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黎明の面影
山々の群像を背に
蠢く類人猿
空には鉄の塊
その下の平和
これは一体何でしょうか。詩でしょうか。分かりません。少なくとも書いた人間は適当に思った語を並べただけです。書いた人間は詩のつもりではありません。山の見える都会をちょっと綴ってみただけです。普段とは違う言葉で。「いや,これはまさに詩だ。訴えかけるものがある」とお思いの方,ご一報ください。
詩人とそうでない人の差はなんだろうとよく考えますが,詩が何か,もよく考えます。「詩は難しい」とか「詩って哲学的でかっこいい」とかいろいろ聞きますが,どうもピントが合わない。詩人の目線はあくまでその他と同じ「真実」(これが何かも怪しいですが)を見ていると思います。ちょっと違った角度から見ているだけ。もしくはちょっと極端化してみただけ。シュールな詩も,それが理解される以上非シュール(現実的?)なものと関わりがあるはずです。理解されうるものなら。日常を描いても詩にはなりません。例えば,
昔から変わらない姿の
山々をバックに
人々が活動している
空に飛行機が飛ぶ
その下にみんな住んでる
これは詩でしょうか。さっきのと同じ光景を書いてみました。これでもまだ詩という人がいるかもしれません。ダメ押しの例を挙げると,
なんとなく
行を分けると
詩っぽく
みえるよ
これは詩でしょうか(笑)これはだいぶ否定的に見られるでしょうね。日常をそのまま描いたり,形式だけとってみても詩にはならないということです。さて,詩とは何か。哲学的思考と両立しないという論を唱えた人もいる詩。でも人間存在の謎に感性は迫れないものなのでしょうか。そんなことはない。日常にこそ何かヒントがあるはず。その日常を違った形で捉えるきっかけに詩はなりうるはず。別に公表しなくても完成しなくても,詩の見方をちょっととってみたら発見があるかもしれない,そんなことを考えてしまいます。
ところで校歌なるものは、日本以外の外国ではあまり見られない風習だとか、どこかで聞いた。セレモニーに歌を、というのが和歌の伝統を引いているのか、などと穿ってみたりもしたが、国歌が世界中にあることを考えると、そういうことでもなさそうだ。
校歌の定石としてその土地の風景なんかを織り込むことが多いようだが、日本ほど"ご当地もの"を大切する国柄も珍しいと、これも何かの本で読んだ。例えば私の育った土地であれば、盆地なので「四方の山並み麗しく」といったフレーズが入ってくる。愛郷心、というのだろうか、さと(里、郷)単位での帰属意識というのは、他の国に比べて強いのかも知れない。
それと、学校自体を故郷と捉える風潮も強いように思う。「母校」という言い方が象徴的だと思うが、学校は社会(=父)の対極にあって、児童/生徒を保護し育てるものというニュアンスが強い。保護はしばしば束縛に感じられるが、卒業式が終わって学校に行かなくてもよくなるとどうして良いか分からないというあの感覚はやはり<母>の喪失である。
失って初めて分かる有り難みというものがあるが、卒業式というのは母校が<父>を招来する最後の教育であると思う。気取って言えば。
今日、歯医者に行って、親知らずを抜いてきた。完全に生えきっていない歯だったので、どうなるかと不安だったが、思っていたよりもあっさりと終わり、全体の診療時間も30分程度の短いものだった。現在、だるさは多少残るものの、特に痛みもなく、ほっとしている。
さて、親知らずとは、第三大臼歯の俗称であるが、何故、親知らずと呼ぶのだろうか。
通常の永久歯は乳歯が抜けた後に生えてくる。乳歯を永久歯の「親」と考えると、第三大臼歯には対応する乳歯が存在しない。だから、第三大臼歯を親知らずと呼ぶのだと、私自身は考えており、また、それが正しいだろうとも思っていた。
しかし、インターネットで検索してみると、どうやら違うようだ。親知らずの語源は様々な説が存在し、私が考えていた説もあるにはあるらしいが、現在最も有力とされているのは、昔の人間は現在よりもずっと短命で、第三大臼歯が生えるのは、多くの場合、既に親が亡くなった後であったからだという説らしい。
