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象徴の帝国
昨日、京都観世会五月例会を観に行った。映像では幾度か見たことがあっても、能を生で観るのは初めてで、大変良い経験になった。
午前十時半から午後四時までという長丁場で、能が三演目、狂言が一演目、仕舞が三つという構成だった。能は「敦盛」、「隅田川」および「鵜飼」で、狂言は「千鳥」が上演された。
まず、とても長いと感じた。「敦盛」は、熊谷直実に討たれた平敦盛が出家した直実の前にいろいろなかたちで現れる話。「隅田川」は子を失った狂女が塚の前で祈ると子どもの幽霊が出てくる話。「鵜飼」は鵜を遣ってたくさんの魚を殺した鵜飼が法華経の力で救われるという話である。ずいぶん荒削りの要約だが、実際ストーリーとしてはいずれもこの程度である。図書館で借りた謡曲集を見ても、それぞれ10ページそこそこの分量にすぎない。しかし、能の一演目は一時間以上かけて演じられる。単純な筋の中に色とりどりの要素が巧みに組み込まれていることの証拠である。謡・囃子・舞……。これらが絡み合って錦織のような芸術が完成しているのだ。
そして、なによりも、とても抽象的な舞台だった。象徴的と言っても良い。戦闘シーン、舟中のシーン、地獄のシーンなどがあったが、当然ながら手に持つ小道具以外の舞台装置はほとんどない。演者は「かくかくしかじかのシーンだと思え」というメッセージを動きや音楽を通して観客に発信し、客は自らの努力で「かくかくしかじかのシーンだ」と思わなければならない。そういう意味では、観客にとって能という芸能は、積極的に参加できるものであるし、また同時に積極参加を余儀なくさせられるものであるといえるだろう。
まず,担当曜日に遅れてしまっていることをお詫びいたします。土曜担当です。
この前見つけたことです。大学の食堂では食料調達の後,箸やスプーンなどをセルフで用意しますが,箸に赤というか臙脂色のものと,暗めの青のものとがあるのですが,明らかに臙脂色が早く減り,最後には青しか残っていないのが,毎日の状態です。
ファストフードも基本的に赤い看板ですが,食欲を喚起するのは暖色のものというのが,もはや通説という感じでしょうか。皿などに暖色を取り入れるのは聞いたことがありましたが,箸のようなところにまで差が出るというのが興味深い点でした。最初から青の箸なんて用意するなよ,とも逆に思いますが。
色の心理効果はもう有名な分野になっていますが,何か血液型占いと同レベルの解釈も少なからず出回っているように思います。黒が好きな人間はどうこう,っていうやつですね。筆者は黒が好きなので,そういい思いをしてきませんでしたが。色の効果は事実としてある以上,自分の信用できる範囲で使っていけたらいいのだろうなと感じます。あと,たとえ事実としても,カラーリングさえ整っていればストレスのない暮らしができるかのように錯覚させる紹介も少なくないですしね。
白地に黒文字の文章がもし堅苦しいとか無味乾燥と感じるならば,ちょっと色合いを暖色系にしてみようかなあ,と思いましたが,遅れて出しておいてそういう実験的なことをしても迷惑をかけるだろうので,自粛いたしました。
先週のをご参考に。
「な」…「た」に似ているが破裂音ではなく鼻音とされる。理由は発音の際に鼻から空気が漏れるから。ほんまかいなと思って鼻をつまんで「な」と発音してみると限りなく「だ」に近い音が出る。
「ま」…調音位置が両唇となる鼻音。
懸命なる読者諸君は気づいているはずだが、私は「は」をとばした。それは意図的なものである。
「は」を抜いたここまでの音を発音してみよう。「あかさたなま」。調音点が喉の奥から唇に向かって前進してきているのがわかる。
また、調音点が同じ場合には(といっても例は一つしかないが)、摩擦音→破裂音→鼻音と、薄い印象の音から濃い印象の音(これは私の主観的な形容である)へ遷っている。
以上の法則性から「は」の位置に来るべき音は「ふぁ」もしくは「ぱ」であることがわかる。
そして、実際ほかの証拠からも、昔の日本では「は」という文字を[pa](一時期は[fa])と発音していたことがわかっているらしい。かくして五十音図は美しい合理性を得るのである。「あかさたなぱま」。発音していても気持ちがよい。
ちなみに残りの「やらわ」は、半母音的な子音を調音点順に並べているものである。詳しい解説はいらないだろう。
喉の奥から口の先、そして半母音という順番は中国やさらにはインドに由来しているらしい。たかが五十音図といえどなかなか奥が深い。
だが、最近になって知ったのだが、どうやらそうでもないらしい。習熟度別は欧米では破綻済みの学習法で、学力を底上げせず、学力格差を拡大するだけだという見方が強いらしい。また、文部科学省の学力調査の結果、習熟度別授業を受けた子と受けない子の成績には差がないことが明らかになっているというのだ。
確かに、習熟度別にしなければ、一クラスの中に、ある教科が得意な子も苦手な子もいることになる。それは一見効率が悪いようにも見えるが、得意な子と苦手な子が同じ授業を受けることで、苦手な子が得意な子に教えてもらうことができるのは、実は効率が良いともいえる。というのも、苦手な子は、得意な子が友人またはクラスメイトであれば、教師よりも質問をしやすいし、得意な子は得意な子で、苦手な子に教えることを通して、自身の理解を深めることができる。後者は、心理学から見ても、個人での資料を読むだけ、聞くだけの学習による記憶(学習)定着度は10%~40%程度なのに対して、聞いた内容を書き取り、更に人に話す学習だと定着度が90%であることを考えると、確かだといえる。
