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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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実は明日から温泉旅行なのです!だからなんやねんという感じですが・・・。

「温泉」って「温かい泉」ですよね?
少し前ですが、温泉を掘っていて大爆発!というニュースが世間を騒がせたのを思い出します。
自然と湧き出たものを利用して疲れをとる温泉も、欲を出してあっちらほっちら掘り始めると、その湯にキバを向けられてしまいます。
もともと水はつかみどころのないものなので、この手にしようなんて考えがそもそも間違っているような気がしますが。
だからテレビ番組で秘湯を求めて雪山を登っている芸人さんとかを見ると安心します。温泉ってそうゆうもののような気がします。

ちなみに私は湯けむり殺人事件も好きです。
温泉は全国各地にあるから、2時間ドラマのロケーション的に好都合なのでしょうか?

みな
さんは最近「温泉」なんぞに浸かったりしましたか?
自然からちょっと拝借して、浸からせていただいてます。なんて謙虚に考えたら、地球の温かみを感じることもできますよ。
でわしばらく京都を離れます。みなさんお元気で・・・。

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 農村は保守的、という話をよく聞きます。保守の支持基盤と。過疎と言える町を通った際、確かにそれを物語る看板が立っていました。道路工事を応援しよう、と。

 「日本の美しいふるさとを守る」という言説もまた、よく語られます。先代からの姿を受け継ぐ、と。これも、農村がよく例で語られます。日本には四季の美しさがある、と。

 そんな田舎、過疎の進んだところ、車も住民も見かけない場所に、「非武装、核放棄宣言の町」の表示を見付けました。何か嬉しくなりました。素朴な平和の願いとはこういう所に見られるかもしれないな、と考えました。建前とはどこか景色の違う思いになりうるかもしれないな、と。

 私はその夜、うつ伏せで寝ていました。顔に何か物質が当たっていると不思議と安心するので、私はよくうつ伏せで寝ます。
 そして私はその夜、頭痛がしていました。ジンジン。ギリギリ。ガンガン。色々な周波数の痛みが襲って、ホワイトノイズ的な耳鳴りを奏でていました。そしてそのうち、私は頭痛とは違う波動を感じ始めました。
 それは地震でした。揺れは大きくないものの長く続く地震でした。余りに長く続くので私はそれが地震であることに疑いを持ち始めたのですが、感性を研がしてみると、揺れを感じているのは頭痛の頭だけで、それ以外の身体の方は揺れを感じていません。頭だけが「ゴゴゴゴゴ…」とジョジョ的に唸っています。
 揺れが頂点に達したところで、後頭部から「ブチュッ」という音がしました。それと同時に頭の中に冷たいものがじんわりと染み渡ってゆきます。脳が融けているのだと分かりました。死ぬと思いました。しかしながら死への恐怖と同時に起こったのは、お漏らしの非現実的な快感でした。液化した脳髄が融け残った部分に浸入してゆくのは快いものがありました。恐怖と快感は同時に起こったと言うよりもそもそも同一の感覚であったようにも感じます。
 脳が半分ほど液体になったところで目が覚めました。お漏らしはしていませんでしたが、寝坊をしていました。
 毎日忙しく、第一線で働いている人たちの、スケジュール管理の方法なるものが、あるテレビ番組で取り上げられていた。予定の種類毎にペンで色分けしてスケジュール帳に書き込むだとか、終わった予定内容にはチェックをつけるだとか、様々な方法が紹介されていたが、私が注目したのは、年間スケジュール表を用いる、というものだった。
 年間スケジュールをつけると、例えば、とても忙しい時期であっても、もっと先の目標を実現するために、今のうちにやっておこう、などといった長いスパンでの予定がたてられるそうだ。
 私は、高校生の辺りから、スケジュール帳を愛用しているが、年間スケジュールのページは、いつも白紙であった。月毎、日毎の予定が書き込めればそれで良いし、数ヶ月先の予定は、数ヶ月先のページに書いておいて、頭で覚えていれば、年間スケジュールのページは使わなくても大丈夫だと思っていた。しかし、たとえ頭で覚えていたとしても、実際にスケジュールとして目に入ってくるのと入ってこないのとでは、違うのであろう。来月の予定までには余裕があるだろうと思って、今月分のページだけを見て、予定をたてた結果、来月分のページをふっと見た瞬間に、意外とその予定までの日数も残っていなくて、焦ったりすることが結構ある。また、忙しくなってくると、うっかり来月分の予定のことが頭から抜けてしまっていたりして、ただでさえ忙しいのに、さらに忙しさに追われたりすることもある。足りないのは長期スパンでの計画なのかもしれない。
 予定をそんなにしっかりたてなくとも、なんとかなることもあるし、予定をしっかりたてたところで、自分がしっかりしなければ、計画倒れになって意味はないだろう。結局は自分次第なのだけれど、目の前の予定だけに追われることのないように、今まで真っ白だった年間スケジュール表を埋めてみようかな、と思った。

