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限界とはなんだろうか。私はまだ限界にぶちあたって打ちのめされたということがない。たぶん。
もし、生まれながらにして自分の一生がどんなものであるかが決まっているならば、それは私の人生が制限されているということになるのだろうか。
私の人生が3か月後に終わる、と告げられるのと、30年後に終わると告げられるのと、いや、いつ死ぬか、長いやら短いやらわかりませんと告げられるのと、どう違うのだろう。
今日の次には明日がある、とか、「5メートル先」の向こうには「6メートル先」があるとか、思いながらの暮らしをしていると、不意に「限界」にぶちあたったときに、やはり「信じられぬ」という気持ちがまず起こると予想する。
あまり知らないことを書くのもいけないが、昔は、生まれたときから、さまざまな限界と隣り合わせに生きてきたのではないかと思う。それに対して今はどうなのだろう。一見、限界はときとともに取り外されてきているように、少なくとも私は感ずる。ただ、それにしては、生きにくい世であるという印象も抱く。矛盾したこの現象をどう説明すればいいのか、私はまだよくわからない。
少なくとも、いつかは自分も、なんらかの限界にぶちあたる日が来るに違いないと思う。そのことをふまえて、私が実際どうしていくべきかは、考えるに値することであろう。生きにくいのはいやである。また、限界にぶちあたっても、それに耐える力もほしい。しかしこれは多少おこがましいというか、私の言うべきことでない。やはり、限界とは何なのか、それが知りたい。それには、自分で走りださなければならないということか。そろりそろり、と歩いていては、たとえなにかに背中をぶつけても、それが壁であるのか、のれんのようなものであるのか、わからない。まして立ち止まっていては足元は腐ってゆくだろう。
おっと、これでは話がおかしな方向へすすむばかりだ。実際に、そう、私がいまなにをすればよいのか、なにをしたいのか、これを考えなくてはならない。自分のことを考えることが求められているのだ。それは、もしかしたら、自分の限界を知るということになるのかもしれない。