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 どうしてもはずせない所用があったのと、この冬の寒さととっている授業の退屈さがあいまって、この2日間あまり学校へ行かなかった。正確に言うと、1コマしか授業に出席しなかった。勉学を本分とする学生として不謹慎の極みである。(本当は8コマ出るべきだった) (しかしある教員曰く「私は、自分で勉強してくれさえすればこんなつまらない授業出てくれなくていいですよ」だそうである)
  ところで、学校へ行っていないと、クラスの友人達と会わないこともあってか、たとえそれが数日間であっても、ある種の不安な気持ちを催させる。これはどうしてだろうか。
  自分の生き方をするというのは、「ひとりになる」ということを含んでいると思う。これに対して学校へ行っているうちは、どんな自由な学校であってもそれなりの`レール'があって、それに甘んじてしまうことがある。私などその好例だと思う。上に書いた教員の言っていたことのように、自分の好きなように、自由な暮らしというのを求めて日々過ごすのは、私のように甘やかされた人間にとってはかえってこわいことなのだろうと思うのだ。
  私はこの前こんな言葉をきいた。
 「偶有性の海にとびこめ」
  これをきくと、私の好奇心など嘘っぱちだなと思う。
  これから先、私はやはり何かに所属することだろう。そのとき、レールが終着点に達したときにうろたえないために、私は何か一つでも、「自分の好奇心」を持っていなくてはならないと思う。
  2日間授業をサボって見えてきたのは、着飾った紛い物の自分ではなく、何一つまとっていない自分自身の姿だった。
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