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「流音」と呼ばれている音がある。この言葉を知らない読者諸氏は「流音」と聴いてどのような音を想像するだろうか。
しかし何のことはない。日本語で言うラ行の音、英語ならrやlの音を、音声学の分野でそう呼ぶのだ。
ところで調音言語学の述語というのは、硬口蓋ナンチャラ音だとかドコドコ摩擦音だとか、その発音の作り方を客観的に分析した名前が付いているものであるが、流音なんていうのは全く聞いた"感じ"に依拠した命名であって、客観的な説明は難しい。(口を閉鎖すること無く空気を流したまま発音できる子音であるから、日本語訳でこそ意味は通るが、言語はliquidsといって液体の意である。それに、空気が流れていることを定義に使っては他の色々な音も流音に入ってきてしまう。)実際、国際音声記号では「流音」なる述語は使われていないのだが、如何せんギリシア語やラテン語の時代からずっと使われてきた言葉だけに、慣習的によく使われるのだという。
結局何が言いたいのかというと、客観的な事実にそぐわなくとも、人間の"感じ"の部分をダイレクトに掴んでしまう言葉があるのだということ。譬えという言語活動にはそれだけの可能性があるということである。
5月の大型連休、俗に言うゴールデンウィークは部活の合宿に全て費やされてしまった。休暇によって、体を休めることができたというよりかは、むしろ普段よりもどっと疲れたような気もしている。(合宿は有意義な時間だったとは思うのだけれども。)
さて、合宿は琵琶湖の傍のユースホステルで行われた。私が泊まっていた建物は、すぐに琵琶湖の波打ち際まで出られる位置にあったので、休憩時間は、よくそこで友人たちと、
嗚呼、モーターボートに乗りたいなあ
嗚呼、このまま波に揺蕩いたいなあ
嗚呼、このまま波に流されてしまいたいなあ
嗚呼、このまま入水したいなあ
等々、つぶやき合いながら、吹いてくる風を受け、波の音を聴いていた。
波の音というのは不思議で、聴いているうちに自然と気持ちが落ち着いてくる。「1/fゆらぎ」が存在するからなのだろうけれど、私は、波の音が、まだ胎内にいたときの音に似ているからではないだろうか、と思った。
波の音を聴いていると、落ち着くと同時に、時間の流れというものが自分の中から消える気がした。それは、時間の概念というものをまだ持たずに、胎内で揺蕩っていた頃の感覚と似ていて、波の音を聴いていると、胎内にいた頃に還る気がする。私が思うに、胎内にいた頃というのは、絶対的安心感があって、だからこそ、その頃に還ることのできる感覚は落ち着くのではないだろうか。
琵琶湖の波打ち際から帰ってきて、もう2日ほど経つ。
今、もう一度あの波の音を聴きたい。
イラナイ魚
魚が死んでいる。
ある漁港にて私が思ったあること。
20センチ程の魚たちが、防波堤に死んでいた。
10匹弱、小さな円を作るように、
ひっそりとも言えないが存在感を示している訳でもなく、
死んでいた。
それは、波に打ち上げられたのではなく、
人間に捨てられていた。
なぜなら、この魚はイラナイ魚だからだ。
人間にとっても、地球環境にとっても、この世に
必要でないからだ。
白い砂にまみれて、コンクリートと同化していた。
地面から盛りあがった部分が魚なのだ。
魚だった部分が盛り上がっているのだ。
一瞬、遥か昔にあった戦争を描いた彫刻に思えた。
身を守るための保護色?なんて皮肉だ。
なぜ、釣り人はあの魚たちを見なかったのだろうか。
目には留めたが、魚だとは気づかなかったのか。
目には留めたが、魚だとは思いたくなかったのか。
私は陸の魚たちに背を向けて
水の魚たちの方を向く
そうして、釣り人の物まねをするのだ。
後ろに何かがある。いや、いる?
