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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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寒い日が続いている。今日もまた、気づけば雪が降っていた。そんなに強い雪でもなかったので、折りたたみ傘を持っていたものの、傘を差さずに歩いた。私は、雪が空中から何処かに到達した後、少しずつ融けていくのを見るのが好きで、足元や自分の身体に到達した雪をぼんやりと眺めていた。

そんな中、感じるのは「鼻が寒い」ということだ。(少し日本語がおかしいかもしれない。)指先や、耳が冷たくなって辛いというのはよく聞く話だが、「鼻が寒い」というのはあまり耳にしない。それが関係しているのか、はたまた見た目の問題からか、指先がかじかむときは手袋、耳が冷たくなったときには耳あてという防寒具が存在しているのに、「鼻が寒い」ときのための鼻あてなどは決して存在しない。「鼻が寒い」ときの対処法として、友人がマフラーを鼻のあたりまで上げることを勧めてくれたが、呼吸をしているうちに鼻や口元に湿気を感じるようになるのが嫌いな私は、実行する気になれず、なかなか「鼻が寒い」のを解消できずに困っている。誰か良い対処法があれば教えてもらいたいものだ。

 

何やら、取り留めのないことをつらつらと書いてしまい、申し訳ない。今回は、どうも、文章で表現したいと強く思えることが見つからなかった。最近、色々なことに追われていて、忙しく、ぼんやり胸のうちに表現したいものはあるはずなのに、文章で表現するまでには至っていないようだ。どうやら、私が文章で何か表現するためには、心身共に、ある程度の余裕が必要なようである。

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みなさん風邪などは引いていませんか?急に雪なんか降ってしまって寒い日が続いておりますのでお気を付けください。

センター試験も終了ですね。もうあの頃から一年も経ってしまったのかと、懐かしむ感情が溢れます。あの頃は必死で不安で、追いかけているような追いかけられているような、そんな不安定な時期でした。今はそんな不安定な時期を生きている生徒たちのお手伝いをしています。早いものです。たかがバイトですが、講師というのは人の人生を左右するような大きな存在だと思っています。一年前の私は、自分自身のことを考え、自分自身のために勉強し努力し、自分自身に打ち勝つことが第一でした。今の私はそんな環境から逆に、そういう人々の力になる仕事をしています。それは素晴らしいことであり、また恐ろしいことでもあります。影響力のあることはプラスでもありまたマイナスな面も持っているのです。そんな立場は自分自身の存在を改めて考え直す機会をくれました。私にとっての私ではなく、みんなにとっての私とは何であるのか、何であるべきなのか。そして何ができるのか、何をすべきなのか。人を教え導くことの難しさと面白さを私は今感じています。

 先週は駅伝のことを書いたが、本当は別の文章を投稿するつもりだった。どんなことを書きかけていたかというと、裁判員制度のことである。

 先週は、福岡の飲酒運転による追突事故で3児が死亡した事件の判決が福岡地裁で下されたというニュースがとびかっていて、特に、危険運転致死傷罪でなく業務上過失致死罪が適用されたことに疑問の声があがっていた。多くのいわゆる市民の意見と、判決の内容あるいは全部でない法律の専門家の意見とが食い違っていた訳だが、この事件、裁判員制度の導入後に行われていたら結果は変わったか?とふと思ったのが、この制度についていろいろ調べようと思ったひとつのきっかけとなったのである。(ここで制度や判決について意見を述べるわけではない)

 で、関連した本を図書館に探したり、インターネットをつかったりして知識を得ようとしたのだが、やはり導入の背景や、選ばれた際どうすればよいか、導入後どのような問題が起こってくると予想されるか、など膨大すぎてまだ自分の中で整理しきれていない。それに、制度に対して一定の知識を得ても、実際裁判に関わるとなればまたよくよく考えるべきことが生じて来よう。裁判員制度は2009年5月には始まるもので、自分ももうすぐ成人であるのだが、意識が低すぎたか、と思わされた。

 ところで、先週の同じころ、弁護士が裁判員制度のために、外国人講師を招いて講習会をひらき「いかに裁判員に“アピール”するか」を学んでいるというニュースも見た。それと同時に思い出したのが、「弁護士というのはウソつきみたいなもんよ、みんなからは尊敬も信頼もされてないわ」という言葉(英語で言われたので誤訳かもしれないが)である。日本ではなんとなく正義の味方のようなイメージがあるが。

 なんというか、世知辛いというか、不安だなぁと思う。社会のすべてがそうであるのでは決してないが、ショー的な要素にウェイトがかかりすぎている感じがする。

 というふうに書いていたところに駅伝を見たのである。彼女たちは実に輝いていた。

 「自分が受けた教育の背景をずっと背負っていることを自覚しないといけない」と、教育学系の先生が講義の中で話したことがあります。どういうことかといいますと、盛んに言われる「子どもの問題」…虐め、学力低下、生活習慣など、世論一般で言われることだけでもキリがないですが、そう捉えている側、例えば我々ならどういう教育を受けてきたか。学級崩壊、当時で言う「登校拒否」など、それはそれで充分「荒れた」ものだった九十年代に児童時代を過ごしてきているではないか、ということです。ミクロに見れば個々で多種多様なバックグラウンドがあるでしょうが、マクロに見れば「そういう世代」です。また、もう一つ別の見方をしますと、競争競争と説く親世代(今の小学生くらいを長子にもつくらいの)はどういうバックがあるでしょうか。高度経済成長時代、受験が戦争化して少し後の時代とでもいいますか、その中で育った人々が今教育を提供する側になっています。そう考えると、もはや子どもに問題は還元しえません。筆者の好きな五味太郎さんの『大人問題』の決定的一文「結局、大人が問題なんですよね」を思い出します。言ってる筆者はモラトリアムとか言われる時期ですが。微妙ですが。

