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 二十四節気というのもなかなか侮れないもので、ここんとこの1、2週間を「穀雨」とかいうらしく、ウィキペディアによれば「太陽黄経が30度のときで、田畑の準備が整い、それに合わせて春の雨の降るころ。」だとか。
 確かに最近、新学期が始まり、授業だとか色々の新しい活動も始まり、張り切っているところに断続的な雨。少し参っていたところである。しかし、これは私の悪い癖でもあるが、とにかく自分独りの力で何もかも動かしていこうとすると(特に人間を相手にする仕事などは)確実に上手くいかない。一生懸命耕したあとは、自然の力に任せて雨を待ち、これによって初めて田畑が完成するという、このバランス感覚は、農民でない私たちが生きる際にも参考になるのではなかろうか。私は「待てる」人間になりたい。
 また一方で「人事尽くして天命を待つ」という諺があるが、人事なるものもそう簡単に尽くせるものではないだろう。天命を待ってから人事を行っていくフレキシビリティも失いたくないものだ。

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という文章を先週載せようと思ったら、既に「4/25」と題された文章が載っていて、「おかしいな」と思いつつ、「じゃあ来週載せよう」ということで一週間置いておいたら全く季節感が変わってしまったのでありました。最近暑いですね。
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5/1
 なんだかマイナス思考になりやすいと感じたとき、大抵は寝不足気味だったりする。身体と心が密接に関係していることを意識する瞬間だ。
 これは、身体が疲れていて、思うように動かないと、精神的にも余裕がなくなったり、普段気にしないようなことに対しても気に病むようになったりすることからも感じることだ。
 規則正しい生活をするというのは、勿論、自身の身体の健康のためであるが、それと同時に自身の心のためでもあるのかもしれない、と思う。規則正しい生活をして、身体を良い状態に保って初めて、心にも余裕が出てくるからだ。逆に、不規則な生活を続け、身体に無理をさせることは、心に無理をさせることにも繋がるのだろう。

 さて。最近の私自身はというと、どうも不規則な生活が続いており、身体に無理をさせていることも多いように思う。
 自分の身体と心の限界を知った上で、無理し過ぎず、かといって易きに流れて楽をし過ぎることもなく、常にある程度の余裕がある状態で気持ちよく物事に取り組みたい。

先週はお休みさせてもらいまして、カレンダーにぽっかり穴を開けることとなり失礼致しました。

 

 先週のまさにその日から私は日常を暫し離れて過ごしていました。そこにいるのは家族や親類だけ、そうなると当然のことなのだけれど普段のコミュニティーからの断絶の中にいました。たった数日間ですが、超日常的な異空間に住まっているうちに自分の存在が不思議なものに感じられてきました。その感覚は自分が宙に浮いているような、もしくは自分が徐々に薄らいでいくようなものでした。

 

 今まで経てきたそれぞれの学校・地域・そのほか様々な共同体をベン図に表して、その重なり合った一番色の濃い部分に私が立っているイメージがふと思い浮かび、そしてそのときの想像の中の私は地面から少しずつ浮き上がっていました。浮き上がっていないと気にも留めなかったことかもしれません。誰かと誰かが意外な関係で知り合っていて、私とあなたの出会いが人生を変える程の影響力を持っていて、今まで経験した人との関わり合いの中でどんな些細なことでも欠けておれば今の自分は存在しなかったのかな。そんなことを思うと、私は急に自分の属するコミュニティーに戻りたい気持ちに襲われました。群れを成さなければ自分を確かめられないなんて人間(というより私)って寂しい生き物ですね。

 

人間との出会いを必然と捉えるか、偶然と捉えるかは個人の自由だとは思いますが、一人になりたい時も一人で生きてきたのではないということを忘れずにいたいです。

 

 今日はですます調でお送りしました。

ある本を読んでは飽き、途中で別の本を開いては閉じ、ということをどうも最近繰り返している気がした。数えてみると、どうやら私は四冊の本を並行して読んでいるらしい。大学の講義のテキストや、参考書として使用される単行本も数に入れれば、十冊以上をただいま読書中である。

