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3/7

 バスに乗り込むとまず整理券を取る。そこには「3」だの「8」だのといった数字が書かれていて、降りる際にバス内前方の電光掲示板(?)に書いてある番号と自分が持っている整理券の番号とを照合すると自分の払うべき運賃が分かるというシステムである。これはつまり、長い区間を移動するというのはより大変な労苦であるから、その代わりに走ってやってるサービスの代償はそれだけ高くつくんだぜ、という論理で、乗車距離と運賃に或る程度の比例性を持たせてあるわけだ。
 その比例の論理には何の異論もないのだが、私の危惧するところでは、この整理券システムでは恐らくズルができてしまう。つまり、運転手も余程車内が空いているときを除けば、それぞれの乗客がどの停留所で乗ってきたかを覚えられないので、実際自分が乗ってきた区間のそれよりも安い運賃を払って降りていっても運転手は気付かないだろう。恐らく。

 ところが運転手の記憶力が良かった場合。
「ちょっとちょっと、お客さん何処から乗られました?」
「え?あ……あっ、す、すいません」
「だめですよ、ちゃんと乗った分払ってもらわないと。どうしてこんなことするんです。」
「だって私以外の人が全員ズルをしていて、私だけが馬鹿正直に正規の運賃を払っているとしたら、何とも阿呆らしいお話ではありませんか。私は私の正義を確かめるために、敢えて一度だけズルをしてみることで、運転手さんが気付くかどうか試したのです。」

 このダイアログは勿論私の妄想であるが、ズルができるかもしれないというのは、誰の脳裏にも少しはよぎる想念だろう。この場合、私をズルへ向かわせたのは、私の猜疑心。そして私の猜疑心とは規則を疑う心である。古代中国、荀子の思想では、人間は生まれながらにして悪であるから法でもってこれを規制すべきである、ということになっていた。ところが、法なるものは破ることを我々に誘惑するような性質をどこかに持っている気がするのである。

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3/6
 先日、交響楽団の追いコンなるもの(恐らく、追い出し「コン」サートと追い出し「コン」パをかけているのだと思われる。) があった。
追いコンは、ホールで皆が思い思いの発表を行った後、食事会という流れで、その食事会では、卒団する四回生一人ひとりが部員に向けてメッセージを残すという時間が設けられていた。
 どの先輩も、四年間、活動してきたからこそ見えること、言えることについて話をしてくれ、言葉の一つ一つが胸に響き、その言葉から、これから三年間、自分が部活でどのように活動していきたいのか、どう活動していくべきか――様々なことを考えさせられた。
 そんな数々の言葉の中でも、特に心に残ったものがあった。
 『人に厳しくするのときつく(対応)するのは違う』
 当たり前といえば、当たり前のことである。けれど、その当たり前のことを言葉にできるのは、その人が実感を伴った経験をしてきたからで、そういう人が発する言葉だからこそ、はっと何かに気づかされた気がした。
 厳しいことと、きついこと。両者の間にある違いとはなんであろうか。私は、そこに、接する相手に対する思いやりの気持ちがあるかどうかではないかと思った。
 音楽に対する姿勢も考え方もそれぞれ異なる人間が集まって、一つの音楽をつくるというのは、とても困難なことだ。ときにはお互い「厳しく」接しあわなければならないこともあると思う。そこで、その厳しさの根底に、相手への思いやりの気持ちがあるかどうかが重要で、もしその気持ちあれば、厳しさは相手へ真っ直ぐ届き、より良い音楽をつくっていくことに繋がるだろう。だが、逆にその気持ちがなければ、厳しさは厳しさとして相手に受け取られず、お互い良い音楽をつくろうと思っていたとしても、決して良い方へは向かわないのではないだろうか。

