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義手を用いたヴァイオリンの演奏に成功したというニュースがありました。筋肉のかすかな電流をセンサーで検知して、モーターを用いて3本の指が閉じたり開いたりする筋電義手というものを使って7歳と9歳の方がヴィヴァルディの協奏曲を演奏した、ということです。
再生医療やその義手の詳細は詳しくはありませんが、二つの方向で考えるものがありました。一つは技術進歩により生活を向上させることが可能になっていること、もう一つはハンディキャップと芸術についてです。
一つ目。生体移植などは特にセンセーショナルに取り上げられるので有名かとは思いますが、医療の技術向上にはめざましいものがありますね。臓器を細胞培養によって作るもの、治療の届かなかった領域の改善など…。最近も再生医療について論がにぎわいました。ただ、「日本が先駆者となるべきだ」という形の考え方で医療技術を向上させたりするのもどうかと思ったりします。そして、「最大多数の最大幸福」の考え方になってしまいますが、臓器移植一回の医療費と技術で、ごく基本的環境が整備されていない人たちの生活に少しでも貢献できないものかなと思ったりもします。
さて二つ目。ハンディのある人々が芸術で功績をあげることを聞く機会は多いですね。これは補助器具を使って達成したパターンですが、先日左手のみのサクソフォン奏者のことを耳にしました。そして調べてみると障碍のある人々でのジャズバンドがあるなど、案外広く活動がなされていることも分かりました。
もちろん、大いに歓迎されるものです。ですが「障碍があるのによく出来ましたね」という目線から自由になって評価されるのには長くかかるだろうなと思ったりします。先んじて、芸術分野で脚光を浴びるというのは、逆にそういった「非生産的な」分野でしか彼らに目線が向けられないというところもあるのではないでしょうか。活動の場自体が、ハンディ以上に制限されているのではないでしょうか。
ありがちな論かもしれませんが。「バリアフリー」や「ノーマライゼーション」などという言葉は教科書にも載って一応は広く浸透したことになっています。ですが実質が変化しなければ全く解決にはならないわけで。パンフレット作ることや、スロープ作ることが福祉の本質ではありませんから。
喜ばしい話題で締めようと思ったら案外深刻になってしまいましたね。まあ、来年には期待を寄せようというわけで(強引だな…)。では、よいお年を。
シャーレ様の容器に液体が入っていて、その中央に茶色い紙が、木の幹を摸して突っ立っている。この幹がシャーレの中の液体を毛細管現象で以て吸い上げて、その枝えだにまで染み渡らせると、液体が緑色に結晶し、いかにもクリスマスツリーのように見える、といった趣向だ。
しかし…何だ。クリスマスを三日過ぎ、このツリーも何だか所帯じみた有様に変貌してしまっている。幹に吸われなかった液体はそのままシャーレの中で結晶して、ブロッコリーのよう。そう思うと、もう木全体がブロッコリーの木に見えてくる。飾り付けのラメのパウダーも香辛料のように光ってむなしい。てっぺんのお星様もブロッコリーに侵蝕されて傾き始めた。
そもそも、こういった「部屋に置いたらお洒落だろうな」と思って買うような物は大体部屋の雰囲気に調和しないものだ。我が家のクリスマスツリーも、朝食の漬け物の残り、醤油差し、急須、といった日常感溢れるグッズに囲まれて、異様な雰囲気を放っている。しかしながら、これは日本の異国文化の積極的な受容(正月の一週間前にわざわざクリスマスをやる、といった類の)を象徴しているようでもあって、これはこれで悪くもないなと思うのである。
あと数日で2007年も終わる。このように、デイリー孝太郎で毎週文章を書かせてもらうようになったのが8月だから、それからもう4ヶ月以上経っているのだ。そう思うと、書き始めた頃のことが随分前の懐かしいことのような、つい先日のことだったような妙な気がする。
当初は軽い気持ちで引き受けてしまったが、文章を書く習慣というものがなかった私には、毎週文章を書くというのは思っていた以上に大変だった。なかなか思うように筆が進まないときは、単純に書くネタが思い当たらないというのもあったが、それ以前に自分の中が言葉で整理されていないことが原因であったように思う。上手く書けないが、文章にするだけの準備が自分の中でできていない感覚とでもいおうか。文章を書くためには、自分の中の「何か」を言葉に当てはめるという作業が、私には必要だったのである。
