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 以前「通りすがり」という詩をこのページに掲載しました。服についた草の実からの詩だったのですが、同じような題材から山村暮鳥が作った詩を見つけました。著作権の心配があるのですが、死後50年は経っているので…

 

 憎悪のなかにも……     山村暮鳥

 

憎悪のなかにも愛がある

その愛をたふとめ

 

あるとき

着物についた草の実が

しみじみと自分に

この一つのことを気附かせた

 

簡潔です。少し説明っぽいです。ですがいい詩だと思います。同じくっついた草の実でもこの表現の深さは前述の戯れ詩より格段にあります。

 

 詩と詩でないものの区分についてはよく悩むところです。同じように、詩人と詩人でない人の区分も難しいです。例えば草の実がくっついたとき、「もう、いややわぁ、払うのめんど。」と言いながらひたすら取り払う人は詩人ではないのでしょうか。極めて、一般的な対応。何となく「かたくななるもの」という言葉が当てはまりそうな雰囲気ではあります。しかし、ここから詩は生まれないものでしょうか。興味関心が詩に向かわなかっただけではないかと思ったりします。

 

 そして、これが詩人でないなら、それ以外の対応をした人は詩人なのでしょうか。例えば前述の戯れ詩を作った者は詩人でしょうか。山村暮鳥は挙げたような詩を同じ題から紡いでいる。そう思うと、極めて一般、平凡な感情を連で分けて書いただけのように思われてもおかしくありません。

 

 寺山修司の言葉に「人は一生に一度だけ詩人になる」というものがあります。造詣の深い言葉。これを思うごとにまた、詩人ってなんだろうと悩んでしまうのです。誰もが詩人に見えて、誰も詩人でないのではないか、と訳の分からないことに落ち着いたのは1度や2度ではありません。

 

 本を読まない人が本を論じても達するところは限られるでしょう。ですので、戯れ詩でもまた書いて、考えてみようかと思うのです。

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 今年も早、おほつごもり近づきて、「一年を振り返る」なんていう季節。
 日本漢字能力検定協会が一般に公募して毎年発表している「今年の漢字」。2007年の漢字は「偽」だそうだ。
 ひとつ、思い出されるのは、Mr.childrenというバンドが、今年一月に「フェイク」と題した新曲を発表していたことである。予言とまでは言わないが、潮流を巧く読んだ絶妙のタイミングであったと思う。情報過多で何を信じて良いか分からない。自分の存在すらも偽物のよう。この感覚は現代情報社会に生きる者にはある程度共感できるものだろう。複製技術の発達によって本物と偽物の区別がつかなくなり、芸術作品が権威を失ってしまった、というヴァルター・ベンヤミンの指摘はもう80年も前の話になるが、いわゆるIT革命によってこの傾向は近年さらに加速したようにみえる。
 ところで、そもそも「偽」という言葉は「似せ」から来ているわけだが、何かを何かに似せる行為というのはもともと非常に人間らしい創意工夫に満ちたことではないだろうか。芸術にしても、自然物を紙の上に似せて描いたものが始まりであろうし、印刷技術もラジオもテレビもファックスも、結局は何かを何かに似せて再現したいという思いの現れだと思う。
 だからこそ、「来年こそは偽りのない年に」という言葉が私にはとてもナンセンスに聞こえる。偽りをなくそうとする行為は次なる偽りをまた生んでゆくばかりだ。一度似せて作ってしまったものを元に戻そうとしても、畢竟それは人間の作為が加わった「似せ」なのである。自然は不自然な観光資源としてしか存在し得なくなってしまったのだ。
 恐らく問題なのは、感覚が麻痺して「偽」を「偽」だとも思わなくなってしまうことだと思う。自分の中に存在する、誰かによって或いは自身によって作られた「似せ」の部分に自覚的でありたいと思う。

