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孝太郎編集員と、ゲストの方とで、かわるがわる記事を書いてゆきます。孝太郎本体に関するお知らせ(ex.第○号を出しました!)をここですることもあります。
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今日、久々に泣いた。
 次から次へと溢れ出ては、重力に従って流れ落ちて、自分では止めることもできなかった。
 でも、不思議と心の中はとても静かで、溢れ出そうとするものを、せき止めようともせずに、ただただ流し続けるその行為は、何処か心地良くもあった。
 まるで、今まで自分の中で張りつめていた、凝り固まっていた気持ちが融けて、涙と一緒に外へ外へと流れていくような、そんな感覚。

 涙を流すと落ち着くことができるのは、これが理由かもしれない、と思った。

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孝太郎の原稿遅れてるのに、風邪の諸症状に若干侵され気味の作者ですこんにちは。
  頭が回りません。

  うわあ書くことすら思かないや。
  今私がこうしている間にも、同じ時間はまわるまわるまわる………
  "時がまわる"って、何で言うんでしょうね。"時が流れる"ってのも言いますよね。え?時がまわるなんて言わないって?そんな人も、い
るいる。まあ要するに適当なんじゃないのかな。やっぱり時なんてものの動き方がどんな風かだなんて分からないわけだから。適当。
  但し、"時が進む"。前・後って感覚はあるらしい。未来・過去みたいな。
  果たして私たちは先に向かう存在なのかしら、なあんて思っちゃうけどね。
  でもそうであって欲しいな。見えない未来では、風邪を一瞬で完治させた自分が居て欲しいし、そう期待できるじゃない。

 

桜が散った。大小の枝からは、初々しい薄緑の若葉が萌え出でている。だんだんと日も長くなり、早くも初夏の訪れかと気ばかりが急く。

しかしよくよく見てみると、どの桜木もまだうっすらと赤味がかった面持ちを呈していることに気づかされる。赤味の正体は、桜の蕊(しべ)である。

「桜が散る」と言うとき、我々はふつう桜の花びら(花弁)が散ることを思い浮かべている。が、それは実は第一段階にすぎない。花びらが散り終わった後も、桜の枝先には蕊(おそらく“おしべ”)が残っているのだ。花びらと同様、蕊もやはり桜色をしている。だから桜吹雪がひと段落しても、蕊がまだ残っている桜木は全体として赤味を帯びて見えるのである。

春も終りに差し掛かったころ、ついにこの蕊も地に落ちる。これを昔の人は「桜蕊降る」と表現した。そんなことを高校の古文の授業で習った。

 

過ぎたりし我が世の春の思ひでを忘れむとてか桜蕊ふる

 

その話を聞いて詠んだ私の歌である。

桜は実にはかなく散る。我々は散りゆく桜花を見て、ある種の嘆息感を味わう。その嘆息感は、蕊の残った木を見るたびごとに繰り返し再現されるのである。木に残された蕊は、少し前まではそこに桜が咲いていたという証拠であり、それはそのまま、はかなく散った桜花の名残でもあるからである。

しかし蕊が落ちてしまえば、桜木には青々と葉が茂り、何事もなかったかのように季節は過ぎてゆく。桜が咲いて、そして散っていったことを思い出す人など、もはやいなくなる。そういう意味では、「桜蕊降る」という現象は「無常を超えた無常」と捉えられるかもしれない。「桜が散る…嗚呼なんとはかない…」という感慨さえもはかなく散ってしまう。そんな、一段高い所にある無常観を桜の蕊は教えてくれている気がする。

物理はつまらない。わからない。楽しくない。
そういう人に今まで多く出会ってきた。
だいたい、私もそうであった。(今もまだ全然わからないし、あまり楽しくないかもしれない)
高校時代少し点がよくていい気になって、物理が好きなように自分でも錯覚していたが、ホントのところわからないのである。
物理は無味乾燥とした感じがする、というのは中学生のときに思ったこと。自分の生活からは浮いている感じがするし、数学みたいにパズルっぽく楽しめることもない、ということだっただろうか。
しかしそんな難しいし楽しくもない物理をなぜやらなければならないか。少なくとも高校生まではまるで物理に触れない人はいないはずである。
やはりそれはいわゆる「物理的なものの見方」を知っておくべきであるからだろうか。
それならなんとなくわかる気がする。実際自分も、わからないなりにも、ものを見るときに物理で学んだことを使っているときがあるのに気づく。あと、わからないなりにも、なるほどな、と思うことはある。
それがどうしたのか、というかもしれない。遠心力は観測者が加速度運動をしているから云々とか、それがどうした、コーヒーカップに乗って、遠心力を感じました、でいいじゃないか。ドアを開けるとき蝶つがいに近いほうを押したほうが力がいるとか、それは力のモーメントがどうのこうのとか、救急車のサイレンの音の高さが変わるのはなんでかとか、いろいろ教科書には載ってるけど、それがどうだというのかと。
あえて、あえて言うが、こういう態度も捨てたものではないと思う。冷めた目線を持っておくべきという意味で。こういう考え方があります、こう考えるんです、という方法は知らされるべきだと私は思う。つまらなくて難しくても、やっておくべきだ。ただ、知っておくべきとまでしか言えない。「それで?」とか「ホンマか?」みたいな部分はむしろ残しておいてほしい。