言われてみれば、成程と思えるが、人間の寿命は80歳程度までとされている現在、私にとっては意外な説であった。これを機に、日常で何気なく使用している言葉の語源を調べてみるのも面白いかもしれない。
ちなみに、親知らずのことを、英語ではwisdom toothといい、これは、親知らずが、物事の分別がつく頃に生えることからきているようだ。また、韓国語では愛の歯と呼ばれ、こちらは、親知らずの生える時期は、異性に対する関心が高まってくる時期であることと、親知らずが生えるときの痛みが、恋の痛みのようであることからきているらしい。言葉というのは、やはりその国の文化や考え方の影響を受けて形成されているのだろう。語源を国毎に調べてみるというのも面白いと思った。
卒業・入学・進級・就職・・・夏秋冬と一巡りして迎える春というのは何か特別なものがある。
私も昨日は大学の合格発表の日だった。たとえば私がそうしたように、ちょうど去年の今を思い出したり、今まで歩いてきた道を振り返ったりと、多くの人はそうするのかもしれない。
秋のある日この文芸誌にお礼と別れを告げて以来しばらく、きっといろんな人がこのサイトを訪れそうしてまたこのデイリー孝太郎に私の知らない(知っているかもしれない)人々が素敵な文章を綴ってくれた。その期間はまるで私の中の空洞のようでもあったし、一方で私を形作る根源的なもののようでもあった。時が流れているのか私が年代記の中を歩んでいるのか時が一定の尺度なのか、そんなことは分からないけれど、一巡を終えたこの春に時を経るという一種の無常を感じている。そしてまたこうやってデイリー孝太郎の原稿を前にしてつらつらと、時にはうんうんと唸りながら筆を進める喜びを噛み締めている。
春というのは秋の切なさや冬の寂しさをも超えた、あるいはそれらひっくるめたノスタルジックな季節なのだろう。出会いと別れ、生と死、暖と寒・・・マーブル模様に混ざり合う対極が織りなす春の色にはいつも胸を締め付けられる思いがする。きっとこんな時、「よし、頑張るぞ。」と思えば春風は背中を押してくれてしゃんとさせてくれるし、「ありがとう、楽しかったよ。」と思えばほのかな花の香りが涙を誘ってくれる。「何でもいいんだよ。」と私の肩の荷をそっと降ろしてくれる春さんはなんとも不思議な御仁だ。
本当は今日の記事は優しさについて書くつもりだったのだが、気付けば春さんに流されていた。まぁ、それもいい。
この間、私は友人たちと人生について考え、朝まで大いに盛り上がった。と言えばなんだかかっこよく聞こえるが、ただ単に人生ゲームを楽しんだだけである。結婚したり家が燃えたり株が暴落したり・・・。ちなみに私はあのくるくる回すやつが上手く回せなくて皆に怒られました。
ということで、結局まだ早寝早起きの規則正しい生活は実行されていません。再び反省。
みなさんも徹夜の経験は一度や二度あると思います。時間も気にせず遊んだり、時間に追われて作業したり。
夜といえば、夜更かしをしていたらおばけに連れ去られてしまうという絵本を思い出します。真っ黒な下地に貼り絵で夜の動物やおばけ、子供が登場します。夜起きているものは悪いものばかりで、最後には夜更かしをしていた子供をおばけが連れ去って終わります。
改めて考えるとかなり怖い話です。夜更かしはいけないことだと教えるために、おばけに対する恐怖心を利用する。
この絵本は、夜更かしはいけないことだ!と頭ごなしに言うのではなく、子供に夜更かしはいけないことなんだと理解させようとしています。
このご時世、子供を叩いて言うことを聞かせるのであれば、一緒に絵本を読んでわからせるほうがよっぽどスマートな方法だと感じますね。
子供を育てるのは、様々なことを通して得られる知識だけではなく、知識からの自由な想像力なのかもしれません。
みなさんも夜を徹する時は、おばけなんていう存在を想像してみてはいかがでしょうか?
