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しかし、先日、ある特定の授業というわけではなく、学校全体の生活に停滞した空気が流れていて、教師に対する生徒の反応だけでなく、生徒の発言に対する教師や生徒の反応も鈍いような学校も存在するという話を聞いて非常に驚いた。
そもそも、あの一種独特の停滞した雰囲気というのは、どのようにして生まれるのだろうか。
その原因は、コミュニケーションにあるのではないかと思われる。例えば、友人との会話では、自分から発言すると、友人からの反応が何かしら返ってくるものだ。その反応に対して自分もまた反応を返して、やり取りを繰り返す。こうしてコミュニケーションを行うことで、お互いの間に信頼関係が築かれていき、同時にまたコミュニケーションを行おうとする意志も生まれる。しかし、ここで自分が発言してもあまり反応が返ってこない場合はどうだろうか。相手からの反応が返ってこないと、自分から相手に働きかけようとする勇気や意志が少しずつなくなっていってしまうのではないだろうか。
授業でも同じことで、教師に対する生徒の反応が薄いと、教師の働きかけも次第に薄くなっていく。そうなると、その薄くなった教師の働きかけに対する生徒の反応は更に薄くなっていき、あの授業の停滞感は生まれるのだろう。
私たちが今まで学校生活において自発的な発言や行動をしてこれたのは、相手や周囲は必ず自分に対して反応を返してくれるだろうという安心感があったからこそなのだと初めて気付いた。この安心感を生むのが、日々のコミュニケーションの積み重ねなのだ。教育において、コミュニケーションは重要性が指摘されている。それが何故かなんて今までいまいち深く考えてはいなかったが、これも重要視される理由の一つではないかと思った。
ところで先日、小・中学生の某塾での試験の監督に行っておりました。その時つくづく思ったのです。私もあの時はこんなに小さかったのか、と。小学生はもちろんのこと、中学生って、あんなに小さいものだったのか。
私も短期間ではありますが、中学受験科の大手学習塾へ行っていたことがあります。あの時、私もこんなに小さかったのです。今となっては考えられません。
そして私の、平均より多いと思われる、塾や予備校経験をふと振り返ってみて、これからは中学受験科の学習塾がまだまだ伸びるのだろうなと思いました。
私の場合、中学受験科の学習塾が一番短期間で高額な投資だったように思われます。そして実際、まだ少し需要も供給も規模が小さい中学受験科の学習塾が、一般的に見ても高額である気がします。
冷暖房完備のゆとりのあるスペースでゆとりある人数で月に何度もある白い紙でのテスト。
小・中・高と進学するほどに、受験競争も加熱し市場の需要・供給が増えていったは良いけれど、設備の面でのみ見ると、やはりどうしても小学生の頃の某大手学習塾がトップだったと思われます。
これから受験競争は更に低学年化していくのでしょう。今現在、高額ながらも投資する親たちがこんなにいるのです。まだまだこの市場は伸び盛りであります。
それに伴い、設備も劣化するのか否か、それは私にも予想できないのですが。
「のりをこえる」ような行動を最近皆さんはとられたでしょうか。のっけから異常なことを伺うようではありますが。とられた方もそうでない方もぜひ漢字で表記してみてください。
孔子に思いを馳せた方なら、きっと正しい漢字が思い浮かんだことでしょう。吾十有五而志於學 三十而立 四十而不惑 五十而知天命 六十而耳順 七十而從心所欲 不踰矩
という一文。懐かしいですね。最後の一文から分かるように正しくは「矩を踰えず」ですね。あ、書けるか、とおっしゃいますか。同感です。筆者も書けませんし、普段から書きません。
この言葉は、「範を超えず」と書く人も少なからずいるようです。こえる、の漢字表記がいろいろあることはもうツッコみません。重箱の隅に笑われますので。でも「のり」にはツッコミを入れようかと思います。ノリツッコ(略)
