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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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センター試験直前です。今週末です。

試験を楽しめるかどうか、これは自分がどれだけ「できる」か、ではなく、どれだけ「やってきた」かにかかっている、そう思っています。

見直しに見直しを重ねて、しかし手早く、問題を処理していく、そんな選択肢ゲームのような試験の結果によって、自分の今後が左右される、ということは、否めないのかもしれない。

しかし、それがなんだというのでしょう。

我々は、これから、もっと多くの、もっと高いハードルを越えていくのです。どの道に進んだって、自分で走って、自分でつくった壁をぶっ壊して(あるときは壊せないかもしれない)進むのです。ハードルに終わりはありません。

ぶつかること。これをできる自分になれれば良いのです。

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 第26回全国都道府県対抗女子駅伝が今日の午後行われた。はじめはテレビで見ていたが、コースからそう遠くない場所に住んでいるので、せっかくだから見に行こうと外へ出た。
 私の地元京都は2区から1位になり、そこからトップを守って、大会新記録で優勝した。私が見たときは既に2位とだいぶ差をあけていて、兵庫が後を追っていた。 47人通過するのを見、折り返して戻ってきたときもまた見に行った。生でみるとやはり違うものだな、と感じた。
 なにしろ速いので、目の前を通るのはあっという間だ。しかし、その間にも選手たちの息遣いや足音が確かに聞こえる。はたしてちゃんと届いているのかどうかわからないが、沿道の人たちが「京都がんばれよー!」とか「山梨ファイト!」とか言って応援している。その中を颯爽と走っていく姿は、圧倒的であったり、きれいだったり、うれしかったりかなしかったりする。
 走るというのは、手を振り足を動かして前にすすむということだけれど、そのときには、実は選手の内面にあるものが多分に出てきていると思う。これまでの練習とか様々な経験といったことや、自分の意識や想い、あるいは言葉にできない何かがあらわれてきて、見る人に何か伝わってくる。
 ひとりのランナーが走るという行為に、何人の人が関わったか(ある人はコーチをしただろうし、ある人はいろんな面でその人を支えてきたに違いない)、ということを、声援をきいていて、思わずにはいられないし、必死に走っている選手を見ると、襷のいかに重いことだろうとか、都道府県を代表して走る気持ちとはどんなものだろうとか、思ってしまう。
 そのような感情をぬきにしても、実力ある人の体の動きってただならない力があって、見るに堪えるものだ。単純にいってしまえば、とても格好良いのだ。
 正直に言って、数年前まで、スポーツは自分がやってこそ楽しいものだと思っていたが、見てる側にこんな大きな感動をもたらすのかと、生で見るたびに思う。まっすぐ前に向かって走る姿に、いわゆる「現代テキな」嫌な要素はない。

 さて、(蛇足だが)、沿道にいると、係りのおばさんが近寄ってきて、旗を渡してくれた。はじめは気付かなかったが、よく見ると下のほうに「その感動も受信料から」と書いてあった。まぁ、これはこれで重要な問題でありますが。

 “3R”。もう小学校くらいから聞かせられてきたこのフレーズ。3つとも言えますか?たぶん大丈夫ですよね。Reuse Recycle Reduce。循環型社会形成へ、などと謳っていながら、その実現が程遠いと広く指摘されているこれです。

 

 Recycleが、例えば空き缶を集めて洗浄、再製する際にコストがかかることや、大量のエネルギー(主に電気)を使うがゆえに実質そこまでエコなのか?という指摘がなされることは度々。だからと言って空き缶は埋めてしまう、というのでは資源の非効率を生んでしまうわけで。これに限らず、「エコ」とされるものたちがどれ程エコロジーなのか(稀にエコノミーを略している、という詐欺まがいもある)というのは京都議定書などで環境の話題が再び盛り上がる今日考えてみてもいいのではないでしょうか。

 

