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新しい環境に慣れ始めた最近、ようやく名前と顔が一致するようになってきて急に自分の世界が広がったような気持ちになる。名前や顔を覚えるのはあまり得意な方ではないが、個性的な人というのは印象的ですぐに覚えてしまうものだ。
「個性的」という言葉には日本人よりは欧米人に特有のものである、という考えは一般的なものだろう。季節の変化に富み、稲作文化を形成してきたために所謂「和を以って尊しと成す」精神が、日本人の行動を支配的に規定しているのだとよく言われる。文化を吸収することに長けた日本は模倣性に優れていて、また集団的であることから「没個性的」であると言われている。
あらゆるものがアメリカナイズドされた今、他の誰とも違う独創的な自分の意見を直接的に他者へ伝えることをよしとする風潮はますます大きくなっている気がする。大学の授業も然りで、講義型とゼミナール型の授業の扱いからもそれは分かる。言語能力の活用だとか、機転だとか、論理性だとかは西洋的な方法で鍛えることができるだろう。
しかし、これは理性面でのお話だ。私たちが住むこの日本は、革命や戦争でホイと出来上がった国ではないし、昔から豊かな風土と共に歴史を重ねてきた土地だ。実際にわれわれの本質が上記のようなものであるなら、もちろん、われわれの感情にもっとも訴えかけるものはわれわれ流の自己表現によってであると私は考える。ダイレクトな表現や自分の意見を通そうとする人間の姿に、われわれ日本人は情緒を感じることができるかといえばそれは疑わしい。その方法は、その人間や国が作られてきた環境によるものだ。
今日、哲学入門という講座がありました。まあ正直、半分寝つつ話を聞いていたようないなかったような、そんな状態だったのですが。
そこで、『…(略)…だから私は外界のことを何も知らないと言える』みたいな認識論ってのが紹介されていました。まあ要するに自分が今夢を見ているのではないと証明し得ないなら、外界は全部夢かも知れないんじゃんか、みたいな話だと思うんですが。
…知らない、って、だったらどうなんですかね。
とりあえず私は、それだけ思いました。
私は実際、科学だって人間によるゲームみたいなもので、ゲームの下における秩序や何やはそのレベルにおいてのみ真実だとは思っても、本当の本当の真実は分からない、客観視は出来ないと思っているから、"知らない"のを認めちゃっていることになる。
けど、別に、だから何だって言うんだ、受け入れれば良いだけじゃんか、というのがそれに伴う感想。知らなくて良いんじゃん?少なくともその内我々土に還ることは確実じゃん?知ったところでどうなるの?
…そう思うわけです。
本当の客観視はやっぱどう考えても無理だと思うし…反論って苦しくない?
そこを最後まで疑いたいのは、知らないかも知れない事実が許せないからじゃないのかな?
とか思うよ。
…なあんて言ったら、理系の人に怒られるかしら。えへへ。笑
「ピッカピカの一年生」「フレッシュ」で思い出したが、英語では大学一年生のことをfreshmanと言う。ちなみに、二年生はsophomoreで、物知り顔といった程度の意味である。三年生はjuniorで、少し謙虚さが戻り、四年生でseniorとなって名実ともに成熟する。なかなかうまく言ったものだと思う。
さてそのfreshmanの私だが、初々しい気持ちで各講座の初回授業に臨んでいる。その中で特に心に残った講義があるので、この場を借りて報告したいと思う。
その日は一日中雨模様で、学生の活気も湿り気味であった。五限目になって私もずいぶん疲れていたが、以前から興味を持っていた数学史の授業ということで、少しばかりの期待があった。開始時刻から五分ほど遅れて老教授が姿を現した。三段式の黒い折り畳み傘を一回だけ無造作に畳んで、前に突き出すようにしながら講義室に入ってきた。禿頭、白髪、ざんばら髪という絵にかいたような「大学の先生」であった。
階段式の大きな部屋なのにも関わらず、教授はマイクを持たずに講義の概要を話し始めた。その上つぶやくような小声なものだから、後ろ寄りに座っていた私は、その日本語を聞き取ること自体に難儀した。概説が終わるとすぐ本題に入ったが、それでも声のトーンは変わらず、私は面食らったというよりそれを通り越して愉快になってきた。
もっと愉快だったのは板書である。まず、字が乱雑、かつ小さすぎて読めない。そして膨大な量を書き続ける。語尾や接続語もきっちり含んだ「文章」を綴るのである。教科書を使わない講義だが、まるで教科書を書き取っているような気分になった。教授は「話している」というよりむしろ「板書を読んでいる」といった風情で、ひたすら黒板に向かってつぶやいていた。
内容は「有史前、数の概念はどのように生まれたか」といったもので、たいへん興味深かった。しかし、そのあまりに淡白な進行と板書の多さに耐えきれなかったのだろうか、十人ほどが授業終了を待たずに途中退出した。私は意地でも我慢してやろうと思って黙々とノートを取り続けた。
最後に教授は、「次週はエジプトの数学」と黒板に書きつけて、入ってきたときと同じように、折り畳み傘を前に突き出すような格好で出て行った。あとにはミミズの這った黒板と、学生の嘆息が残った。