「矩」は、調べてみると元々は古くから使われた定規、直定規のたぐいに端を発するようです。孔子は「道徳律」の意味で用いていると解釈するのが通説のようですが。角度など幾何学的法則に基づいた秩序を測る「矩」、道徳律も要するに「真理」という意味で用いられているのでしょうね。
一方「範」は、ご想像通り「手本」「規範」です。これは先人の為した事柄を基準としているわけです。「〜であるべきである」を示すものが「範」。
「のりをこえるような真似はするなよ」と言われたときは、相手の漢字がどちらかを確認するくらいの方が良さそうだなあなどと考えました。「矩」ならば、人間たる根本から外れるなよ、というわけで、これは是非その通りにする方がよいでしょう。ここで「範」。この場合は「先人の示した規範の示すあるべき姿から逸脱すんなよ」という意味が濃くなるでしょうか。これは、釘を刺すというよりは皮肉とかアイロニーとかが存分に込められた風に筆者は捉えています。上から目線な言い草、という風に。かつ、先人の範疇に(あ、これにも範が)留まることをダイレクトに要求していてなんだか嫌です。
いずれの指摘も、「話し言葉の間は全く役に立たない」議論でして、ここまで読んできた皆様を相当に裏切っていることは自覚しています。すんません。「範を超える」が常用されるのは、なんだか事なかれな印象があります。漸進していくには、「矩を超えず範を超えて」いく気持ちもいるかなあ、というのが残った雑感です。
イタリアのサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に日本人が書いた落書きが問題になって、「日本人て落書き好きだよねー」的な論調で、ちょっと前の東大寺の落書きなんかも掘り返しつつ語るニュース番組を幾つか見たが、確かに落書きというものは日本文化の一部とでも言ってしまえそうな気がするのだ。むろん誇れた文化ではないにせよ。
日本の都市景観には広告が溢れている、というのはよく言われるところではなかろうか。ビルの外壁、電信柱、ありとあるスペースが広告として活用され、どこに目をやってもうるさい広告から逃れることが出来ない。そんな中で、絶対に広告を載せられない場所が日本にもあって、それが文化財というわけなのだが、広告の嵐に慣らされた身にしてみれば、綺麗な文化財は「残すべきもの」というよりは「空いているスペース」としてまず映ってしまうのである。そこに落書きしたい、自分でも何か人目に触れるところに残してみたい、というのは必然的な感情であるように思うのだ。落書きは決して正しくないが、スペースに所有権を持つ日本の権利者の美的意識というのも一度問い直してみたいものだ。
日本でブログが流行るというのも、同じ文化に根ざす現象であると思う。日本に物理的なスペースは少なくても、ウェブ上であれば比較的空いている。だからとりあえずサーバを借りて、人に見られる場所に文章を残してみよう、と思うわけだが、その動機は自己表現の欲求というよりは、もっと低次の渇望に似た何かであろう。一度満たされてしまえばその欲求はしばらく満たされていられる。日本人のブログが続かない理由もまたそこにあるのだ。
参考:http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0807/04/news050.html
名前
人間は森羅万象すべてに名前を付ける。生まれてくる子供や家族の一員であるペットはもちろんのこと、新しい生物や成分が発見されれば、それに命名する。学術上では舌を噛みそうになるラテン名をつけたり、自分の名前を入れ込んだりする。人間は名前という道具を用いて、意味を付与せずにはいられない生き物なのだ。
たとえば、動物は門・綱・目・科・・・と徐々に小さいグループ分類されている。確かに、同じカテゴリーに入る動物たちは見た目や構造であったり、習性であったりが互いに似通っていて、それゆえに「仲間」としてグルーピングされていく。しかし、グルーピングの客体はこの世に存在するものすべてであるのに対し、主体はホモサピエンスサピエンスただ一つだけなのだ。我々の知性が至高のものだと誰が決めたのだ?それも、我々が勝手に思い込んでいるだけのことだ。我々が用いる分類は、たしかにもっともらしい方法に見える。しかし、それは「もっともらしい」に過ぎないのだ。生物a,生物bはそれぞれ固有の特色を持つものであって、それが一見して似ているからという理由だけで、親戚にされてしまうのは、彼らにとってはいい迷惑かもしれないということだ。