大学や習い事先から家に帰ってきて、インターホンを押し、家族の誰かが玄関の鍵を開けてくれるまでの間、ぼんやりと星を眺めるのが最近の日課だ。小学校のときに習った星座など今ではほとんど忘れてしまっていて、空を眺めていてもオリオン座くらいしかわからないが、ある日ふと見上げたときの星空があまりに綺麗だったので、その日から毎日眺めるようになった。冬は空気が澄んでいるからか、星が他の季節のときよりも綺麗に瞬くような気がする。

冬は、身体が縮こまってしまって、習い事のとき、柔軟するものも一苦労で上手く動かないし、手がかじかんで、文字を思いどおりに書けないこともある。さらに、高校までは苦手な長距離走の授業があったりもしたので、正直なところ、冬はあまり好きではなかった。しかし、最近は、冬独特のピンと張りつめた、肌に少しぴりぴりくる空気だとか、吐き出した息の白さだとか、綺麗に瞬く星だとか、寒い中、暖かいものに触れたときのほっとする感じだとか…そういうものを含めて、意外と冬が好きかもしれないと思うようになった。冬を楽しむ余裕ができたのか、以前まで辛かった冬の登下校なども、今では逆に少し楽しかったりする。

今までも同じように冬に触れていた筈なのに、何故このような気持ちの変化が起きたのか自分でも不思議である。歳を重ねるとはこういうことなのだろうか。これからも訪れるだろう自分の変化が楽しみなような、少し怖いような妙な気持ちになった。

(昨日の続き)

 表面的な部分において違ってはいても、基本的なところでは多く共通しているということがある。このようなときには、やはり「違うのだ」はかえって邪魔で、不必要な意識であるとも言えるかもしれない。少しずれた話になってしまうが、自分がこれまで参加してきた話し合い、会議、テレビで見る討論などで意見が対立して両者が言い争ったりしているとき、よく話をきいてみると実は互いに思っていることはだいたい同じであるのではないかと思うことが多くあった。議論とはよくわからないものだ。
 さて、そもそも一種の常識であったはずの「違う」の認識であるが、少なくとも私の周りの様子からすれば、なんとも困った事態を引き起こしている。
 さきに、「違うのだ」は他人への過干渉を防ぐ性質もある、といったことを述べた。これは他者への寛容であり、軽蔑しない方が良いと考えるからだが、実際、最初に書いた「あの人とは違うから」は、正反対の結果をもたらしているようにみえる。一見「大人な」対処の言葉であるが、使いようによって、残酷とも思える効果をもっている。
 我々の生活のレベルから、世界の平和云々のレベルまで、いろいろな場面で、他者を理解すること、通じ合うことが求められ、求めようとする人がいる。そしてそれが達成されない困難がある。その困難を思い、そのような他者とのかかわりを避けて、自分の楽なふうにしかしない、という傾向が自分にはないだろうか。
 不躾な「違うから」をきくとき、「不可能とわかっていてもそれを追い求める、それが人間だ」、なんてことまでは言わずとも、せめて話くらいきいてくれ、と思う。私もちゃんと話すから。

 話がかみ合わなかったり、相手の意見を理解できなかったりしたとき、「ま、私はあなたとは文化が違うから」とか「あの人とは考え方が違うのよねえ」などと言う人がいる。私はこれらの言葉がとても嫌である。今回は特別に2日続けて書かせていただくことにして、これらの言葉をスタートにごちゃごちゃならべてみたい。
 さて、上に挙げた言葉は他者とのかかわりにおいて一種のあきらめを示している。「違うのよねえ」の後には、大抵の場合何の進展もない。それどころか、相手を卑下するかのように、せせら笑いながら言われるのを何度も見聴きしてきた経験からすれば、これは他者との理解を深めるということとは正反対の行いであると思う。
 もともと、「文化の相違」を認めるか否かは重要な問題である。自分の(価値)基準(あるいは規範)に照らして、どのような物事にもそれに従って取り組むという人はあまりいない。もしそうすれば、他人との関係が破壊されることさえあるかもしれない。どちらの「文化」が優れているか、あるいは正しいか、ということはただちに判断されうることではないし(というより、相対主義の立場で言えば、判断するための客観的基準がない)、「違うのだ」ということを前提に議論が進められるのは至極妥当なことである。
 「違うのだ」という認識は自分にとって利益となる。すなわち、自分自身の価値観やなんらかの判断基準が絶対的であると考えるのは危険であるからだ。それに、他人(もっとひろげて社会とか民族のレベルで考えた方がわかりやすいかもしれない)の「文化」(とか慣習とか)に対して干渉的であることは争いを生みやすい。
 ところが、「違うのだ」が思わぬところで障害となっていることがある。
 何か。
 「ホントは違わないのかもしれない」というときである。