 

さて、先日、中教審の答申で、学習指導要領の改訂の方針が発表されました。代表的なところは脱ゆとり教育。週1時間の授業数増加、基礎学力の向上をねらう時間割に変える方向が確定のようです。おそらく、将来的に我々の世代は「ゆとり世代」と少なくとも教育界では扱われ続けるであろうことも確定で、方向性の違う学校の下で子を育てることになるのかもしれません。非常に短い間で、反動的とも見える形で終わるゆとり教育は、それでも確実に我々には行われました。これが意味するところは、我々がバックに持つことで示されていくのでしょう。

 昨日、京都では、今季初でしょうか、結構しっかりと雪が降りました。毎年センター試験の季節に降っているような気がします。受験生にとってみれば本当に迷惑な話ですね。
 さて、普段から折りたたみ傘を持っている私。地下の講義室から出て空より白き花の降れるを見ても動じず怖じず、鞄から傘を取り出し、それを拡げて歩き出します。雪の粒は傘の皮に当たって、雨とは違う、微かな音を立てて融けてゆきます。その音の何と謙虚で、何と日本的なことでしょうか。私はせわしなく歩く人々の群れの中で風流を感じていました。
 国文法の用語に「擬音語」と「擬態語」というのがありますが、「雪がしんしんと降る」と言う場合の「しんしんと」と言うのは一体どちらに分類されるのでしょうか。恐らく擬態語の方でしょう。周りの音を全て消し去って降るような雪の様子を「しんしん」と言ったものだと思います。但し擬態語も発音される以上は音声的なイメージを伴います。謂わば「隠された音」「聞こえない音」を人間の口によって音声化している、といったところでしょうか。私は折りたたみ傘を通して「聞こえない音」を聞いてしまったのではないだろうか、そんな気がしています。

一月は往ぬる、二月は逃げる、三月は去る。

よく耳にする言葉だが、本当にその通りだと思う。正月が明けて、一月になったばかりだと思っていたのに、いつの間にかもう中旬である。普段から、月日の流れの早さを意識することは多いが、一月から三月にかけては、より一層それを感じる気がするから不思議なものだ。

時が過ぎ去っていくのを非常に早く感じる状況というのは、二種類あると思う。

まず一つは、何をするわけでもなく、ぼんやりと毎日を怠惰に過ごした場合。あるとき、ふっと自分が過ごした時間を振り返ってみても、何か出来事や変化があったわけでもないので、あっという間に月日が過ぎてしまったように感じる。この場合は、何もしないまま、こんなに時間が経ってしまったのかと、振り返ってから、焦りや後悔の気持ちが出てくることも多い。

もう一つは、逆にとても充実した日々を送っている場合。やりたいこと、やらなければならないことを一つ一つこなして忙しい毎日を過ごし、いつの間にか月日が経っている。こちらの場合でも、月日が経つうちに、自由に過ごせる時間が残り少なくなったり、やらなければならないことの期限が迫ってきたりして、焦ることはあるものの、怠惰に過ごした場合とは違って、充実感や満足感を得ることができるだろう。

講義があって、テストがあって、春休みを迎えて…。きっと今年も、去年までと同じように、気づけば三月になっているに違いない。けれど、振り返ってみたときに、それまでの日々が空虚なものだと感じないように、充実した日々だったと思えるように、行動していこうと改めて思った。

今春卒業する大学生の就職内定率が4年連続で上昇したそうである。何年かあとに就職をしようと思っている高校生や大学生にとっては良い知らせだ。まだ自分のやりたいことが決められずにいる人にとっても、とりあえずは少し安心させられるデータであろう。
阪神大震災が発生してから、明日で13年になる。建物が倒壊し、火災が起こり、道路が遮断されている、そんな光景がひろがっているのをテレビで見て、おそろしい、いや呆然とした記憶がある。しかし、その記憶もだんだんと薄れつつある。
昨年は能登半島地震に新潟中越沖地震と大地震が続き、多くの人たちが苦しい思いをした。このような出来事が風化していくのを、どうすれば防げるか。われわれの考えるべき問題である。
今春卒業する大学生は、13年前、小学生だった。震災の被害にあい、家が壊れ、親をなくした人もいただろう。まだ小さい頃に、そんな中を生きた人が、その学生達の中にいるのだ、と思うと、その力がもっと映えてほしいと思う。
震災を風化させずに、もっと、いろんな面で安心できる暮らしへ。そういう努力をしていこうではないか。
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