孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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新しい環境に慣れ始めた最近、ようやく名前と顔が一致するようになってきて急に自分の世界が広がったような気持ちになる。名前や顔を覚えるのはあまり得意な方ではないが、個性的な人というのは印象的ですぐに覚えてしまうものだ。
「個性的」という言葉には日本人よりは欧米人に特有のものである、という考えは一般的なものだろう。季節の変化に富み、稲作文化を形成してきたために所謂「和を以って尊しと成す」精神が、日本人の行動を支配的に規定しているのだとよく言われる。文化を吸収することに長けた日本は模倣性に優れていて、また集団的であることから「没個性的」であると言われている。
あらゆるものがアメリカナイズドされた今、他の誰とも違う独創的な自分の意見を直接的に他者へ伝えることをよしとする風潮はますます大きくなっている気がする。大学の授業も然りで、講義型とゼミナール型の授業の扱いからもそれは分かる。言語能力の活用だとか、機転だとか、論理性だとかは西洋的な方法で鍛えることができるだろう。
しかし、これは理性面でのお話だ。私たちが住むこの日本は、革命や戦争でホイと出来上がった国ではないし、昔から豊かな風土と共に歴史を重ねてきた土地だ。実際にわれわれの本質が上記のようなものであるなら、もちろん、われわれの感情にもっとも訴えかけるものはわれわれ流の自己表現によってであると私は考える。ダイレクトな表現や自分の意見を通そうとする人間の姿に、われわれ日本人は情緒を感じることができるかといえばそれは疑わしい。その方法は、その人間や国が作られてきた環境によるものだ。
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