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携帯電話で誰かに連絡する時を想像してみて下さい。夜になって、何か連絡があったり、しゃべりたくなったりしたときに誰かにちょっとメール。返ってきたら用件以外の話も加わって深夜に亘ってしまう、と言う経験、一度ならずある方は多いのではないでしょうか。
この場合、「相手は何処にいるか」ということは連絡の前提として大きな問題です。何をしているか、も然り。ですが、気にかけつつも最後は考えないことが多いように思います。本来、気にしだしたら到底連絡など、出来なくなるはずですから。
固定電話から携帯へ、手紙からメールへと移った際、いつでも連絡が取れることの裏にある相手の場所など「読めない」事柄の問題について、それほど深く考えられてこなかったのではないでしょうか。固定電話は家にあり、手紙はこちらが指定した場所に届きます。そういった前提が今は希薄です。
模索の結果、苦肉の策がとられている、と言ったら誇張かもしれませんが、筆者が想像した範囲でも以下のことが言えます。(一応)自由に読んで送ってが出来ますが、すぐに返すのが「マナー」と言われること、「電話してもいいか」とメールで尋ねる人がいること、用件以外の会話がどんどん入り、電話なら一瞬で終わるような会話に何時間もかけること、同時に三人以上とメールで会話する人がいること(聖徳太子と命名)。これらには「読めない」ゆえに電話がしにくいことに対して、メールの(一応の)自由さで補っている節があると感じました。勿論、電話には「読めない」以上に拘束性が高いことが重要と言うのも分かっています。そういう観点から見たら側面の事柄になりますが。
先日、親とこの関係が作れない、というような話の中で、家出した女性(娘)が、連絡の取り方がわからず、心配する母に対して「心配要らない。ケータイのある部屋が、私の部屋だから」と言ったと聞きました。もはや「読めない」部分を気にしなくなったと取れるこの一言。どうも他人事といえなくなっていきそうに思います。