 別にこんな数字は自慢にならないはずで、読者の中にはもっと多くの書籍を並行読みしている方も多いだろう。そのこと自体が良いか悪いかはここでは問題ではない。そんなに多くの本を同時に読み進めていながら、私たちの頭がたいして混乱しないのはなぜか、ということを考えてみたいのである。

 外山滋比古は『思考の整理学』の中で、小学校の時間割の例を挙げて、「頭の整理をするためには異質なものを接近させるとよい」ということを説明している。国語や数学、理科、図工、さらには体育という脈絡のない科目がランダムに配置されていることで、前の時間に習った科目のことを「忘れ」(=脳内に定着させ)、頭をリフレッシュすることができると言う。

 この原理が「並行読み」にもあてはまるのではないだろうか。経済学の教科書を読み、疲れて小説に浸り、そういえばと思いだして精神分析のおさらいをする。こんな風にバラバラの情報を頭に入れれば、脳はそれらを別個に処理し、蓄積してくれる。多忙が続いて小説に戻るのが久方ぶりになったとしても、続きから読み始めれば以前に読んだストーリーが鮮明に蘇り、その世界に入り込むのにそう時間はかからない。

 ただし、ラテン語の後にフランス語を勉強したり、『夢十夜』のあとに内田百閒を読んだりということはしないほうがよい。私にも経験があることだが、どちらに何が書いてあったかを混同することがあるからだ。無論、両者の共通点が強調されるというプラスの面もあるのだけれど。

したがって「より有効な並行読み」を提案するとすれば、外山の言葉そのままであるが、「異質な書物を接近させよ」ということになる。あとは、記録をつけながら読むなど「完全忘却防止策」を適宜施せば、読書生活はより有意義かつ快適なものになるはずだ。

ビッグバン理論というのがある。
それが起こったとき(確かに起こったものとして)、それをわれわれが遠く離れたところから眺めていたならば(そうすることが可能だとして)、多分、その「大爆発」に伴われそうなどんな音も我々が聞くことはないだろうから、なんとなく拍子ぬけするだろう。

無重力状態で、ビー玉大の金属球と、同じくらいの大きさの水滴をゆっくりぶつけると、水の性質からして、金属球にビシャっとまとわりついて、水に金属球が覆われた状態になる、というのは間違っていて、水は表面張力というやつで球形を保とうとするし、金属は水をはじくので、金属球とくっつきはするけど水の中に金属が入った状態になったりはしない。球がふたつ並んでくっついたようになる。

同じく無重力下で、たとえば宇宙ステーションの中で、水を浮かべるとする。分量は、直径で3、4mとしよう。どうにかして人がその中に入っているとして(大きい浴槽にたっぷり湯をはってそこに潜っているときに地球からの重力と浴槽が消えてしまったらできそうだ(無理だが))、その人は窒息する前にその水の玉の中から抜け出られるだろうか。

 ダンスの上手い百足の寓話。華麗に踊る百足がいました。その華麗さに妬んだある虫が、百足に問いました。「百足さん、あなたの踊りは美しい。そんな風に踊るにはどうしてるのですか?最初にどの足を動かして、次はどの足を回して、そのまた次はどの足とどの足を動かすのですか?」。百足は考えて、考えているうちに分からなくなり、とうとう踊れなくなりました、というものです。

自分で見たらいいものを、百足も律儀やな、というのは置いといて、普段意識しないことを急に考えると、案外混乱するのは日常のことほどあるように思います。

かつて通った道、電車の乗り口ひとつとっても、いつも何両目?と問われると分からなかったり、靴をどちらの足から履くか分からなかったり。

でもそれが日々を改めて意識することにつながるかもしれません。それが「価値のある」こととは限りませんが。谷川俊太郎が詩で述べる「日々の生活に風穴を空ける」感覚です。

通った道を久々に歩くと、建物の配置だけでも何か驚きに近い感覚に包まれてました。

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