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こちらの手違いで記事のアップロードが遅れました。申し訳ありません。
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 年間3万人以上にのぼる自殺について,政府が全国規模で意識調査を実施したところ,「今までに本気で自殺を考えたことがあるか」との問いに「ある」と答えたのは全体で19%いたそうです。職業別ではパートやアルバイトが26%と高く,年代別では30代が28%で最も高く,続いて20代が25%だったそうです。さらに「身の回りに自殺した人がいる」と答えた人は57%だったようです。

内閣府自殺対策推進室は「さまざまな経験をした年配の世代より、若い世代で自殺を考える人が多いのは意外だった」とコメントを出しています。

 

自殺をどのくらい切実に考えたか,ということや,いつ考えたかなどが読み取れないので何とも扱いがたいアンケートではあるのですが,5人に1人は自殺を考えたことがある,と。もう自殺サイトどうこうで対応しきれる問題ではなさそうですね。非正規雇用者の生活実態はもう嫌というほど判明していますし,一向に改善しないことも周知の事実化しているように思います。

 

推進室のコメントもなんだか能天気。若者の自殺願望の(極めて浅いレベル~極めて切実という幅がある中でも)高さはかなり前から指摘され,「命は大事だよ」キャンペーンのようなものも良く見ていたようにも思うのですが。

 

何より憂うべきは自殺した人がいると答えた人が57%いることでしょう。この情報からは。2人に1人以上は自殺した人が近くにいるんですよ。これはもう急務で解決すべき点ではないですか。確かに3万人,その関係をたどれば相当数の人につながり,その悲しみも深いことでしょう…

 

と,息巻いたところで,もう一つのこの調査の情報は,「3千人を対象にアンケートし,1808人から回答を得た」ということです。

3000人。3万人の自殺に対し3000人,そして沈黙が1192人。1808人の半数以上には身の回りで自殺者がいても(もちろんそれは悲痛なことですが),これを現代社会の病理と観るのは頼りないです。

 

逆に,こういう意識調査の前に既に自殺者の多さは何年も指摘されていて,かつ事実上過労死や,意思に反したものがあることも指摘されています。あっけらかんと死ぬ人間はそう多くない中,そろそろ本気で改善に乗り出すならば,こういう調査より先にやることがあるだろうが,と思いました。

 

情報を批判的に(嫌味に)観ることと,事柄を別の視点で見ることを,ちょっと思い出した今日の記事でした。

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 先週の記事からも察せられるとおり、最近言語学に強く興味を持っているので、今回もそのあたりの知識をひけらかして終わろうかと思う。

 五十音図というのは「あかさたなはまやらわ」の順番に並んでいるのだが、今までごちゃごちゃに見えていたこの順番の意味が最近分かって感動した。「あ」が最初なのはまぁ母音だからよい。問題は子音を伴った以下の順番である。
 先に基本的な述語を説明しておこう。子音というのは口の中のどこかの部位を使って息の流れ方を変えて音を調節して出しているのであるが、この働きを調音(母音に関しても調音という)といい。調音を行う部位を調音器官という。また、調音器官が同じであっても様々な音が出せることが分かる。子音の発音の瞬間に声帯が震えていれば有声音といい、息が鼻に抜けていれば鼻音という。
 まあ、理屈をこねるよりは実例を見た方が簡単であろう。五十音を順番に見ていこう。
 「か」…調音器官は軟口蓋。つまり、口の上蓋の柔らかい部分であるから奥の方。この軟口蓋と舌の付け根で一旦息を止めてから一気に解放するため破裂音と呼ばれる。また、声帯は震えていないので無声音。有声音は「が」になる。
 「さ」…調音器官は歯茎。専門用語としては「しけい」と読む。「し」のみ後部歯茎を使う。こちらは破裂を伴わず、狭い隙間を息が通って音を立てているので摩擦音。無声。有声音は「ざ」になり、やはりそのまま点々を付けた形になる。
 「た」…無声歯茎破裂音。ほら、もう分かってきたでしょ。有声は「だ」で、またしても点々の形。

 ここまで書いてきて疲れたので、「な」以降は来週にまわそうと思う。でも何となく「あかさたな」ぐらいまでの順番の意味は分かっていただけたのではないだろうか。それでは続きをお楽しみに。

