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今年はたくさんデコメールでお年賀の挨拶がやってきました。私はデコメにはデコメで、年賀状には年賀状でお返ししております。プラマイ0ってやつです。
みなさん新年のご挨拶はどうなされましたか?
今、抑うつに関するレポートを書いております。
健常者は現実をリアルにとらえていて、抑うつの人は現実をネガティブにとらえているという認識があると思います。
しかし、抑うつリアリズムという考え方では、抑うつの人が現実をとてもリアルにとらえていて、逆に健常者が物事をリアルにとらえず、楽天的にとらえているということが言われています。
抑うつに関してまだまだ知識があさいのにも関わらず、このような公な場でサラリとほんの触りのみ書いてしまって申し訳ありません。
何が言いたいかというと、抑うつの人の現実のとらえ方を、ネガティブにとらえているから、そのままリアルにとらえている、という側面に視点を移動させたということです。
当たり前を当たり前でないものと考えること。視点を変えていくこと。
前回の月曜日の文章と似通っていますが、固定観念にとらわれていてはなかなか前には進めませんよね。
客観視とはまた違った視点です。昨年は教えられる側から教える側に立つようになって、新たな発見がたくさんありました。今年もまた新たな発見がたくさんありますように。
私の冬休みは今日で終わりである。1月下旬には試験があるので、その勉強やら、山積した課題を片付けるやらで、高校時代よりもがんばっていた気がする。
その課題(期末レポートという)のうちのひとつ、英語の課題をやろうとしたとき、高一のときに研修旅行でニュージーランドへ行ったのを思い出した。というのも、その課題が、英語の広告を選んでそれについて特徴を述べ、消費者への効果を分析し…というものであったからだ。私はニュージーランドから新聞を(結構たくさん)持ち帰っていたので、それが使えるな、とピンときたわけである。
しかし、ガサゴソとその新聞を探したが、出てきたのは一部だけだった。向こうにいるときは、新聞からその土地の文化がわかりそうだ、というか単純に面白そうだ、と思って友達に頼んでまでして新聞を手にいれカバンにいれたのだが、帰ってくるともうそれは邪魔でしかなくなってしまって、そして大部分は捨ててしまったのだろう(何でも取って置きたがる自分の性格のおかげで一部でも残っていて、助かった)。本当に、何があるかわからないものである。
ところで、新聞を探したということはすなわち上の研修旅行関連のモノをたくさん目にしたということだが、そうなると、ノスタルジーのような、切ない感情が湧きあがってくる。いつもならそのモノをじっくり眺め始めて、探し物はどこへやらで、だんだん無気力になってきたりするのだが、今日はふと、こういうときにでてくる感情というのは、劣等感のようなものと言える場合があるなと思った。(そしてレポートも書かなくちゃならなかったので急いで探しものに戻った)。
過去(の自分?)に対する劣等感。これは、今の自分と昔の自分を重ね合わせてしまうことから生じる。重ね合わせるというのは単に今の自分が昔の自分を見て比べるというのでなくて、今の自分が昔の自分に入り込んで、それを見ている感じ。「できること」はおそらく現在の方が多い。それなのに、それだから、過去に劣等感を抱く。上の新聞の例でいえば、私はいまそれを有効に使うことが「できる」ために、捨ててしまったことに対してどうしようもない気持ちになるのと似ているだろうか。知識のみならず情感も豊かになってからその「過去」を見ると、当時とは違った景色が私の前に広がって、あの感情を引き起こすのだ。単に、「楽しかったあのとき」を見て、懐かしいなぁと思うのとは違って(そういう場合もあるけど。というか過去には今の自分が絶対影響していると言っていいと思うので、これは程度の問題かもしれない)、「あのときは楽しかったなぁ」なのだ。(感覚的すぎる表現で自分でもよくわからないが)。