毎週文章を書いていくうちに、自分の中の「何か」を言葉に当てはめる作業は無意識のうちに習慣化したように思うが、ときに、私は自分の中に湧き上がる「何か」を言葉に当てはめることに物凄い抵抗を感じることがあった。言葉でその「何か」を表現するのは漠然と間違っているような、もし言葉で表現すれば自分が後悔するような、そんな気がするのだ。このようなとき、言葉も表現方法の一つに過ぎないのだな、と思う。言葉というのは我々にとって非常に身近な存在であるから、自分の中の「何か」を言葉で表現することは多い。けれど、きっと人にはそれぞれ、自分にぴったりの表現方法があって、音楽家なら「何か」を曲で表現するだろうし、画家なら絵にそれを表現するだろうと思うのだ。また、同じ人でも、その時々でぴったりの表現方法というのは異なり、状況に応じて自分の中で、これしかない、という表現方法を選択して「何か」を表現しているのではないだろうか。
自分にとって最適な表現方法が、果たして言葉なのか、そうでないのかは、自分にもまだよくわからない。けれど、そのとき自分が言葉に当てはめることのできる「何か」は、来年も、このデイリー孝太郎で文章として表現していきたいと思っている。
それでは今年はこのへんで。よいお年を。
今日で、私がこのデイリー孝太郎のための原稿を書くのも最後である。今年は。
さて、どんなことを書こうかと自転車をこぎながら考えた。頬にあたる冷たい風が心地よい。静かな夜だ。最後だから最後らしい文章を書きたい。しかしどうもいいアイデアが浮かばない。どうしよう。
と行き詰ったとき、前方1.5m程のところに、茶色い布のかたまりのようなものが落ちているのが見えた。うわぁあ、と言って私はハンドルをきり、なんとか「それ」にぶつからずにすんだ。手足のようなものが見えたから、それにたぶん縞模様をしていたから、たぶん「それ」は「あれ」だったのだろう。とても寒かった。
鴨川にかかる橋の半ばで空を見上げた。月がとても明るかった。そしてそれにも負けず、星々がたくさん輝いていた。たぶん「あれ」も、そのうち星になるのだろう。
今年も終わり。この一年、多くの命が様々な形で消えていったことだろう。少し寂しかったり悲しかったりする。しかしそれはまた新たな命が生まれてくることも意味しているのだと、そう考えることもできる。そう期待して、来年存在している命が幸せであるように願って、私は今日眠りにつく。
(26日と30日で執筆者を入れ替えてお送りしています。)
限界とはなんだろうか。私はまだ限界にぶちあたって打ちのめされたということがない。たぶん。
もし、生まれながらにして自分の一生がどんなものであるかが決まっているならば、それは私の人生が制限されているということになるのだろうか。
私の人生が3か月後に終わる、と告げられるのと、30年後に終わると告げられるのと、いや、いつ死ぬか、長いやら短いやらわかりませんと告げられるのと、どう違うのだろう。
今日の次には明日がある、とか、「5メートル先」の向こうには「6メートル先」があるとか、思いながらの暮らしをしていると、不意に「限界」にぶちあたったときに、やはり「信じられぬ」という気持ちがまず起こると予想する。
あまり知らないことを書くのもいけないが、昔は、生まれたときから、さまざまな限界と隣り合わせに生きてきたのではないかと思う。それに対して今はどうなのだろう。一見、限界はときとともに取り外されてきているように、少なくとも私は感ずる。ただ、それにしては、生きにくい世であるという印象も抱く。矛盾したこの現象をどう説明すればいいのか、私はまだよくわからない。
少なくとも、いつかは自分も、なんらかの限界にぶちあたる日が来るに違いないと思う。そのことをふまえて、私が実際どうしていくべきかは、考えるに値することであろう。生きにくいのはいやである。また、限界にぶちあたっても、それに耐える力もほしい。しかしこれは多少おこがましいというか、私の言うべきことでない。やはり、限界とは何なのか、それが知りたい。それには、自分で走りださなければならないということか。そろりそろり、と歩いていては、たとえなにかに背中をぶつけても、それが壁であるのか、のれんのようなものであるのか、わからない。まして立ち止まっていては足元は腐ってゆくだろう。
おっと、これでは話がおかしな方向へすすむばかりだ。実際に、そう、私がいまなにをすればよいのか、なにをしたいのか、これを考えなくてはならない。自分のことを考えることが求められているのだ。それは、もしかしたら、自分の限界を知るということになるのかもしれない。
クリスマスイブですね☆みなさん今年のクリスマスのご予定は?あ、くれぐれも私の予定は聞かないでくださいね~笑
今日はまたまた心理学的なお話にお付き合いください。