 先週、文章中に「1/fゆらぎ」という単語を出したが、「ゆらぎ」に関して調べていく中で、面白いと思ったことがあったので、書いておこうかと思う。
 波の音を始め、風鈴の音や木々のざわめき、鳥のさえずり…「ゆらぎ」を感じることのできる音は身の回りに沢山ある。上記のような自然から生じる音は勿論だが、人間の心臓の音などにも「ゆらぎ」があるそうだ。新生児、乳児が母親に抱かれて安心するのは、心臓の音に「ゆらぎ」を感じるからだという。
 さて、このような「ゆらぎ」に対して感じる心地よさというのは万国共通のようだが、虫の音に関しては、日本人と欧米人で正反対の反応を示すらしい。日本人が虫の音、例えばスズムシの鳴き声を聞いて情感を覚えたりするのに対し、欧米人はその鳴き声を雑音としてしか捉えられず、いらいらするというのだ。
 これには、脳の構造の違いが関係していることが明らかになっている。直感的思考や、空間的機能に優れている右脳と、論理的思考や言語機能に優れている左脳。人は、「ゆらぎ」があるのとないのとに関わらず、音というものを基本的に右脳で処理しており、欧米人は虫の音を聞いたときも、他の音と同様に右脳が反応を示す。しかし、日本人は左脳が反応するという。これは、日本語が母音主体の言語だからと考えられているらしい。というのも、虫の音や川のせせらぎなどの自然音と母音の音の成分はほぼ同じであり、この共通性から、日本人は虫の音等の自然音を左脳で処理し、意味のある「言葉」、感情的な音として聞いているのだ。
 自然の音を左脳で聞く能力というのは世界的にも珍しいそうだ。この自然音を左脳で聞く能力が、日本人独特の情感、そしてそれを言葉で表現する俳句といった文化を生んだのかもしれない。
 言語の違いが音の受け取り方、音に対する感覚にも違いを与え、それが、文化に影響を与え、違いを生み、さらにそれがまた言語にも影響を及ぼして…このようなお互いの繋がりを感じるとき、また繋がりが研究等で明らかになったことを知るとき、私は面白さを感じるのだ。

「人の目に私の演技と映るものが私にとっては本質に還ろうという要求の表れであり、人の目に自然な私と映るものこそ私の演技であるというメカニズムを、このころからおぼろげに私は理解しはじめていた。」(三島由紀夫/仮面の告白より)

 

 私って何なのだろう。というある意味哲学的で高尚な、そして他のある意味では自我を見出せない幼い、感覚に時々襲われる。

 今こうして昔の自分を振り返ると、小学校に入る前、私は思った通りに行動したし考えた通りの言葉を口にしていた。しかし、成長を経て、知らないうちに「本音」と「建前」を使い分けるようになっていた自分に気づかされる。

 

しかも、それは表と裏の単純な構造ではないのだ。他人の前で本音とは裏腹の演技をひとつする、するとその後の私は演技をする前とは異なった人格を持っているのだ。ほんの少しずつ人格が変わってゆく。それはまるで、魚が体内に有害物質を長年かけて蓄積していくように。それはまるで、はじめについた嘘を守るために新たな嘘で塗り重ねていくように。

 

 そんな自分を嫌いになりそうにもなった。しかし、その人格変化はそもそも良いものなのか悪いものなのか。自分の力で考えて選択した演技なら良いのかなぁ。変化の速さが自身のついて行ける程度のものなら構わないのかなぁ。本音と建前両方の要素があってこその私なのかなぁ。

 

 たとえば、親の期待に応えるために演技をし続け、結果的に自分の意思を失ってしまうような「演技」ではない。思いやりから発したり、自制心から発したり・・・きっとコミュニケーションにおける演技は私を成長させるものだろう。

 

 自分に言い聞かせてみる。本質と演技が並走しているうちは大丈夫、本質をおいてけぼりにさえしなければ、むしろ有益なことかもしれない。

 こうやって言い聞かせている今の私も、やっぱり演技に過ぎないのかなぁ?
いつも思うのだけれど、通学路の駅のホームや改札までの道の風景って、登校、下校それぞれの向きではものすごく見慣れた景色になる。
だけど一度何かの拍子に逆の方向の使い方をする、つまりいつもは電車を降りてくる所を電車に乗る所とする、そういう時、ふと違和感を覚える。見慣れた景色のはずが、あれ?ここどこ?と一瞬きょとんとしてしまうのである。もちろん、周りに悟られないくらいの、びっくりな顔であるけれど。
いつも電車を降りるホームは電車がある状態や対岸に見える状態のものであって、電車のない状態でまさに突っ立っている場所ではない。
反対に、いつもは電車に乗る方のホームに降り立っても、ぱっといつもの風景と合致しない。
これは、何らかの形で私が"いつもの風景"を"自分流"にしてしまってるからではないかと思う。つまり、まさにそのまま、"一方向"からの風景に慣れてしまって、その気は無くとも、その一方向を自分の中で定着させてしまう。
それは、物事を覚え、理解するには必要なことであり、日常生活を送る上で必要な手段であるのだけれど、やはり同時に固定観念のようなものが生まれてしまうようだ、と、見慣れた私流のホームに立ちながら思ったのでした。

「ちょっといいことをした気分」のように、軽い意味でつかわれる「イイコト」という言葉がある。それが指し示す内容は場面によってさまざまだが、例えば「お年寄りに座席を譲る」といった行為が代表例だろう。

