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先日、大学の講義中に、ある日本映画の海外版を見る機会があった。それは、海外向けに台詞は全て吹き代えられているもので、場面によっては日本版にはない台詞を付け足されていたりもした。
 最初は、深く考えずに見ていたが、日本版では沈黙の中、登場人物の動作だけで、その登場人物の気持ちが表現されていた筈の場面にも、海外版では台詞が付け足されているのに気づくと、なんとなく抵抗感を感じた。確かにその台詞は、その場面の登場人物の感情を間違ったように表現しているわけではなかったのだが、そこは、あえて台詞で表現せずに、沈黙の中に漂う、曖昧な、けれど確かに伝わるだろう雰囲気で表現されているからこそ、良いのではないかと思ったのだ。
 台詞の付け足しには、おそらく文化の違いなども関係しているのだとは思う。もしかしたら、日本人が受け取る感情に近いものを海外の人が受け取るには、付け足した台詞は必要だったのかもしれない。けれど、そこには、翻訳者や、編集者の意図が入っているのは確かで、海外版のその映画は、日本版の映画とは、ある意味、もはや違う作品かもしれないとも思う。
 このように考えると、私たちが日々触れている海外の映画も、日本人の意図が入った、もともとの作品とは違う作品ということだろうか。外国人とのしっかりとした相互理解のためには、相手国の文化や言語を知る必要があるというのは、よく聞く話だが、海外の映画等の作品も、本来の作品そのものの雰囲気を楽しんだり、感じ取ったりしたいのなら、その作品の製作者の国の言語や文化を知った上で、翻訳者や編集者の意図が入らない原作版に触れたほうがいいのかもしれない。
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