 「厳しさ」と、「きつさ」の間には、確かに違いがある。けれど、「厳しさ」は自分次第で容易く「きつさ」に姿に変えてしまうだろうとも思う。人に厳しく、というのはきっと自分が思うよりもずっと難しいのかもしれない。
相手に対して、本当の意味で「厳しく」することのできる人でありたい、と思った。
3/3
みなさん一週間ぶりです!最近私、朝ご飯を食べておりません。昼前に起きてブランチなんてちょっと横文字を使って気取ってみたり。まぁ不規則なだらだら生活を送ってしまっているというわけです。
朝ご飯を食べずに学校に来る子のために学校で朝食を出すということがあるそうです。そんな時代に朝ご飯タイムを睡眠時間にしてしまっている私。・・・反省。
しかしながら、学校は家庭とは違った社会を学び、社会化を促進する場でもあります。そのような場で、家庭の役割である朝ご飯まで提供してよいのでしょうか?社会に適応していく力をつけるため、子どもたちは親のいない学校という場で成長していきます。学校が親の役割を担う必要は無いと思うのです。朝食をとるという習慣を、朝読書のように安易に行わないほうがよい気がします。もしかしたら子どもたちの社会化に悪い影響が出るかもしれません。
目の前でこけた子にすぐ手を差し伸べることは簡単です。しかし、すぐ手を差し伸べることでその子は起き上がる方法を学ぶことが出来なくなってしまったかもしれません。もっと先を見据えた取り組みが必要だと感じます。
そんなことを感じつつも、早起きして朝ご飯食べないとなぁと生活リズムの改善を行おうと思います!しかし、春眠は暁を覚えず。来週をお楽しみに。
3/2

はやいもので、もう3月になった。
きっとこの3月もあっという間に「去って」いってしまうに違いない。
といっても実際は1月から2月のはじめまではいろいろなことがあって、たぶんそのせいでずいぶん時間が経ったようにも感じている。でもちょうど一年前の日のことを思い出すと、あの日からもう一年も経ったのか、あっという間だったな、と思う。不思議。

ちなみに、3月になったってことを意識したのは今日外にでた時のことだった。ドアをあけて、なんか違ったにおいがするなと思ったので、なんだろうと考えて、そうか今日から3月か、と。

さて、話は変わるが、がらっと変わるが、
「私はAが嫌い」
とBさんが主張したとする。
Aに入るのは、セロリとか、赤いズボンとか、そういうのではなくて、ある考え方とか、あるコミュニティに存在している制度とか仕組みとか偏見やなんかであるとする。「~な人」とかでもいいと思う(うまく例があげられてない…)。Bに入るのは…特に限定しない。
で、このとき、BさんはAのことを嫌いだと言っているわけだけれども、
これが意味するところを考えてみると、BさんはAにまったく無関係な状況にない、
たとえば「Aが重んじられる社会C」に対して、Bさんが「そんなの嫌いだ!」というとき、BさんはCの一員である、それかCは強い関わりをもっているんじゃないか、という感じ。
嫌いと言っていながら、自分はそれにかかわっていて、自分の中でうまく対処ができていない、そういう「嫌い」があると思う。
で、そういう嫌い!はその現状から脱却したい(あるいはそれをどうにか変えたい)思いのあらわれな訳である。
で、それで“いまはまだ脱却できていない”のである。
当然、「いまそれと関わらざるを得ないことを頭のどこかでわかっている」。

BさんがAは嫌いだ、というとき、(そうやってけなすことで、)私はAとは無関係だ、私はAなんかじゃないんだ、ということがそれに含まれているように思われるし、それはなんとなく傍にいて良くきこえない。嫌いといって切り捨てることで何か失ってしまうのではないか、なんて思いもあいまって、私には、「嫌い」ということを嫌っていたところがある。というより、好きなもの、ことならたくさんあるけど、嫌いなものってあまり思いつかないな、というおめでたいやつであった。春っぽい。(春に失礼?)

むりやりとしか言いようのない(春への)着陸の仕方をしてしまったが、
この春的態度(?)は、一見楽しそうではあるが、裏を返せば、Bさんの嫌いは、改革志向的とでも言うもので、自分はこのようなエネルギーをどこかへやってしまって、浮かれているということかもしれないな、と思う。
5月病とは案外、このエネルギー不足によって起こっているのかもしれないぞ。

3/1

 一生に一度,自分の集大成として本を出版したいと願う人が案外多いようです。それが小説であったり評論であったり,文字通り自叙伝であったりとその中身はさまざまですが,とにかく本を書くということが何か記念碑的に捉えられています。

 