ト長調は水色、変ニ長調はあたたかい(?)赤、ヘ長調はオレンジ、ホ長調は深い緑、というふうに、僕はそれぞれの調に対して、色のイメージをもっている。だから、よく知っている曲が、アレンジされて調が変えられているのを聞くと、それはまったく違う色の曲になってしまうということで、すごく違和感を覚えたりするわけです。
で、こういう話をすると、「絶対音感?」とか言われるんですが、聞こえてくる音がすべてドレミで聞こえたりするわけではないので、だいたい音をきいて階名はわかりますが、まぁ大したことはありません。
で、こういうことを書くと、「中途半端に自慢?」とか言われるんでしょうが、たぶんみんな絶対音感的なものをもっているんじゃないかと僕は思うので、そんなこと言わないでほしいわけですね。
先日学校の仲間とごはんを食べに行って、そこで奈良出身の人と京都の人と、富山の人といっしょになった。そこで、それぞれの地方のイントネーションの違いの話になったんですが、そこでいろんな言葉を京都人が、あるいは富山の人が“ネイティブな”発音で言う。そうすると、はっきりと違いがわかる(京都と富山なので違って当然ですが)んですね。しかし興味深かったのは、抑揚の付け方が決まっている、それぞれ発された音を楽譜にしたとしたら誰が言っても“同じ楽譜を話す”ことになるように感じたことです。
人によって声の高さは違いますが、我々はちゃんとそれを覚えています。だから、いつもと音の高さが違ったり、抑揚の付け方が微妙に違う(微妙に違う音程で話す)ということがあると、「いつもと違うな」と思う訳です。
こういうこと無意識的にやって、声色を見て、相手の気持ちとか状態を量っている。そういう意味じゃあみんな音に対して繊細な感覚をもっているのだと思います。そういえば、音痴な人のしゃべるときのリズムとか抑揚って、やっぱりズレルんでしょうか。そうでなければ、結構すごいことじゃないかと思います。大学に新入生が来て,周りの状況はかなり初々しいものになっています。授業の出席率といい,教科書販売の行列といい。
ところで,「ピッカピカの一年生」という言い方が何だか哀しいものに思えるようになりました。ピッカピカと形容するのは「古びた」人たちでしょうか。ピッカピカならそのうち汚れがこびりついていくんでしょか。これは,大いにあり得ますね。要領よくサボることを学んでいったりとか…いや,脱線。こんなことをいちいち言う自分もどうも老けたなあとか考えたり考えなかったことにしたり。
同じことは「夢を持って生きる」ことを,何故か若年層に求めることにも言えるかもしれません。それも「自己実現の夢」に限り。何でしょう,それを聞いてるのは大概夢を諦めた側であったり…。先のピッカピカも,今度の夢も,両方なくしてしまった側の懐古,諦めの蠢く言い方に聞こえてきます。
事始のフレッシュな気持ち,それ自体はとても良いものだとは思います。ですがそれもいずれその意思を見失うのを見越しているみたいで。いったいどないせえと言うんでしょうか。
ああいう場所に行くと「床が抜けたらどうしよう」「どの程度の重さまで耐えられるのだろう」とやはり考えてしまうのだが、顧みると日常の生活圏内にもそういう場所はたくさんあって、というか二階建て以上の建物はすべてそうなのであるが、それでも我々は何の恐怖も違和感も感じずに生活を送っているというのは、実は結構特殊なことなのでは無かろうかと思うのだ。
別の話をすると、等速直線運動の電車に乗っているときには床は止まっているのと同じになってしまうわけで、それと同じく二階建ての床というのは地面と全く同じものとして我々は捉えていて、謂わば「擬似地面」とでも名付けたくなる存在になっているのだなあ、と考えたのだが、そういえば中学校で位置エネルギーのことを習ったときにも今と同じような気持ちになっていたなあ、とも考えたり。昔は大地を神として崇める信仰もあったらしいが、そういう意味でも現代では神が死んでいるといえるかもしれない。
最初は、深く考えずに見ていたが、日本版では沈黙の中、登場人物の動作だけで、その登場人物の気持ちが表現されていた筈の場面にも、海外版では台詞が付け足されているのに気づくと、なんとなく抵抗感を感じた。確かにその台詞は、その場面の登場人物の感情を間違ったように表現しているわけではなかったのだが、そこは、あえて台詞で表現せずに、沈黙の中に漂う、曖昧な、けれど確かに伝わるだろう雰囲気で表現されているからこそ、良いのではないかと思ったのだ。
台詞の付け足しには、おそらく文化の違いなども関係しているのだとは思う。もしかしたら、日本人が受け取る感情に近いものを海外の人が受け取るには、付け足した台詞は必要だったのかもしれない。けれど、そこには、翻訳者や、編集者の意図が入っているのは確かで、海外版のその映画は、日本版の映画とは、ある意味、もはや違う作品かもしれないとも思う。
このように考えると、私たちが日々触れている海外の映画も、日本人の意図が入った、もともとの作品とは違う作品ということだろうか。外国人とのしっかりとした相互理解のためには、相手国の文化や言語を知る必要があるというのは、よく聞く話だが、海外の映画等の作品も、本来の作品そのものの雰囲気を楽しんだり、感じ取ったりしたいのなら、その作品の製作者の国の言語や文化を知った上で、翻訳者や編集者の意図が入らない原作版に触れたほうがいいのかもしれない。