孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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今日、哲学入門という講座がありました。まあ正直、半分寝つつ話を聞いていたようないなかったような、そんな状態だったのですが。
そこで、『…(略)…だから私は外界のことを何も知らないと言える』みたいな認識論ってのが紹介されていました。まあ要するに自分が今夢を見ているのではないと証明し得ないなら、外界は全部夢かも知れないんじゃんか、みたいな話だと思うんですが。
…知らない、って、だったらどうなんですかね。
とりあえず私は、それだけ思いました。
私は実際、科学だって人間によるゲームみたいなもので、ゲームの下における秩序や何やはそのレベルにおいてのみ真実だとは思っても、本当の本当の真実は分からない、客観視は出来ないと思っているから、"知らない"のを認めちゃっていることになる。
けど、別に、だから何だって言うんだ、受け入れれば良いだけじゃんか、というのがそれに伴う感想。知らなくて良いんじゃん?少なくともその内我々土に還ることは確実じゃん?知ったところでどうなるの?
…そう思うわけです。
本当の客観視はやっぱどう考えても無理だと思うし…反論って苦しくない?
そこを最後まで疑いたいのは、知らないかも知れない事実が許せないからじゃないのかな?
とか思うよ。
…なあんて言ったら、理系の人に怒られるかしら。えへへ。笑
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