「ねないこ だれだ」
作・絵 せな けいこ
福音館書店
3月9日です。レミオロメンの歌に「3月9日」ってのがありますよね。いや、別に僕は歌わないですけど。
それにしてもどうして3月9日なのか?と思って調べてみると、なんでもレミオロメンのメンバーの共通の友人の結婚記念日なんだそうな。
何かもっと深い意味がある日付なのだろうと考えていたので少し拍子抜けしましたが、友人記念日のために歌つくるってのはなかなかいい話ですね。
しかし、それを知るまでは、3月9日はなんの日だろう? 季節の変わり目か? とか、合格発表とか卒業式とかか? なんていろいろ考えてしまって、結局、どれも違いそうである、たぶん作った人にとって特別な日なのだろうけど、でももしかしたらあえて「なんでもない」日にしてあるのかもしれない、くらいに思った私は、すぐさまディズニー映画「不思議の国のアリス」の中でいかれ帽子屋たちが「なーんでもない日ばんざい!」と「unbirthday(生まれなかった日)」を祝って歌っていたのを思い出した。(わからない人、ごめんなさい)。
レミオロメンのメンバー周辺では3月9日は上のように特別な日だけど、私にとっちゃあなんでもない日なんです。だけれども、そんな歌があって、何の日かな?とか考えているうちに、あまりなんでもないこともないような、そんな気がしてきた。
ちょっと好奇心から「マックスウェルの悪魔」について最近考えていました。物理学的に,あらゆるもののエントロピーは増大する。水に落としたインクは例外なく拡散して均一になろうとする。分子は確率が最も高い形になろうとし,それゆえアトランダムな形になる。分子が矢印のような形だとしたら,一方向を全部が向く確率は場合の数も一通りくらいになるが,それに反する矢印が増えるほどその場合の数も多くなり,結果矢印を自由にさせておくと全部があらゆる方向を向くことになる,そんな感じの事柄を見つけました。
これは同時に人間社会にも当てはめようとできるようで。意見を話してもみんなが自分の考えと同じように考えてくれる確率は経験的に低いと分かっていますが,これも「全員の意見が同じ」状態はエントロピーが低いということになります。
そこでマックスウェルの悪魔。悪魔に力はありません。悪魔がいるところに窓のようなものを想定し,分子が移動する時,特定のものが来た時だけ通し,あとはシャットアウトする,それができるだけの存在です。これがいたらエントロピーを減少させる事象が可能になるわけです。インク分子だけ通せば水とインクを分離できたり,温度の高い(運動量の多い)分子だけ通せばお湯を水と熱湯に分離できたり。一応,仮定の産物ですが,この存在について考えていくことはある物理学者曰く「救世主となりうる」そうです。よく分からなかったので私はこれ以上このことは触れません。
「話しても分かる人と分からない人がいる」っていうのは世の常套句です。全員の納得を求めようとしても,母数が増えるほど難しくなります。もしマックスウェルの悪魔がひょんな調子で働いたなら,突如として意見が一方向に揃う,ってこともあり得ますが,「真理」とある人が考える,多数の人が考えるものでさえ揃わない。不思議です。
それでも,小集団においても,諦めない人は諦めず言葉を発しています。世の常と考えてもっと効率のいい手段をとる人もいます。どちらがいいとは判断しませんが,エントロピーの少ない自然状態に負けておれず,悪魔まで生み出して,一致を求めること,平和など切実に願う人などはとくにそうあるというところに人間臭さというか,はかなく強い熱情というかを感じています。