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やるべきことがたくさんあって、こんなことしてる場合じゃないと思いながら、この数日間に2つの演奏会に行った。以下、それの最中に気になったこと。無学ながら偉そうに言ってすみません。
ひとつめ。三味線、箏、尺八など日本の楽器で演奏される曲、ひろくは、別の民族音楽(?)に欠かせないのはおそらくピアノで出せない音である。つまり、ドと♯ドの間の音とかそういう音。だから邦楽はピアノで再現しようとすると、そういう理由もあって失敗するに違いない。もちろん西洋の、我々が普段クラシックと呼んでいる類の音楽であっても微妙な音程抜きには無味乾燥としたものになるのだろうが、こちらは「ピアノ的」音から外れると「下手」と思われる気がする。
で、私は、ドから1オクターブ高いドまでを12に区切ってしか歌えないのでは、と演奏会中に思った(当然ながらその場では歌えなかった)。ほんとはあまりに細かすぎなければいくつに区切ったって歌えるはずだ。なのに半音単位でしかわからなくなっているのはなぜだろう。学校の音楽のせいなのか、身の回りの音楽がみなそうだからか。
ふたつめ。ベートーベンの交響曲を聴いて、曲自体はとても好きだけれども、この演奏の仕方はどうかなぁ、と思っているところに、アンコールでモーツァルトが演奏されて、こちらは大変気に入った。何の変哲もない話のようだけれども、一瞬、これはモーツァルトの曲の性質なのではないかと思って震えた。ベートーベンのある意味厳格な音楽は、演奏する者、あるいは聴くものに何かを要求するような感があるが、モーツァルトの音楽は、芸術として見事なものである上に、大衆受けの良いというか、誰にもなじんでいく、そんな感じがある。実際は、多分自分のベートーベンの交響曲のイメージと指揮者のスタイルが違い、しかしモーツァルトに関しては同じだった、そういう曲に向いている指揮者だったというだけかもしれないが、今回はベートーベンの偉大さだけでなく、モーツァルトの偉大さを感じた。