善だとか悪だとかどうでもいい。
夕日よ、彼らを火葬しておくれ。
暦の上では今日から夏が始まる。暦の上だけでなく、今年に限っては本当に夏が始まったようだ。五月に入ってから暑い日が続いている。近所のアパートの前を通り過ぎたとき、何かが軋む音を聞いて「蝉が鳴いている」と思い違えたのも、ごく自然な流れだった。軋みながら回っていたのはクーラーの室外機だったが、どちらにしてもあたりはずいぶんと夏の色が濃い。
五月病なんて言っている場合ではないかもしれない。思うに五月病というのは、五月が過ごしやすいぽかぽかした陽気だからそれにつられて気分が弛緩して起こるので、いきなり夏になったのではぼおっとしている暇もない。
しかし誰しも四月の疲れがたまっていることは確かだ。昭和の日だとかみどりの日だとかそんなことに興味はないけれど、日本のゴールデンウィークはうまいことできている。四月についた勢いを一旦緩めて、長期的な目でこれからのことを考えたいものだ。
四月はそれなりの充実感を持って過ごすことができたと思う。授業が始まり、多方面から知的刺激を受けた。友人や教官との新たな人間関係も始まった。しかし、それはやはり、四月が持つ不思議なパワーに乗ったからできたことであり、周囲に漂う熱が冷めてもこの心地よい状況が続くかどうか、それはわからない。気を張りすぎる必要はないけれど、のんびり構えすぎては置いていかれる気がする。
もう少しさわやかな気候ならもう少しさわやかなことを考えただろうが、この暑さでは仕方がない。
このときロープは地面から高さ0メートルのところにある。
さて、ここでこのロープの長さを1メートル伸ばす。一部分だけ偏って弛ませるのでなく、まんべんなく弛ませる。するとロープは少し地面から浮くことになる。これを遠くからみると、地球を、それより少し半径の大きな円がとりかこんでいるような状態にする。
ここで問題だが、このようにきちきちにまいたロープの長さを1メートル伸ばしたとき地面からロープまでの高さはどれほどになるだろうか。
こんなの簡単だ、式をたてればよいんだ。という人はもちろんいるしそれで求めればよい。しかし私は方程式を使うのもつまらない、もっと直観的というか面白い解き方はないか、と思って考えた。
もともと40000キロだったロープが40000.001キロになったということは、1メートルあたり40000000分の1メートル伸びたということだ。そんなわずかな分だけ伸びてもそう余裕はできない、小動物も、ミミズさえも通れないくらいしか地面との隙間はできない。
これはわかりやすい。1メートルにつき0.000025ミリメートルロープが長くなったってかわりゃしないと思って当然だ。これはよい。ロープはあいかわらず地面とほぼ密着したままだ。
そう思ったが大間違いだった。
我々の日々の生活においては、地面は平らといってよい。だからロープを地面から少々浮かしたって、そのために伸びるべきロープの長さはほぼ0なのである。つまり1メートルあたり0.000025ミリしか伸びなくても地面との間にはそれなりに隙間ができるのだ。
こんなことは次のように計算すればすっきりわかる。
2πR+1=2π(R+x)
2πx=1 ∴x=0.16メートル
つまり16センチの隙間が、たった1メートル伸ばしただけで得られるというわけだ。
なかなか驚きである。
ところで、この結論は直観的にはわからない。(多分)
上のような式をたてたおかげでわかることなのだ。
まさか実際にこんな地球にロープをまく問題に生活のなかでとりくまねばならない事態は起こりやしまいが、しかし感覚でどうしてもとらえられないものを目で見てよくわかる形で示してくれるのが方程式であるのだな、と上のようなものを見ると思わされる。少し方程式を見直す瞬間である。
(追)
上の問題の、他の面白い解き方があれば是非教えてください。
「帝国」や「マルチチュード」の著者の一人で,現代の政治的発言で論争の的となっている考えを発表し続けている,イタリア出身の哲学者アントニオ・ネグリ氏の来日が拒否されてから一ヶ月が経ちました。この出来事が案外早く忘れられているところに残念さを感じます。
現在の形のグローバル化の不条理な点や,「アメリカ帝国主義」では捉えきれない「帝国」の概念など,筆者が不勉強なためまともに例示することも難しいのですが,現在形の問題に対して非常に活発に発言し,それ故政治的な問題にも巻き込まれる氏。今回3月に来日予定があり,日本の主要大学がグループを組んで講演などの体制を取っていて,その方面の人々からはかなり注目を集めていたのですが,ネグリ氏の渡航に際し,それまで不要としていたビザを,ネグリ氏がその急進的な考えゆえ政治思想についてから逮捕歴があることを理由として渡航3日前に請求,かつその逮捕についての詳細な書類の提出を要求し,来日が叶わなかった,という出来事。覚えている方は小数になっているのではないでしょうか。
事実上,来日拒否と言っていいと思いますが,大学で学ぶ現在,事柄の重大さが良く分かるように思います。ある先生が「大学で指導要領を作ったら恐ろしいことになる」という指摘をしていました。研究機関ゆえ,内容が一律に出来ないというのはもう自明のことです。この発言はそれに加えて国とか,権力が大学の内容まで定めたら学問が成り立たない,というところまで含意していると考えます。
政府の対応は極めて姑息の印象がありました。インテリを気取るんなら言論でネグリ氏に反論してみろや,と吐きたくもなります。幸い,自分は多少こうして書いて思ったことをアピールできるので,孝太郎に迷惑をかけつつ,こんな風に今更ながら書いてみたわけです。