新年早々自分でも意味のわからない文をだらだら書いてしまった。これも正月ボケの一種ということで許してもらいたい。
初詣
煌々と揺れる燈
正殿のたたずまい
その前に雑然と二列
白く浮かぶ息
はしゃぎ出す幼子
顔を合わせたご近所さん
冷えた鐘の晴れ舞台
御籤の一喜一憂
その上には冴え渡る星空
孝太郎さんは案外ポップなところもありますが、基本的には硬派なので、昨今のお正月にはお正月らしさが足りないぞとお嘆きになっての、今回のお休みだったのだと思います。あ、勿論これは僕から見た孝太郎さんの解釈ですよ。本当の意図なんてものは孝太郎さんにしか分からないのです。
そう、例えば街に繰り出すと、百貨店ではバーゲン、それをめがけて車は走る、これもなんとなく賑やかでお正月っぽい風情はありますが、私の正月の観念では、商店街の八百屋さん魚屋さん床屋さんみーんな休みで、街は閑散、森閑。家の中だけが親族集まってほっかほか、暮れに作ったおせち料理と雑煮でお腹は満たして家事もお休み。そういう感じがお正月だと思っているのです。
最近は家の中にいても世界中と繋がれるようになってしまったので、想像しづらくなっていますが、年賀状でしか外と繋がれないお正月の、いいようのない退屈さというのも年に一度ぐらいなら良かったものだなぁと思っています。
何だかまとまりませんね。今年も一年、「ああでもなくこうでもなく」の文章を書いていきたいと思います。宜しくお付き合いの程お願いいたします。
新年あけましておめでとうございます。
デイリー孝太郎、2008年の第1回は1月4日となっております。
本年もよろしくお願いいたします。
読者の方からの投稿もまたお待ちしております。
よい一年をお過ごし下さい。
今日は大晦日ということで、八坂神社に行ってきました。をけら参りです。ベビーカステラもばっちり購入です。
をけら参りとは、火縄にをけら火を付け持って帰り、その火を新年の火種にする、というものです。
毎年の恒例行事だったので、全国共通だと思っていたら京都独自の行事でした!全然知りませんでした!!
人は当たり前にやっていることを一般化する傾向があるのでしょうか?
方言とかも他の人に指摘されないとわからないものです。
そもそも一般とか標準ってなんやねんって感じですが、意外と人の視野は狭かったり、思い込みは激しかったりします。
来年は食わず嫌いなものでも克服しようかしら・・・なんて考えつつ今年も残りわずか。
「歳月人不待」
では来年も孝太郎をどうぞよろしくお願いします!よいお年を!!
今日レコード大賞が発表されて、明日は紅白歌合戦がある。
年末恒例のテレビ番組である。
毎年、いや、見なかった年もあるが、テレビの前に座りながら、あぁ、こんな歌もあったなぁと一年を振り返る。
レコード大賞だと過去の受賞者の当時の映像をながしたり、紅白だったら二、三十年前に世に出た歌がまた歌われたりして、私など覚えていないのに懐かしい気分になったりする。
昔の歌(自分にとってだいぶ前にきいていた歌)が流れたときの一種途惑いに似た感情(感傷?)は、その歌が当時の自分をよみがえらせるからなのかもしれない。
同時に、昔の映像というのは、いまや「オバサン」「ジジイ」と化した(口が悪くてごめんなさい)歌手たちの、フレッシュな姿が見られるという意味でも、私たちに何かよくわからないものを与える。
あの人もこんな人だったのか、とか、あの人こんなことしてたのか、とか。それだけではなくて。
なんにせよ、歌はいいものだなと感じる。
私も未熟で、なんとなく好きになって楽しくテキトーに歌ったりとか(別にそれはそれで悪くないと思うが)、歌詞の意味すら深く考えずにいた。まして歌手がどんな思いでその歌を歌っているか、何を伝えたいのかなど、ろくに考えたことなかった気がする。
最近だと思うが、少しずつ、ちゃんと歌を聴くようになった。今までとは違った聴き方を私はするようになった。
だから何なのかって?
それは私にもよくわからない。
けど、歌をきくと、なんだかいろいろあったまってくる気がするんだ。
天気予報をみると、元旦を目前にして、どうやらやっと雪がふるらしい。
雪よりはやく、私の心の中では、来年への希望がつもっている。