(明日へつづく)

私はいつも携帯で文章を打ち、心の友にその文章をアップしてもらっています。感謝です。いつもありがとう!
そんなこんなでみなさん、最近誰かに感謝したりありがとうの言葉を言ったりしていますか?
百貨店は感謝を形にしてもらうためにお歳暮競争をしていますし、郵便局は今年と来年の挨拶のために年賀状を出すよう促していますし・
・・。
感謝されるのって何だかくすぐったいけど、ちょっと嬉しいですよね?だからじゃんじゃん「ありがとう」の言葉をふりまいてください!

しかし、贈り物をされると何か返さないといけない気になりませんか?これ、返報性の原理と言って社会心理学で証明されている人の心の
仕組みなのです。
お歳暮だって年賀状だって、何だって贈り物で利益を上げる現場では、この心理を上手く利用しているのです。いわば戦術ですね。
有り難いという言葉は、めったにないという意味です。本当の感謝とは実に珍しいものです。感謝が先か、感謝のお返しが先か。
何だかどっちやねん的な文章になってしまいましたが、私は日頃の感謝を込めて大切な人にプレゼントを買いました!色んな意味を込めて
・・・笑
ではまた来週お会いしましょう☆

12月もちょうどまんなかまできましたね。もう今年もおしまいですか。
年末に感じることというと、私は、誕生日を迎えるとき以上に、自分が年をとったなぁと感じます。
この世に生まれてまだ20年に達しない自分ではありますが、ずいぶんと多くの出来事があり、またいろんな感情を抱いてきました。多分これからもまたたくさんのことを身につけそして忘れて、どんどん変わってゆくのだろう、と年の暮れに思う訳です。
こういうふうに考えていると、あるいは別な場面で認識することもありますが、人間ってなかなか重たいものですね。講演会などで「人生の先輩」方が話しておられるのをきいてその言葉に重みを感じるとき、それは多分その人がそれまで積み重ねてきた経験がもとにあるその人の言葉なんだなぁ、なんてことを感じることがあります。
僕が小学生のころにきいたことなので間違いがあるかもしれませんがこんな話もあります。
レストランに入ったピカソに、店主が、簡単な絵を描いてくれと頼んだ。サラッサラッと描いたピカソに「おいくらですか?」と尋ねると、法外な金額が返ってきた。「5分くらいで描いたくせにどうして…」と驚く店主に、ピカソは、「私はこの絵を描くのに40年かかった」と言ったという。
こんなふうに考えてよいのだな、と思わされます。こう言えるようになりたい。

ある人が存在しているだけで、実に様々なものがそこに共に有ることが感じられる、時々そういう瞬間があります。

対して、事件や事故があって、誰かが亡くなったというニュースを聞くことは、悲しいかな、少なくありません。ニュースが報道されるときに、しばしば違和を感じるのは、被害にあった方の命が反映されないからでしょうか。「○人死亡」という文字に、その人の「重み」のかげはありません。
先日起こった銃の乱射事件が、あるテレビ番組で取り上げられていましたが、出演者の発言はおよそ銃規制に関する意見で、それ自体悪いとは言いませんが、もし子供が死んでたらエライことでした、みたいな言葉が聞こえたり、締めくくりの言葉が、「考えていくべき問題ですね」だったりして、一体なんの意味があるのか、という気持ちになりました。

さて、残りの2週間、無事に過ごせるよう祈りつつ、来年はさらに重くなりたいと思います。来年のことを言うのはまだ少しはやいですがね。
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