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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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平成始まって20年とよく聞く今年。いろいろと20年前を振り返る映像や文章を見ます。今騒がないと次は10年ありませんから(?)。

こういう時、懐古的な印象が見えます。「ああ、あの頃は」と「あの頃からこんなに変わった」です。前者はよく言われる代りに表面的、後者は批判もある一方内心思う人が多いかなと思います。自分が産まれて以降ただ悪くなったみたいに言うなよ、と思うのはさておき、何れも日進月歩が前提にあって快くありません。

昨日より何で今日は良くないといけないのか、納得出来ない訳で。階段上るように進歩しないといけないのは大変やんなあ、とひねくれて構えると一種楽です。

向上心のない奴と言われそうです。でも明日の自分に保証ができないもので。総じて見て向上してたら上出来だろうなと思ってます。

頑張らない、という感じです。頑張るって言葉も思うところは多いですが、今日はこのあたりで撤収します。

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 そちこちで言われているところだが、今一度強調しておきたい。今の小学生は「円周率は3である」と教わってはいない。「円周率は3.14」である。これは、現行の学習指導要領を見れば書いてある。「円周率としては3.14を用いるが,目的に応じて3を用いて処理できるよう配慮するものとする。」とある。すなわち、小数点第二位まである掛け算は難しいから、実際に面積を求める問題では3として計算させてよいとするものだ。それぐらいの計算はできて欲しいという向きもあろうが、3.14を習ったうえで3として計算することで近似的な計算の感覚が身に付くと言えるかも知れない(勿論3.14だって近似には違いないが)。良し悪しかとも思う。

今日は短くてすいません。寒いので。 

参考:http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/004.htm

会話における言葉というものは不思議なものだと思う。

たとえ一字一句として違わない文だとしても、その言葉に込められた思いによって、自分の中で生じる感覚は異なってしまうのだ。言葉を受けて生じた感覚は、その言葉を発した相手に対する自分の印象や感情に左右されることも多々あるので、非常に不確かなものではある。だが、その相手との関係を構築していく過程で、この感覚を頼りにしている部分は比較的大きいように思う。

言葉遣いというのは、円滑に物事を進めたり、相手と心地よい人間関係を築いたりするために、会話の際には気をつかわれるものだ。しかし、それは、これらが自分の気持ちの持ち様と連動している場合が多いからこそだと思う。言葉の選び方も大事だが、そこに込める自分の思いや感情も大切にしたい。

2/9

 センター試験の現代社会に「対抗文化」に関する設問があって軽い驚きを覚えたのですが,実際批判があるようですね。対抗文化は最近サブカルチャーやマイナーカルチャーとごっちゃにされてますが,カウンターカルチャー,文明を捨てることを掲げる場合もあるヒッピーが代表となるものです。

 

 設問では尾崎豊の歌詞を「既存の秩序・体制を批判,新しい社会への原動力となる」として示しています。有名な盗んだバイクで走るアレです。そしてそれが対抗文化の性格であるという関連付けをして,なおかつ正答です。これに対し,カウンターカルチャーに異を唱える考えの人,保守的傾向の人々から反発があったようです。曰く,尾崎豊は歌詞などの性質上まだまだ公的な場の議論では一般でなく,かつそれを対抗文化として肯定的に捉えるのは主流の文化を毀損しうる,またそれを人々が広く受験する場で出題し,正解にするのは偏った思想を広めることになる,というものです。尾崎豊を対抗文化の一例としてあげるのが適切かどうか,その点はもちろん疑問があって当然かと思います。対抗文化はヒッピーから尾崎豊までカバーする概念なのかどうか。ただ,その批判,思想伝播を目的としている,というところは批判の側に疑問符を付けたいと思います。

 

 社会一般に全く正しい解釈が為され得ないからこそ多数の主張がある,というのは今更書くほどのことでもありません(もちろん,それが為し得るという主張も含めて多数の主張があります)。今回尾崎豊の歌詞を対抗文化,そしてそれは世の変革の原動力,という見方があった。それは前衛的ではあるかもしれませんが,それが試験で使われることがあってもかまわないかと思います。「公共性が低いからこの論はダメだ」というのであれば,一般論,多数派,保守的論だけで試験を構成してもいいのでしょうか。この問題ならば「対抗文化は既存の文明を否定し,社会を混乱させうるものである」を正答とするとか。こうすると少数派から批判がきます。無視するのでしょうか。もしくはこの手には一切触れず,啓蒙思想あたりでお茶を濁しておく。これも一種の手ですが,そうしたら現社の存在意義から危うくなりますよね。

 

 現代社会が捉えがたく,議論の中で進まざるを得ない以上,「現代社会」を銘打った広いテストで議論に上がる題材というのは逆にいい機会なのではないでしょうか。万人にいい顔した社会解釈などあり得ないという最初の話をはっきり示しますし。