今まで漠然と良いものだと思い込んでいたものが、そうではないと知って、非常に驚いた。もし自分が教師だったとして、良かれと思って生徒にしていたことが、そうではなかったら…と考えると何ともいえない。何でもただ鵜呑みにするのではなく、色々な角度からものをみる、様々な情報を集めて分析する。これらのことの大切さを改めて思った。
横顔
いつも人と話すときは、真正面からその人の顔を見て話す。
気恥ずかしいときは、目をそらして。私の話をわかって欲しい時はしっかり目を見つめて。
話をする時以外には、あまりじっと相手の顔を見つめることはない。(少なくとも私はそうである。あなたの場合どうかは分からないが。)
私の頭の中で再生する友達のイメージは、いつも私と会話をするときのその表情である。それはおおかた変化に富まず、一定の彼(彼女)の定義を与えてくれるものだ。そこには友達がいつもどおりの友達であるという安心と、少しの退屈さがあった。
つい先日のことだが、ある人の横顔をじいっと見ている私に出会った。それは男性であったので、まるで恋愛感情を持っているかのようだが、残念ながらそういうお話ではない。彼のイメージは前述した通り私が会話するときの彼であったが、横顔の彼はいつもの彼では無かった。彼はどこか遠く前方に意識を集中させていて、そこには無防備さがあった。私に向かい合う時の緊張がそこには無く、あどけないような大人なような、なんとも言えない雰囲気を醸し出していた。他人に見られていることを意識しないために、自然と彼の内面から光の部分と影の部分が滲んでいた。横顔って不思議だなぁ、正面からじゃ知りえなかったものが見えてくる。彼が今までの人生で歩んできた歴史というか(それは言いすぎか?)、積み重ねた何かまで感じ取ることができた。
私が知っている相手の人間像が、その人の人格全てではない。それはひどく当然のことだが、忘れがちなことだ。定義づけと義務づけが大好きなのが私の性分、なおさら何事も決めてかかってはならない。決めつけて、見えなくなって、最後は後悔する。それだけは、したくなかった。
どうも。もうすぐ梅雨ですね。今小雨が降っているだけで、胸に絶望というか虚無感というか兎に角湿ったものが張り付く私にとって、笑えない時期であります。でもその後に太陽サンサンの夏が待っているので、なんとか生き抜いていこうと思います。この鬱々とした気分の分、いや数倍、空に私にみんなに何て幸せなんだろうと次に思える日が近いことを知っているからです。そして知らない人がいたら、教えてあげたいと思うのです。
今日は立ち読みしたニュートンの別冊に載ってた次元についての話をしようかと思ったけど、雨が降って空が近くなったのでもういいや。とりあえず原口と新口が、っていうか口と肛門が、つながっていながら一個体としてやっていけるのは、人間が3次元の産物だからだということらしいです。言われてみればそりゃそうですね。ドーナツの断面図は2個のマル。だからといってドーナツの美味しさに変わりはないけれど。
教官の案内で、大学の経済学部図書室を見学する機会があった。開架と書庫の両方があって、うろ覚えの数字だが、開架には約5万冊、書庫には約46万冊の本があるということだった。
入口を入ってすぐの開架スペースは、変哲のない「図書館」であったが、一歩書庫に足を踏み入れると、そこは独特の雰囲気を呈する不思議な空間だった。年季の入った本のにおい、靴音の響く感じ、埃っぽくよどんだ空気……どれも気分を高揚させる魅力的なものだった。
特に興味深く見学したのが、別館にある貴重書庫だった。地下二階にあり、入口は強化アクリルの扉で固く閉ざされている。照明は、人が中にいる時以外は消しておかなければならない。さらに、地下は湿度が高いため、24時間除湿機が稼働し、書庫内は低湿度に保たれている。
さっそく出迎えてくれたのはアダム・スミス『国富論』の原本だった。現代の書籍と比べるとかなり大型で、豪華な革装丁である。200年以上前のものにも拘らず、活字はしっかりしていて十分判読できる状態だった。この本は英語で書かれているから、私でも自分の語彙の及ぶ範囲で読解することも可能だった。
さらに古いものとしては、トマス・アクィナスの『神学大全』があった。こちらはラテン語の本で、おまけに古い時代の装飾的な活字で印刷されているから、内容はさっぱりわからない。ともあれ、「本物だ」という感慨はひとしおであった。面白かったのは、欄外に手書きの書き込みがあったことである。この本の所有者であった13世紀の人間が、思いつきや疑問点などを書き留めたメモに違いない。彼は21世紀の学生が自分の走り書きを目にするなどと想像したろうか。
日本のものとしては、山方蟠桃『夢の代』の写本や、福沢諭吉『文明論之概略』等があった。江戸や明治に生きていたわけでもないのに、なんとなく「懐かしい」という感情が湧いてくるのが不思議だった。
「私は17世紀ヨーロッパの研究をしているから、その時代の書物に慣れっこになって、それより後の時代の本を見ても、割と新しい本じゃないかと思っちゃうんです。」案内してくれた教官はそう言っていた。実際そうなのかもしれない。貴重書庫には「貴重書」がずらっと並んでいる。ここにいる限り、貴重書はもはや「貴重」ではない。何かしら神々しいイメージを抱いて書庫に入った私もいつしか、中世や近世の人々と打ち解けておしゃべりしているような、やすらぎに似たものを感じていた。