バス通学の私は、毎日のように「イイコト」の交錯を目にする。満員のバスの中で、乗客は少ない座席を譲り合っている。その多くは、たしかに素直な気持ちで「良い事」として受け止められる行為である。しかし、「イイコト」を逆手に取ったり、「良い」かどうかとは別の思惑を持って「イイコト」を為したりというありさまが散見されることもまた事実である。

いちばんよくあるのが、「イイコト」をして優位に立とうとする行為である。座っていたお年寄りが、同い年かいくらか若く見えるお年寄りに席を譲ろうとする。「けっこうです、ありがとう」と言われても、強引に座らせてしまう。譲られたほうが申し訳なさそうな顔で小さくなって座っているその横で、「イイコト」をしたお年寄りは誇らしげな顔をしている。

また、その逆もしばしば発生する。お年寄りには違いないけれどまだ十分元気に歩いているような人が、そこのけそこのけと言わんばかりに立っている乗客を押しのけて空いた座席に直行する光景をよく目にする。若い人が座っている席の横に立って、「どこに座ろうか」とつぶやいている人もいる。先日見たのはこんな一幕だった。途中で乗ってきたお年寄りの女性が、後部座席にいた若い女性に自分から声をかけて席を譲ってもらった。曇った顔で立ちあがったその若い女性を見ると、彼女は明らかに妊婦だった。

「お年寄りに席を譲る」ことは、行為そのものを純粋に見れば、すばらしいことに違いはない。しかし、いったん「イイコト」といて定型化すると、それは複雑な意味を含んだある種の象徴記号として働き、人々の行動に別な影響を及ぼしうる。そうなると、もはや「イイコト」は「良い事」ではない。

そもそも善悪というものは、理性や道徳を持ち出してもそう簡単に判断できるものではないし、できたとしても大変デリケートな問題である。私が目撃した最後の例も、一筋縄ではいかないとても難しい問題を孕んでいると思う。型にはまった「イイコト」はわかりやすい反面、あぶなっかしい一面を持っていることも忘れてはならない。

私の場合は、座席が埋まっている状態でお年寄りが乗ってきたら、黙って席を立つようにしている。何が良い事なのか、もう少しよく考えてみないことには、私にはわかりそうにない。

  今年の大型連休は飛び石の休みでしたが,みなさん多様な(多用な)休日を過ごされたことと思います。私は,連休の後半は京都に帰って,農作業をしていました。

 

 私の実家の一つは兼業農家です。今の時期は家は農繁期,先日は苗代作りをしてきました。田植えをするには苗が必要,その苗は(最近では買う人も多いのですが)田圃の一部でまとめて大量に作り,育ったものを田圃全体で使います。その苗の育つ場所を作る作業でした。苗床となるケースに土を入れ,籾を蒔き,別の土で蓋をする。田圃の一部を区切って畦を作り,水を入れる。畦を耕して平らにして,ケースを並べる。新聞紙を被せ,寒冷紗をかける。これだけの作業です。一日がかりです。日ごろ慣れない都会っ子には田圃の中で歩くだけで筋肉痛です。日ごろ慣れない都会っ子には出てくる虫の名前すら分かりません。

 

 ところで,農作業が「スローライフ」として,定年後や脱サラした方々に人気というのは続いているんでしょうか。分刻み,競争激し,心磨り減る毎日から開放され,自然の下自給自足の素朴な生活…。文字通り,牧歌的生活(畜産業だが)。私も手伝うようになるまでは同じように考えていました。しかし,やってみると,やはり,牧歌的なイメージに留まったものだったんだな,と考えるようになりました。

 

 まず,けっこう時間はシビアです。分刻みとは言いませんが。けど,期日に追われるのと,案外大差ありません。「今日中に耕しておきたいのに!」って日に雨が降ったりします。競争はどうでしょうか。出荷するとしたら中国やアメリカの安い農産物と勝ち目のない価格競争がある,ってところでしょうかね。人的な競争は少ないか。何より実感するのは,どこかの時点でいきなり農業を始めた人が自給自足でやっていくのは極めて困難,ということです。父の言葉に,「道楽で農業をやってる」「農業やるために働いてる」というものがありました。それなりの規模しか持たない場合,自給自足するにしても,その生産費はかなり嵩みます。作る段階で必要な資金は?農産物を売っても足りないゆえ働くしかない,となるわけです。自給自足をできるのはある意味「富農」なわけです。死語?

 

 農業自体は魅力にあふれています。面白いです。時期によって変わる風景を楽しんだり,辛い赤唐辛子としし唐を一緒に作ると辛くない赤唐辛子が出来たり(笑)世間事情が分かったり(笑)虫や蟲や猿などと真剣に争えたり(笑えない)。スローライフを期待したら案外生きにくいスタイルかもしれませんが,都会人特有の牧歌をやめて,農村の歌を歌えるようになれば,本当に楽しめるかもしれません。私もまだまだ修行です。

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