 

 蛇足ですが,これでさらに二次で「センターでこういう問題があり,こういう批判があったが,このことをどう捉えるか論述せよ」という問題でも出すとさらに効果的。まさに一次と二次です。残念ながら現社は万人が受けるものではないので,「偏った」問題になりますが。

2/8
 先日テレビを見ていると「いろいろなサイトウさんを探そう」というような企画をやっていた。つまり「斎藤」さんがいれば「齊藤」もいて、という風にいろんな漢字のサイトウさんがいるはずだから、できるだけ多くのサイトウさんを探そうという企画だった。そして実際に探す前に、漢和辞典か何かで調べたのだろう、"サイ"の字を一覧にしていて、そこには驚くべきことに、一見して50近い"サイ"の字が並んでいた。普通の「斉」に見えても上が「文」で下が「月」になっているものもあり、とても面白かった。
 しかしながらいざ探してみると、大体3種類ぐらいのサイトウさんしか見つからないのだった。多くの人が言うには、昔は別の漢字だったが、戸籍を新しく作るときにポピュラーなサイの字に変えてしまったのだという。変えてしまった理由は、ワープロであった。私が今使っているワープロソフトでは「斎」「斉」「齋」「齊」の4種類しか出てこない。やはり情報も電子で管理される時代、自分の名前がワープロで出せないのでは不便だったのだろう。
 孝太郎電子化に際しても同じような苦労があった。ブラウザ上で縦書きを実現するためにいろいろ苦心したものだ(本当はadobeが使えるといいのですが…)。文化というものは思わぬところで簡単に失われてしまうのである。
2/7

 冬と言えば、どちらかというと暗いイメージがある。いきものたちも、夏の勢い盛んな様子とはうってかわって静まり、あるいは死んでしまう。

 それでは私のような人間はどうかというと、さぶいさぶいと言いながら外から帰ってきて、ストーブとか炬燵とかのお世話になる。先日風呂に入っていて気付いたのだが、風呂に入って一番ほっとするのは冬じゃあなかろうか。あたたかいお茶なりコーヒーなりを飲んだときのやすらぎみたいなものも、冬ならではのものとも言えそうである。厳しい寒さの中に居らされてこそ、ほっとすることができているようである。(最近はとても厳しい寒さとも言えないかもしれないけれど)。逆に、夏ともなると、いろんなことが騒がしいし、浮かれた心持になっていた気がする。

 思えば、何かと騒々しい世の中だ。どうも、これまで多くのあたたかみを見過ごしてきたようだ、と静かな冷たい風に吹かれながら考えた。

2/4
昨日は節分でしたね。毎年豆まきと太巻きのまるかぶりは欠かしていない月曜日担当者です。
今年は南南東らしく、福がやってくるように無言でかぶりつきました。豆も年の数だけ食べたし・・・数えプラス一個で。なんだか手のひらいっぱいに豆が転がっているのを見ると、年をとったなぁと年末に感じた、時の早さというものを思い出したりなんかします。
何度か私のバイトの話をしてきたと思います。塾講師のお話です。私は地下鉄と近鉄を利用していつもバイト先へ向かっているのですが、いつも移動時間は無駄だなぁと思っていたわけです。その場しのぎに本を読んだり音楽を聴いたりしていました。しかし、デイリー孝太郎で移動時間についての話を読んでからは、なんとなく自分の意識の変化を感じました。車内へ乗ってきた人が座ったとたんに本を開き、熱心に続きを読み始める。なんだかせわしないなぁと自分の時の流れを乱された感覚を覚えたのです。
時間は取り戻せない、とても貴重なものです。無駄な時間ほど「もったいない」と感じるものはないでしょう。しかし、「もったいない」と感じることはその人の主観的な部分の問題であり、強制することも制限することもできません。もちろん、本を開いたその人は移動時間とは無駄な時間なのでしょう。しかし、公共の場を私的な空間に変換しているように感じられてしまったのです。
世界に流れている時間をどう感じるかは主観的なものです。百人いたら百通りの時間があるのです。せわしない人と一緒にいたら、自分の時間が短くなってしまったように感じたり、のんびりな人と一緒にいたら、自分の時間が長くなったように感じたり。人の時間の感覚には影響力がありそうです。
本を読み出した人の時間の感覚は、無駄な時間を有効活用しようとするちょっとせっかちなものに感じられました。私の移動時間はせっかちさに影響されつつも、自分の時間の余裕に気付かされような気がします。
そして乗り換えのために車外に出たとき、あ、孝太郎更新できそうと感じたことは言うまでもありません。
最後に、今日は感じたものを言葉するのが難しくちぐはぐな文章になってしまい、申し訳ありませんでした。
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