「ある物」にAという名前を付けることで、それはもうAでしかなくなる。「ある物」には固有の具体的な特徴が山ほどあるが、名前を得たことでAでない要素はそぎ落とされて、「ある物」はAという性質のみを残す。つまり、命名によって具体の「ある物」から抽象のAへと変換されるのだ。
我々は文字にして、ことばにして、「ある物」を残しているとすごく安心するのだ。なんだか分からないものほど気持ち悪いことは無いからだ。しかし、「ある物」は名前と引き換えに多くのものを失っていることを忘れてはならないだろう。これが「言葉だけでは分からない」とよく言われる所以であろう。
宮本輝の『蛍川』を思い出した。思い出したので、せっかくだからデイリー孝太郎の原稿に使おうと思って書棚を探したけれど、なぜか持っていたはずの『蛍川・泥の河』(新潮文庫)が見当たらない。そういえば、去年か一昨年か、友人の誰かに貸したのだった。誰に貸したか覚えてないのが我ながら間抜けだ。持っている人がいたらそろそろ返して下さい。
『蛍川』の主人公は小学校高学年くらいの男の子だったと思う。名前は覚えていない。彼には憧れの少女がいる。彼よりもいくつか年上だったか……?名前ははっきりと覚えている。英子という。
この作品の最後のシーンは、主人公が英子や家族と連れだって蛍を見に行く場面である。場所は田舎のあぜ道である。このクライマックスを私は忘れることができない。英子の体に蛍が一斉に群がる。英子は声をあげて払い落そうとするが、蛍は次から次へと飛んでくる。そして、漆黒と静寂の中に、英子の体の形そのものが蛍の光によって浮かび上がる。それは実に幻想的で、かつ不気味で、それでいて極めて官能的な光景であった。私は主人公の少年とともに息を呑んだ。
この描写によって作者は何を表現しているのか、と問われれば、おそらく「主人公の性へのめざめ」というようなのが優等生の答えだろう。たしかにそういう面は大いにあるし、少年の成長過程こそが、そもそもこの小説の大きな主題であったはずだ。しかしそれだけで片づけてしまってはなんとも味気ない。作者・宮本がなぜ蛍を使ったのかということを考えれば、私が前述したような、蛍の持つ幻想的で不気味な雰囲気、あるいは「蛍」の筆者が言うような「不安」感や「落ち着かない」感じに大きな意味があるからであろう。「蛍」の筆者が述べるように、蛍に趣深さなどない。底知れぬ切迫感、危機の前兆、残虐への衝動……静かに灯る蛍の光にはこういった「きもちわるいけどなんかきもちいい」言葉が似合うと思う。
本が返ってきたら、もう一度ちゃんと読み返してみようと思う。
空を見上げても星の見えない世間に暮らすようになってきました。いや隠喩ではなくて文字通りの意味で、です。現在一人暮らししている場所は高校時代まで住んでいた場所よりも星が見えないんです。悪いときは一つも。一番星を見つけるのに血眼になります。健康に悪い。
今の時期、何の星座が見えるのだろうなと聞かれても答えられそうにありません。夏になったら見えるであろう星座や、十二星座の位置とかも思い浮かびません。それ以前に宵の明星や北極星すらも見えないのですから、基本的に星文化というもの自体が天の彼方へ離れていってしまいそうな印象があります。そのうち酷くなると星座占い自体が動物占いの変種のようにみられるかもしれませんね。
星空はプラネタリウムや本の上や望遠鏡や、もしくは「それ専用の」場所でみるものに、既になっている場所もそう少なくはないでしょう。かつて普通にいた動物を動物園に見に行って勉強するのと同じ感覚で、星座やその他星空に関わるを見に行って勉強するものになっていく状態。
だから街灯を消せ、と言ってももはや詮無きことだから、普段無視されて、ホタルの季節くらいに年中行事級に繰り返されるのが現状とも思います。ただ、それでも次世代に星文化を教えるならば、ある程度我々くらいは覚悟しておいた方がいいだろうなあと感じるのです。