 そんなことを思うのも、その他2つ、Reduce Reuseについて最近考えるからです。まず前者。よく行くスーパーではレジ袋を20回断ると100円の得をするシステムがあります。これで先日20回に達しまして、軽く得をしました。そういう制度は一種ご褒美がないとやらないのか、というような非難を受けるかもしれませんが、こうでもしなけりゃ断らないのが世の常(何しろこれでも面倒と思う人はいる)。また、もう一軒あるスーパーでは、レジ袋を断るには専用カードを買い物籠に入れるか口で言うかしたらいい、というシステムが前述の所と同じながら、得するシステムはありません。こちらでは、実践者は皆無。あろうことか、専用カードを籠に入れたにもかかわらずレジ担当が無視したこともありました。その他、過剰包装を断ろうにも包装済みのものが並んでいることもありますし、Reduceも楽ではありません。

 

 次いで後者、Reuse。先日筆者は中古自転車を探しまわりまして、電車2駅分を歩いたにもかかわらず、1台も見つかりませんでした。そこでいろいろ調べてみたところ、筆者がいる地域では年間4万台の放置自転車があり、たいていは引き取り手がなく業者に一括売却、それらは中国など他国に回されているそうです。かつ、市民の声から一部を修理して販売しているのですが、1ヶ月に5~6台、それも抽選で当選した市民(住民ではダメ)に購買権を与える、というものです。4万台もありながら中古を取り扱う所がこうも少ないとはどういうことなのだろうか、放置して一定期間経てば公開オークションでもしたら良いんではないか、新品売る店が割合でまだ多すぎるのではないか…考えることは多くなりました。道に長いこと放置してあるのをパクって軽く修理するのが一番丸く収まるのではないかと極論まで考えましたが、案外極論でないかもしれません。犯罪ですが。

 

 大仰な「もったいない」がかえって柔軟性がないんではないか、と思ってしまいました。

 年の初めというのは大体、その年号に馴染めない歯痒さを感じるものであります。しかし今年はその感が特に強いように思うのは私だけでしょうかーー2008年?なんか変な感じ。
 困ったときの素因数分解、なんて誰も言ってはいませんが、私は素因数分解が好きなのでやってみましょう。

2008=2*1004
2で割ることができました。一番小さい素数で割れる。複雑化した社会の魑魅魍魎が、今年はなんだかちょっとだけ分かり易く見えてくる一年になるんじゃないか。そんな期待を抱かされます。

2008=2^2*502
さらに2で割れます。オリンピックイヤーですね。今年は北京です。経済的・社会的側面が前景化しまくってスポーツどころじゃなく思えることもありますが、ちょっと夜中にBSを付けるとすごくマイナーなスポーツをやっていたりして、結構私は好きです。オリンピック。

2008=2^3*251
またしても2で割れます。ちょっとしつこい。しかも251は素数です。手詰まりです。何だか純粋培養で融通の利かない感じ。僕が2008年に抱く違和感の原因はここいらへんにどうもあるような気がします。

作者名も題名もよく知られている有名な文学作品でも、実際に読んだことはなく、内容はよくわからない、ということはないだろうか。私にとって、そういった作品はいくつもあり、一度読んで見たいという気持ちもあったので、少し空いた時間などに、青空文庫を利用して作品を読んでいる。

青空文庫とは、著作権の消滅した作品と「自由に読んでもらって構わない」とされる作品を、無料で読むことのできるインターネット図書館のことだ。作品数はどうしても限られてしまうが、同じく無料で利用できる実際の図書館とは違って、わざわざ借りに行ったり返却しに行ったりする必要がないので、忙しくて時間がないときには、非常に楽である。また、青空文庫で作品が電子化されたことで、携帯電話を利用して作品を読めるサイトなどもできており、携帯電話を持っているだけで、いくつもの文庫本を持ち歩いているのと同じことになる。よって、鞄の中でも大して場所はとらないし、その場の気分で作品を選べるのも、なんだか嬉しい。

最近はパソコンではなく、主に携帯電話を利用して電車の中で作品を読むようになった。ついこの間も、ある作品を読み終わったところで、確かに作品の内容を楽しむことはできたのだが、読書後にいつも感じる、「読み終わった」という一種の爽快感のようなものがなく、なんだか物足りない気分になった。何故なのか、そのときはよくわからなかったが、今考えてみると、自分は、作品を読んではいても、「本」を読んでいるわけではなかったからではないかと思う。