 最近読んだ本。安野光雅,俵万智両氏の著書,「そこまでの空」。安野氏が絵を描き,俵氏がうたを添えた,ちょっと不思議で,深い本でした。絵とうたは決して直接関係しているものではないのですが,それぞれに独特で,それでいて何か繋がっているようで,読む人ごとに意味づけ出来るとも言える,なんとも捉えがたい芸術でした。その中のうた,一つ。

 

絵葉書はそこまでの空「明日からはここにいない」という語残して

 

表題にもなっているうたですが,何とも新鮮でした。世界中の風景から一枚切り取れる絵葉書のしめす空間の広さと,明日既にいない,という一瞬の時間の差,それから絵葉書を送った人に広がる空間の広さと,受け取った人が送り手の言葉を聞いているしかない空間の狭さの対比,そして「そこまでの」という表現。普段あまり短歌に親しまない筆者ですが,これには読むのを止めて思いにふけってしまいました。

 

恋のうた,でしょうね。きっと。なおかつ秘めた思い。でもお互いうすうす気づいてる,そんな感じではないでしょうか。想像でもわがままですね。絵葉書というのが,二人の距離を曖昧にしていて(もしかしたら,近いのに絵葉書なのかも),そして明日いない,とだけまた曖昧に書いて。近づけそうで近づけないこの微妙な感じ…と書くと俗に聞こえる感情をとても黙して伝えているように感じました。

 

少ない字数で表現を尽くす短歌と,文字を用いずに表現を尽くす絵の共存,同時にその隙間,何か単なる歌集でも画集でもない,恋のうたでも絵との隙間から単純にそう思わせてくれない,不思議な本でした。

 

筆者の幼稚な感想文などが参考になるのかどうかあぶないところですが,今日はこの本の紹介ということにします。

 

「そこまでの空  -俵万智の贈りもの」 安野光雅,俵万智 河出書房新社,1998

 ホールは楽器である、などとよく言われるが、もっとラディカルに言えば音楽を聴く人間の鼓膜だって楽器だと思う。それはつまり「振動している」ということ、「音楽を感じている」ということにおいてである。楽器は音を"出す"、と言う。人は音を"聴く"と言う。確かに両者の振動に音速による時間差はあるものの、一度耳まで届いてしまえば、それは共振現象である(物理的に正しい意味かはわからないけどなんとなく察してください)。一方向の矢印が空気を貫いているわけでは決してなく、楽器と人間の鼓膜(もっと言えば心)は同時に共通の美的法則を感じあうのである。
 因果論は哲学の一大テーマであるが、原因と結果というやつは楽器と聴き手に似たところがないだろうか。たとえばスポーツでも何でもよいが、練習したから上達する、もっと上達したいから練習する。そこに因果の別は無く、ただ時間的な前後関係があるばかりである。われわれが何かに打ち込んでいるとき、しばしばその目的を忘れてしまうのは、未来の自分との共振そのものに深く満足を覚えているからではなかろうか。目的などどうでもよいのである。大切なのは今であり、また未来であり、それらを貫く心の震えである。
 日曜日のクラシックバレエの発表会。本番直前の緊張の中、舞台袖で、最終確認のためにと、踊りの振り付けを必死に思い出そうとしている子がいた。その子は突然、切羽詰ったように、「考えてたら、振り付けわからなくなってきた!」と、叫んだ。すると、たまたまその子の傍にいた、一緒に出演する先生がこう言った。
「あれだけ練習してきたんだから、曲がかかれば、身体が勝手に動く。考えすぎなくていい。」

 人の記憶には、「知識や思い出の記憶」と「技の記憶」の二種類があるという。知識や思い出の記憶というのは文字通り、何か学習したことや体験したことの記憶で、技の記憶は、スポーツや踊りなど、何度も繰り返し練習することで得られる記憶のことだ。これら二つの記憶は、作られる際に用いる脳の部位が異なり、その部位とは、前者が海馬、後者が大脳基底核と小脳である。

 記憶というと、海馬のイメージが強かったので、「知識や思い出の記憶」と「技の記憶」とで使用される脳の部位が異なるというのには、驚いた。しかし、同時に成程とも思った。特に頭で深く考えなくとも、身体が勝手に動くのは、「知識や思い出の記憶」ではなく、「技の記憶」を使用しているからで、冒頭に述べたような、突然振り付けが思い出せなくなるような現象は、普段、「技の記憶」によって身体を動かしているのに、本番直前になって「知識や思い出の記憶」によって振り付けを思い出そうとするからではないだろうかと。
 これらの考えは、ぱっと浮かんできたもので、何の証拠もない憶測でしかないが、私は妙に納得してしまった。
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