 成程,そう考えると自分も薄っぺらいものでも書いてみたくなります。若干。タイトルは「人間失格」とでもしましょうか。うそです。何か自分が生きた証を残したいと願う人は多いですが,だからといってみんなが銅像を立てたりできるわけではない,そんな中で名前が残り,自分が反映されたものとして手っ取り早くお手軽なのが本,と言うわけでしょう。

 

 結構面白いと思いますが,いつ書いたら満足なものができるのでしょうね。人生の集大成としたいなら遺言と並行するべきでしょうか。小説にしても,評論にしても,自分の思想が一冊に固められてしまうのを見るのは案外怖いことと感じます。一部の本にあるような独りよがりの言いっぱなしになってしまわない本を,最初で最後の機会に。うん,難しい。

 

 退職したあたりで始めてみるのも面白いかもしれないですね。かなりの確率で仕事で学んだことや処世術,後身への説教になりますが。いや,退職寸前のほうが職場で話題になるでしょうか,それとも二,三十代で書いて後々見返していくか,思い切って大学生くらいのうちにこっそり書き溜めておこうか…

 

 考えていくうちにいつ本を書いてもそれなりに面白い,という簡単な結論に至りました。何にせよ内容が無ければ古紙同然になるゆえ,それが書けたら逆にいつでも面白いわけです。ものを書くことは人生の集大成にするにはちょっと勿体無いかもしれないですね。いつでも面白いのに。

 

 今日は2月29日です。閏年ですね。
 ところで手元の漢字源で「閏」という字を調べてみますと、「解字:介意。『門+王』で、暦からはみ出た日には、王が門の中にとじこもって政務をとらないことをあらわす。定数からはみ出る。不正規なものの意を含む。」とありまして、はあはあなるほど。私がアルバイトをしている仕事先では、1ヶ月を4週間と割り切っていて(?)、5週目になった日には、通常の業務と違う、やり残した仕事をやるという感じなのですが、閏ってそういう感覚に近いんだなと思いました。元もと無かったもの。余計なもの。という。
 暦の重要な機能というのがここにあらわれていて、時間というものはある意味一直線に流れてゆくものとして捉えられるものなのに、人間はその中に周期性を見出して、一ヶ月や一週間を単位として認識してしまっているので、閏の2月29日は(時間としての性質は他の日と同じであるにもかかわらず)余計なものとなってしまうわけです。
  私は余計なものが好きなので、普段通りの仕事はできるだけ昨日までに終えて、何の予定もない余計な一日を送りたかったのですが、いつものようにアルバイトが入ってしまいました。あなたはこの"4年に一度の日"をどのように過ごすのでしょうか。
 先週、一泊二日の鳥取旅行に行ってきた。片道約四時間、高速バスの中で揺られるうちに、前日の旅行準備等の疲れから、私は転寝をしてしまっていた。ふと目を覚ますと、窓から見えたのは、山村と一面の雪景色。鳥取というと鳥取砂丘のイメージがあるからか、なかなか鳥取と積雪を結びつけることができず、眼前の雪景色が鳥取でのものだとは信じられなかった。(冷静になって考えてみれば、鳥取は山陰地方、日本海側に位置しているのだから、積雪は当たり前なのだけれど。)
 バスは、その後も雪景色の山村の中を走り続け、数十センチはあろうかと思われる積雪を見るのが初めてだった私は、その間ずっと外の景色を見ていたのだが、途中で、山村の中には意外と雪だるまやかまくらなど、雪遊びをした形跡がないことに気づいた。不思議だった。地元であれば、雪が降ろうものなら、子供たちが大喜びして、雪が白く一面に広がっているところを見つけては、我先にと自分の足跡をつけに走り回るだろうし、斜面ではそり遊び、雪が沢山ありそうなら雪だるまもつくるだろうに。
 私などにとって、積雪はめったにない珍しいもので、どこかわくわくするものだ。けれど、毎日のように雪が降り、しかも数十センチもの積雪になってくると、雪に対するイメージも変わってくるのだろうか。当たり前のことになると逆にそこまで興味がなくなるのだろうか。それとも、もしかしたら、その山村にはあまり子供がいなかったのか。様々な考えが頭に浮かんでは消えていった。
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