合格発表へ向かうバスの中。お昼時のバスは利用者の大半がお年寄りである。優先座席に座っていた慎ましやかな老婦人の隣に、同じ年恰好と思しき小太りの男性が腰を下ろした。初対面であるにもかかわらず、陽気な口調で老婦人に話しかける。

 

「おたくお若いですなあ。おいくつですのん?」

「若いてそんな、わたしもう七十六ですよ。」

「そんな見えへんわ。それにしてもええお天気で。」

「ほんまに。午後から雨なる言うてましたけど、お日さん出てきてよかった。ところでそういうあなたはおいくつで…?」

「わし?わしはもう、そんなん、七十…二ですわ。」

「七十二?なんや、わたしのこと若い言わはるから年上かと思った。」

「まあまあ…せやけど七十代てまだまだ若いんでっせ。わしかて腰痛めとるけどそれ以外は元気や。八十になる姉がおるんですけど、まだこんなして踊りやってますわ。」

「それはよろしねえ。」

 

 ふたりの会話は、男性がバスを降りようと立ち上がるまで絶え間なく続いた。見ず知らずのふたりの間に生まれたぬくもりは、短い時間ではあったが私の緊張と不安をやわらげてくれた。

 三十分後、私は大学構内の掲示板を見て自らの合格を知り、普段より胸にしてきた決意を新たにした。「ことばについてどこまでも追究しよう」という決意、そして「ことばで伝えよう」という決意である。『孝太郎』をよりどころとしてことばを磨きたい。そんなことも思った。

なぜ私がことばについて考えるかといえば、それは私が人について考えるからである。ことばでわかりあい、ことばを超えてわかりあう。それが人と人とのあり方だと思うからである。

先刻聞いた老男女のあたたかな会話が耳によみがえる。結局そういうことなのかもしれない。そういうことだといいなと思う。

今日は公立高校の合格発表日です!かなりドキドキです・・・。デイリー孝太郎でも受験や卒業、入学などの話題がちらほら語られていますね。それに合わせたCMも増えているような気がします。

最近気に入っている携帯のCMで、新高校一年生が新しい学校での制服の採寸中に、前に並んでいた女の子と目が合うというものがあります。その後、初めて買ってもらったのであろう携帯にメールが来るのですが、新しい場所、知らない人たちの中での出会いというものが会話もなく進んでいきます。

なんだか桜のつぼみを見つけ出したような発見と期待、そしてまだ桜の花として立派になる前のつぼみの状態で見つかってしまったような恥じらいを感じるのです。

なんだか桜に例えていろいろ言いましたが、要するにワクワクするんです!新たな一歩を踏み出す軽やかさと爽やかさ。

春はコート一枚分、体が軽くなりますので、みなさんも春雨の水たまりを飛び越えていきましょう。

今週は月曜から4日間地元を離れていて、昨日帰って来て寝て、今日(これが掲載されるのは今の私にすれば明日だ)特売になっているノートを買いに行ってそのついでに大学近辺を自転車で回った。4日間とはいえ自分の感覚ではずいぶん久しぶりにわが町を見た感じで、なんだかこの前とは違った風景に見える。幻想的な感じもした。ちなみに大学付近は、合格発表後5日、というタイミングもあってかなにか知らないが、若者とその親っぽい3人組とか、おばさんの集団とかで割とにぎわっていた。で、なにげなく空を見ると、大きな風船みたいなやつがワイヤーらしきものにつながれて高く浮かんでいて、これは何かの観測か実験かだな、よし、見に行ってやろうとワイヤーの元を目指して走り出した。すると、まぁ見つけたときからわかってはいたけれど理学部・農学部のある方へ私は向うことになった。そしてしばらく走っていくと、どうやら農学部の建物の屋上からそれが飛ばされているらしいとわかった。たいてい屋上というのは立ち入り禁止で、自分の属している学部ならまだしも知らない建物に入っていくには臆病だった私は、―いま思えば知らない建物こそ行ってみるべきだったようにも思う―あったかいし、とりあえず学部の掲示板を見に行こう、とよくわからない理由をつけてそこを離れた。そういえば、外にいて違う雰囲気を感じたのは、単に暖かくなったからなのかもしれない。で、掲示板を見に行くと、まだ合格者番号一覧があって、しっかり見てしまった。番号が連続しているのは長くても6つくらいで、これだけ続いているのもめずらしく、つまり、なぜかうまく分散していることがわかった。確率論的に考えれば当然じゃん、なんて言われるかもしれないが、実際そうなっているのをみるとおもしろい。よくみると、去年の自分の番号が今年もそこにあって、そのおかげで、ここにならんでいる番号、紙に印字された4桁の数字ひとつひとつに、いろいろドラマがあることが想われて、―当然、ここにない“とばされた”数字たちにもそうである―時の移ろいやら、この社会、世界の中の一員としての自分という存在についてやら、頭の中をさまざまなものが行きかった。で、そんなことを考えているうちに、空に“とばされた”風船のことは、忘れてしまっていた。

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