではなかろうか。
忍者ブログ [PR]