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あと数日で2007年も終わる。このように、デイリー孝太郎で毎週文章を書かせてもらうようになったのが8月だから、それからもう4ヶ月以上経っているのだ。そう思うと、書き始めた頃のことが随分前の懐かしいことのような、つい先日のことだったような妙な気がする。
当初は軽い気持ちで引き受けてしまったが、文章を書く習慣というものがなかった私には、毎週文章を書くというのは思っていた以上に大変だった。なかなか思うように筆が進まないときは、単純に書くネタが思い当たらないというのもあったが、それ以前に自分の中が言葉で整理されていないことが原因であったように思う。上手く書けないが、文章にするだけの準備が自分の中でできていない感覚とでもいおうか。文章を書くためには、自分の中の「何か」を言葉に当てはめるという作業が、私には必要だったのである。
毎週文章を書いていくうちに、自分の中の「何か」を言葉に当てはめる作業は無意識のうちに習慣化したように思うが、ときに、私は自分の中に湧き上がる「何か」を言葉に当てはめることに物凄い抵抗を感じることがあった。言葉でその「何か」を表現するのは漠然と間違っているような、もし言葉で表現すれば自分が後悔するような、そんな気がするのだ。このようなとき、言葉も表現方法の一つに過ぎないのだな、と思う。言葉というのは我々にとって非常に身近な存在であるから、自分の中の「何か」を言葉で表現することは多い。けれど、きっと人にはそれぞれ、自分にぴったりの表現方法があって、音楽家なら「何か」を曲で表現するだろうし、画家なら絵にそれを表現するだろうと思うのだ。また、同じ人でも、その時々でぴったりの表現方法というのは異なり、状況に応じて自分の中で、これしかない、という表現方法を選択して「何か」を表現しているのではないだろうか。
自分にとって最適な表現方法が、果たして言葉なのか、そうでないのかは、自分にもまだよくわからない。けれど、そのとき自分が言葉に当てはめることのできる「何か」は、来年も、このデイリー孝太郎で文章として表現していきたいと思っている。
それでは今年はこのへんで。よいお年を。