「相手の立場に立って物事を考える」とはよく言われることですが、相手の立場に立つことができたとしても、そこで自分のように考えて
しまってはいけないのです。
それはただの同情で共感ではありません。
真の共感とは「相手の立場に立って、相手のように考える」ということです。
今まで私は相談されることも多く、様々なことを客観的に考えてこれたと思っていました。
しかし、それはただ話し手の経験を客観化、相対化し、一般的な解答をしてきただけだったのだと初めて気付きました。
心理学は科学です。一般的であることは何ら不思議なことでも間違っていることでもありません。
しかし、一人一人の心はこの世の中で唯一無二な存在です。
目の前にいるオンリーワンな他者をとことん追求していくことも、重要なことであると感じました。
2人で時間を過ごすことは簡単です。しかし、時間を共有することはとても難しいことです。
よいクリスマスをお過ごしくださいね♪
小学生だったころ(もしかしたら中学生になっていたかもしれない)のある日、私は夕飯を食べながらテレビを見ていた。所ジョージがでていた。その番組の中で所ジョージは自分が書いた本を紹介していて、その中の一節を紹介して、面白いでしょ、と宣伝していた。その紹介された言葉が当時の私にはとても響いて、「なるほど!」と思ったことを覚えている。
先日、友人と話をしていたときにふとその言葉を思い出したので、所さんがこんなことを言ってたよ、とその言葉をもちだしたところ、「あぁ、ニーチェですね」と返ってきた。私が数年前にきいたあの言葉は実はニーチェが言ったことらしかった。食べながらだったし、よくきいていなくて、そう言えばそれがどんな本であったかも所ジョージがどんな風に紹介していたかも覚えてないのだが、ここで変に取り繕ったりしては余計にみっともない。そんなことはどうでもよくて、私はその瞬間、一種の衝撃を受けた。感覚的には足元の地面がパッとなくなったかのようなイメージ。
さてまた別の話だが、CMとかドラマとかである曲が使われていて、この曲はよく耳にするけどなんという曲だろう、ということがよくある。最近では、ある携帯電話会社(?)のCMに使われていた曲で、しばしば聞くけれどもわからないというのがあった。こういう曲が、なんとなくかけたCDをきいていると不意に流れてきて、あわててCDのジャケット(?)を確認して、ああ!○○という曲だったのか!となったりする。上にあげたCMの曲の場合、テレビで札幌交響楽団をとりあげた番組をやっていて、その中でプロコフィエフのロメオとジュリエットが演奏されるシーンがあった。ロメオとジュリエットって確かよくわからん曲だったななんて思ってほかのことを考えていると、例の曲が流れてきてびっくり!という具合だった。
さて、またまた別の話だが、3年くらい前に、友人との会話の中で、私には意味不明な言葉が使われたことがある。(そういうことは決して稀ではない)。それは私の語彙力の問題ではなくて、それが何か「ネタ」のような感じであるなという印象を受けたのだが、とにかく私はその意味がわからなかった。(笑えもしなかった)。ところが、先日、私がラーメンズという2人組が何年か前にやったコントを見ていたところ、なんとその3年くらい前に友人から聞いた意味不明な言葉がそこで使われていたのである。彼はこれを見て使ったのだろうな!と思った。
ときに、上にあげたような「そうだったのか!」的体験が、私はとても好きである。これら3つは微妙にタイプが違っていて「そうだったのか!」にもいろいろあるのだが、やはり一番「!」なのは学問(という言葉を使うのは少し怖いけれど)に関係することであることが自分にとっては多い。例えば、無限の概念について学んでいて、小さいころから不思議だなと思っていたことに少し光が差したとき。あるいは、社会学の講義を受けていて、そこで語られる人間とはという問いに対する教員の考えをきくとき。言葉にできない楽しさがある。また、誰かの残した言葉(名言と呼ばれたりすることもある)あるいはどこかで読んだ文章、あのとき聞いた言葉が、自分が生きているなかでふと「あの言葉はこういう意味だったのかもしれない!」と感じられる瞬間もある。学ぶという言葉は「真似ぶ」からきていると聞いたことがあるが、これは誰かの教えなんかを、とにかくいったん覚えて、時間をとおして、自分がその誰かの言いたかったことを追体験するような(そこで「~だったのか!」と思うことになる)、そういうことが学ぶであるということなのではないか、と思う。(蛇足かもしれないが、こういう意味で、本を読むのは大事であるし、実践もまた同じように大事であると思う。)