実際に本を手にして、読んでいるときは、読み進めると同時に一枚一枚ページをめくる。本を閉じたとき、最初はしおりを挟んでいる部分までのページは少なく、薄っぺらいが、読み進めていくうちにその部分はどんどん分厚くなっていき、逆にしおりを挟んでいる部分以降が薄くなっていく。そうやって、視覚や触覚からも一冊の本がもうすぐ終わりを迎えることを感じることで、作品の結末に向かって高揚する気分が、より一層強くなるのだ。携帯電話でも読み進めると同時にページを送っていくわけだが、本と違い、自分が今その本をどこまで読んでいるかはわからず、作品の内容からなんとなく感じ取るだけだ。実際に「本」を読んでいるときよりも気分が高まらないのである。この気分の高揚の差が、読後の爽快感にも違いを生んでいるのではないだろうか。

私は、読書をするとき、ただ作品そのものだけを楽しんでいるのではなく、「本」を読むという作業も含めて作品を楽しんでいるのだと初めて気づいた。これからも青空文庫を通して作品を読んでいくつもりだが、気に入った作品があれば、実際に文庫本を買ってもう一度読んでみようかな、とも思う。

1/9

小林秀雄の講演が収められたCDをきいた。

とても面白く、これはすごい人だ、なんて思ったが、しかし「さすが小林」という感じとは少し違った、というのも、「無常といふこと」などの著作から想像されるイメージとは異なっていたからだ。

そういえば坂口安吾の文章に、小林秀雄をボロカスに言っているものがあったけど、自分にそんなことできるわけもなく、「歴史というのは、思い出すことなんです」と語る場面など、妙に感心したりした。

で、CDの中には「文章について」という題がつけられた話があって、私もこうして毎週文を書いている身だから、どんなことを言うのかと興味を持ってきいたのだが、まず最初っから、文を飾ったって文は生きないんです、とか、文は率直に書くべきなんです、とかいうのからはじまって、古事記の話がでてきたりいろいろ続いて、これをきいてすっかりまいってしまった。私、文飾ろうとしてるし。率直になれないし。

こんなわけで、今回原稿を書くのに困ってしまって、結局時間がせまってきてあわててこんなものを書いた次第である。

小林秀雄のCDは私はおすすめできると思う。興味があればきいてみてほしい。

1/8

ベートーベンといえば、いわゆる「運命」とかエリーゼのためにとか、「第九」とかを作曲した人だ、と多くの人が思うだろう。また、世界史を勉強していれば、ナポレオンと交響曲第3番のエピソードを知っているという人もいると思う。

別にあげられる彼の特徴といえばやはり難聴であろう。これは作曲家として致命的とさえいえるばかりでなく、自分の作った曲を自分で聞くことができない悲しみを伴っていたに違いないと思われる。

その難聴がファクターになっていたかどうかはわからないが、ベートーベンは非常に厳格な人だというイメージが強い。彼の曲は推敲に推敲を重ねてできたものであるらしい。ひとつとして書き直した箇所が見られないモーツアルトのものとは対照的に、ベートーベンは一旦書いたものをぐちゃぐちゃに塗りつぶしてしまったり紙を破り捨ててしまったりといったことがあったとどこかで読んだ。

さてそんなベートーベンだが、音楽をきいてみると、なんというか優しさとか温かさのようなものを感じる。先日「のだめカンタービレ」というテレビドラマ(もとは漫画だが)が放映されていたが、それのオープニングテーマにベートーベンの交響曲第7番の第1楽章の一部が使われていた。「苦悩を突き抜けて歓喜へ」といった言葉は置いておくとしても、特にこの曲の明るさ、楽しさに触れて、ベートーベンをただの頑固者の難しい怖いやつと思うことはないだろう。(実はこの曲は第2楽章が特に人気があるがこれは短調である)

ところで、いつか「第九」を聞いていて思ったことだが、この曲中、よく見ていると、オーケストラのすべての楽器にスポットライトが当たるようになっている。胸のときめくような事実である。

こんなベートーベンを、是非みんなにも聞いてほしいと思うのだ。

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